ONLY ONE〜できること〜 #30

第4章 迷宮の行方  4.UNDER ZERO act2


 高橋が連れて行ったのは豆腐専門の料理店で、席はそれぞれ座敷の個室となっていた。案内された小さな部屋は、多くても四人で精一杯だろうというほどの広さで居心地がよく、京風の上品なメニューが次々と運ばれてきた。
 その間、高橋はこれまでのように主導権を握って話題を提供し、そのぶん昂月は高弥とのことを考える間もなく離れられて、思いのほかリラックスできた時間となった。

 二時間ほどして昂月と高橋はタクシーでホテルに戻った。
「ごちそうさまでした」
「あー……もうしばらく話し相手になってもらえないかな」
 ホテルのロビーに入ってから、ご馳走(ちそう)してもらったことへのお礼を昂月が伝えると、高橋は頼んでいるとは思えない強引な口調で云った。
 昂月は立ち止まって、窘めるように高橋を見上げた。
「すみません。反省しました」
 すかさず、高橋はわざとらしく眉間にしわを寄せてホールドアップした。
「男の人ってあんな上品なお料理じゃ、お腹いっぱいにならないんですね」
 そのおどけたしぐさが可笑しくて昂月は思わず笑った。
 高橋が背中を押して先に進むように昂月を促す。
 数歩歩いたとたん、再び昂月の足が止まる。行き先を見た昂月の瞳が大きく開いた。
 合わせて高橋もまた立ち止まり、昂月の視線を追う。
「……二重の意味でね」
 昂月は無理やり視線を引き()がして高橋を見上げると、その口もとが何か意味ありげに笑みを浮かべている。
「え?」
「失礼。まだ世間を知らない学生さんに云うべきじゃなかった」
 高橋は昂月に目を戻した。
「あれは……彼?」
 その言葉に反応して昂月は再び前方に目をやった。

 高弥が目を細め、伊達眼鏡越しに痛みを感じるほどまっすぐに昂月を見つめている。
 昂月と同じようにしばらく立ち尽くしていた高弥だったが、ふと我に返ったように歩きだした。
 真貴と話したあと、カフェで帰りを待っていた高弥は、昂月の横に立った男が目に入ると同時に忘れかけていた不快さを感じだした。それに輪をかけて、おそらくはそう知っているわけでもない男に向け、昂月が無防備に笑みを見せていることに苛立った。

「……来てた……の?」
 少し手前で止まった高弥をおずおずと見上げて昂月は訊ねた。
 高弥は少し首をかしげてかすかに顔を歪めた。
「来てって云ったのは昂月だろ?」
「……うん…ごめん……」
「何してんだ?」
 責めるような口調で高弥が問い(ただ)すと、高橋が答えにまごついている昂月を(かば)うように一歩踏みだした。
「僕が昼食に誘ったんです。強引過ぎました。申し訳ない」
 謝罪を口にした高橋を怪訝な顔で高弥は見返した。
「高橋です」
 昂月に自己紹介したときと同じように差しだした高橋の手は無視され、
「……伊東です」
と、高弥はそれだけ応じて顔を背けた。
 気まずい空気が流れる。
 それからすぐ、再び昂月に目を向けた高弥の表情は、その瞳からさえ何も読み取れないほど冷めていた。
「用は何?」
 答えようがなくて昂月はただかすかに首を横に振った。
「……わかった」
 何がわかったのか、高弥の声には冷めた表情とは裏腹に痛みが見える。
「……ごめん――」
「昂月、外に出よう」
 謝罪は聞きたくないとばかりに、昂月には最後まで云わせないまま口を挟むと、返事も待たずに高弥は出入り口へと歩きはじめた。
 断る間も与えられなかった昂月は、
「じゃあ、今日はありがとうございました」
と高橋に一礼してすぐさま高弥のあとを追った。
「昂月さん、大丈夫ですか」
 高弥の様子を見て心配したのか、高橋が昂月の背中を追うように問いかけた。
 昂月が止まると同時に、その言葉の意味に反応した高弥も立ち止まって振り向いた。
「おれが昂月を傷つけるとでも? ドライブに誘ってるだけですよ」
 (とげ)のある声で云い放ち、高弥は寄り戻って昂月の手を取った。
 足早に歩く高弥に引かれながら、昂月はチラリと振り返って高橋に()びるように小さく会釈した。

「高弥――」
「嫌って云ってもいまはきかない」
 小走りでついていく昂月が呼びかけると、取りつく島もなく高弥がさえぎった。
 地下の駐車場へ行き、車に乗り込んでエンジンはかけたものの、高弥はハンドルに右手をかけ、背もたれに寄りかかって前方に目を向けたまましばらく微動だにしなかった。
 高弥が自分を傷つけるなどと、昂月は少しも疑っていない。逆はあっても。
 ただ、こんなふうに怒っている高弥ははじめてで、昂月は口を開くのも怖くて、ふたりが付き合うようになった当初の頃のように硬くなっていた。
 高弥は高弥で、これまで感じたことのない隠しきれなかった苛立ちを処理しようと考え巡った。苛立ちがなんなのかははっきりしている。
 しばらくして高弥は大きくため息を吐きだす。気が治まったのか、ふっと笑みさえ浮かべた。

「悪かった。心配したんだ」
「……うん」
「おれは昼を食べる気が起きないくらい苛々してるのに、当の本人は優雅にどっかの知らない男と食事だろ? おれはまた“親切な森の熊さん”にお礼を云うべきだったのか?」
 そう云った高弥の声には責めるのではなく、からかっているのが感じ取れて、昂月はやっと肩の力が抜けて笑った。
「ちょっと……ホテルのバーに行ってみたら、話しかけられて――」
「バー? 一人で?」
「……好奇心」
「まさか、お酒を飲んでないだろうな?」
「ううん。ジュース」
 昂月が云いきったにも拘らず、高弥は怪しいとばかりに目を細めた。
「えっと……少しだけ飲んでみた」
 昂月が白状すると、呆れたのか、高弥はハンドルに顔を伏せたが、やがてその姿勢のまま笑った。
「ホテルのバーだから心配ないとは思うけど……けど、やっぱり許したくない。行きたいときは云ってほしい。付き合うから」
 高弥は顔を上げ、わかった? と問うように昂月を見やった。
「でも仕事が忙しくなるし――」
「融通する」
「お酒、飲んでもいい?」
「二十才になるまでだめだ」
「あと一カ月なのに高弥って堅物」
「これでも法律に(たずさ)わろうとしてたんだけどな?」
「お酒飲むとよく眠れたの」
「揺りかごになってやる」
 高弥は頭の回転が速いということを見せつけるように隙もなく応酬した。
 だんだんと雄弁になってきた高弥には敵わないと抵抗を諦め、昂月はため息を()いた。
「法律っていえば……高弥は大学はどうするの?」
「卒業しようとは思ってる。その時期を含めて、いまいろいろと考えながら探ってる。仕事を理由に中途半端な卒業をしたくないんだ」
「高弥らしいね」
頑固(がんこ)だって云いたい?」
「ううん、すごいなって尊敬してる」
「尊敬……か。それが本当なら何も悩むことないんだけどな」
 高弥が小さくつぶやいた。
 昂月が、え? と問い返すと高弥はごまかすように、なんでもない、と笑った。
「お酒飲む雰囲気が好きならFATEの飲み会に連れて行けばよかったな。そんな気分じゃないだろうと思って、ここのところは誘うのを遠慮してた」
「違うの」
「何が?」
「あたし……高弥は云ったよね……祐真兄を知ってる人はあたしとのことをわかってるって。あたし……怖いの。なんて思われてるのか怖くてたまらない」
 前を向いて本心をつぶやいた昂月の横顔を驚いて高弥は見つめた。
「あいつらはだれもおまえを責めてなんかない。むしろ、心配してる」
 昂月は首を横に振った。
「高弥は……身の回りがきれいだから……きっとわからないんだよ。あたしには……勇気がない」
 高弥は後悔を覚えて顔を伏せた。
「そんなつもりで云ったんじゃなかった。ラクにさせるつもりだったのに逆にプレッシャーをかけたらしいな……悪かった」
「高弥は悪くない。むしろ聞いてよかった。能天気で……取り返しがつかなくなってバカを見るより救われるから」
 高弥は右手を上げ、手の甲を昂月の左の頬に当てた。
「そんなふうに思う必要ない。戒斗はおまえのこともFATEに欠かせないって云ってる。あいつらを信じてほしい」
「もったいないよ。高弥には……」
「おれには何?」
「……ううん」
 そのまま、ふたりはしばらく黙った。
「昂月……ありがとう」
 高弥がぽつりと云った。
 昂月は高弥の手に預けていた顔を上げた。
「え、何?」
「ちゃんと話してくれてうれしかった。一つずつでも少しずつでも、クリアしやすくなるから」
 そんなことでお礼を云われるほどの価値は、昂月の中のどこにも見いだせない。
「云いたいことを云ってたら、あたしはどんどんわがままになる」
 半ば投げやりに昂月はつぶやいた。
「付き合うよ」

 どこまでも、どんなことでも?
 そう訊いたら、当然のように高弥はうなずくだろう。それに甘えられたらきっとらくになれる。
 現にいま、高弥がいるだけで、不安は拭い去れなくても落ち着いていられる。
 けれど、さよならをしたとたんに足もとが揺るぐ。安心するぶんだけ、やっぱり日増しに焦燥感は大きくなっている。
 自分の中のカオスを処理しきれるのなら、もしくは無視できるのなら、とっくに昂月は高弥に自分の全部を預けている。
 それができないうえで甘えてしまったら、いつの日か、自分自身に向かうわけのわからない衝動はきっと高弥に向かう。否、すでに向かっているのかもしれない。
 昂月がしなければならないのは終わりにすること。
 それを高弥が理解してくれないのなら、そう仕向けることが自分のやるべきことだと昂月は思った。

「昂月、祐真のCDを戒斗が手に入れてくれた」
 運転席と助手席の間のボックスを開け、高弥がCDを取りだして昂月に渡した。
 サブタイトルを見ると『妹』という言葉が抜けていた。それで安堵したわけでもない。
「聴いてみる?」
 昂月は首を横に振ってCDをボックスに戻した。
「嘘は……いらない」
「嘘じゃない。祐真が本気だったことはおれが知ってる」
「まだだめ……」
 祐真のことを打ち明けて認めたかわりに、空洞は空音(そらね)が満ちた。
「……わかってるつもりだ。急かしてるわけじゃない」
 高弥が再び頬に触れると、昂月は無言でうなずいた。
 そして高弥は手を離し、正面に向き直ってギアを動かした。
「腹減った。食べるのに付き合って。そのあとは――」
「ドライブ。好きだよね」
 昂月が引き継ぐと高弥は横目でちらりと彼女を見た。
「欲求不満を解消してくれるんだ」
 そう云うと、明らかに意味を深読みした昂月が戸惑っていると知り、高弥はニヤリとした。
「ドライブ、嫌い?」
「ううん……高弥の運転は安心していられるから好き」
「そういや、この車も揺りかごになってるんだっけ」
「……高弥って意地悪!」
 からかわれていることに気づいて昂月が口を尖らせると、高弥は笑って車を発進させた。

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