ONLY ONE〜できること〜 #29

第4章 迷宮の行方  4.UNDER ZERO act1


 ここ数日間そうであったように、夕食を一緒にとったあとに高弥は帰っていった。
 明日からライヴの音合わせがあると高弥は云った。それでも高弥は時間を見つけて明日もやってくる。
 すでに負担となった、どっちつかずの自分に嫌気がさす。
 昂月はベッドルームに戻ってライティングデスクの引き出しを開けた。
 見つけだして以来、気づけばこうやってその中身――昂月に対して明確に意思を示したMDを手に取っている。
『妹』
 昂月を前にして、けっして使われることのなかった言葉がいまになってここにある。何度見ても文字が消えることはなく、そのたびに覚えていくのは焦燥(しょうそう)と一切の儚さ。迷う理由にも意味さえ見つけられなくなっていく。
 ガラスを踏んだ足は昂月の体内から血の色を奪い、振り返って見える足跡はもとの色がわからないほど薄汚く乾いていた。

 あたしは信じたかった。
 汚くなんかない。でも。あたしは(けが)れてる。
 祐真は昂月の目の前に突きつけた。
 あたし自身が決めたことなら、ここまでつらくない……よね。

 静寂(せいじゃく)の夜の中で、窓に映った自分の姿は心そのままにぼんやりと佇み、昂月に孤独を伝えた。
 だんだんと自分の(みじ)めさが浮き彫りになってくる。動くことさえままならずに立ち尽くした、暗闇に透けている自分が無表情で見つめ返す。
 自分の姿に向かう破壊的な衝動が怖くなり、独りという孤独よりは、見知らぬ人に紛れた孤独のほうがらくな気がして、思いついたように昂月はバーラウンジへ向かった。

 こもった話し声と温かいオレンジ色の照明に迎えられるとほっとした。
 ここにいるだれもが自分のことを知らない。目に入ったとしても飾ることも隠すこともなく、昂月は素のままでいられる。
 このまえと同じ席がちょうど空いているのが目に入り、昂月は迷わずそこに座った。頼んだカクテルのモスコミュールが背の高いグラスに入って運ばれてくると、添えられたライムの香りがツンと鼻を刺激した。
 今日はピアノアレンジされたバッハの“G線上のアリア”が演奏されている。それだけで少し穏やかな気分になれた。
 グラスに口をつけ、一口だけ飲んでみると、思っていたほどアルコールも強く感じず、少しだけ甘さもあって飲みやすい。

「お酒、飲めるんですね」
 不意に知った声が降りかかった。
「飲める、というほどでもないんですけど」
 例によって、男は遠慮なく昂月の向かいの椅子に座った。
「しばらく見かけませんでしたね」
「まだいらっしゃったんですね」
 応酬すると男は愉快という言葉そのままに笑った。
「仕事ですよ」
「なんのお仕事ですか?」
「物書き、とでも云っておきましょうか」
「だから、なんですね」
 昂月は納得してつぶやくと、男はかすかに首を傾けて目を見開き、無言で問い返した。
「人を観察してるように見えます」
「うーん。そう感じさせるようでは僕もまだまだ、かな」
「詩を書く人を知ってるのでわかるのかもしれません。表現する人って観たり聴いたり、いろんな情報を仕入れようとしますよね」
 男は感心したように昂月を見て笑った。もしくはそう見せているのか。
「なるほど。ところでそろそろ名乗りませんか」
「そろそろ?」
 昂月が言葉の端を捉えると、男は参ったと云うように両手を肩まで上げた。
「明日の昼食、ご一緒にどうかと思っただけです」
「あたしはいい資料になりそうですか?」
「……正直に云うとそうです」
 男は困ったようにしながらも率直に認めた。
 昂月はくすっと笑った。
 居心地は決して悪くない。
 早く!
 そう自ら()かしていた昂月はようやくスタートラインに立てたのかもしれない。
「どういう資料対象として見られてるのか興味あります」
「それは受けてもらえたと思っていいんですよね」
「昼食の話です」
「もちろんです。僕は高橋、高橋州登(しゅうと)です。来月で三十三才になります」
 そう自己紹介をしながら、高橋は手を差し伸べた。
「神瀬昂月です。二十才」
「よろしく、昂月さん」
 高橋の『さん』という響きが新鮮で、昂月はなんの色眼鏡もなく、はじめて自立した一人の人間として受け入れられたような開放感を得た。
 握手に応じた昂月の手を包んだ高橋の手は、高弥の手より少し冷たい。
 そう思ったとたん、比べている自分に気づいて昂月はそっとため息を吐いた。
 約束を取り付けた高橋は少し砕けてウィットに富んだ話を繰り広げ、昂月もまたアルコールも手伝ってか、堅苦しい言葉遣いが消えてケタケタとよく笑った。
 十二時近くになった頃に、次の日は一階のカフェで待ち合わせすることを約束し、高橋と別れて昂月は部屋へ戻った。

 ベッドに入るなり、朝まで目覚めることのなかった昂月は、お酒を飲めば眠れることを知った。
 けれど、いざ朝になってみると高橋と約束したことを思いだして、昂月は戸惑いを覚える。
 迷いつつ着替えたりして身なりを整え、やることがなくなるとリビングのソファでぼんやりと時間をやり過ごした。
 約束の時間が近づき、昂月は携帯を手にしてしばらく迷う。
 やがて番号を呼びだし、コールボタンを押した。

「高弥?」
『ああ。どうした?』
「いま、何してるの?」
『スタジオにいる。打ち合わせ中』
「そう……」
『昂月?』
 昂月がためらっていると、それを察した高弥は名を呼んで促した。
「高弥、来て」
『……いま?』
 高弥の怪訝そうな声には心配が潜んでいる。
 それもそのはずで、昂月はこれまでこんな無理を云ったことはない。
「いますぐ来て」
 昂月が重ねて云うと、送話口をふさいだ高弥の声とおそらくは戒斗の声がくぐもって聞こえた。
『昂月、一時間くらい時間がほしい』
「……わかった」
『昂月?』
「やっぱりあとでいい。いまじゃなくていいことなの。ゆっくり打ち合わせやって。ごめんね、仕事中に」
 なんでもないことを示すような声を振る舞い、高弥が何か云うまえに昂月は急いで電話を切った。
 昂月自身にも自分が何をやろうとしているのか、よくわかっていない。
 バッグを取って部屋を出た。


 電話を切ったあと高弥はしばらく考え込んだ。
 これまでになかった昂月のわがままは何を意味しているのか。
「高弥、どうした?」
 眉間(みけん)にしわを寄せた高弥を見て、戒斗が問いかけた。
「……いや。話、進めてくれ」
 戒斗は気にかけながらもうなずくと打ち合わせを再開した。
「ネット公募して上位二十曲がこれだ。どうだ?」
「妥当なところですね」
「ラストは?」
「論外。“Rising Moon”だろ」
 航が断言すると、高弥はテーブルに寄せていた躰を起こしてわずかに顔をしかめた。
「高弥、なんだ?」
「なんでもない」
 高弥は即答で否定したが、航は納得しなかった。
「高弥、昂月はどうしてんだ? 家を出てるって話は良哉から聞いてる。何があった?」
「もうちょっと待ってくれ。落ち着いたら話す」
「おまえ……大丈夫なのか?」
 高弥はいつもの泰然(たいぜん)とした姿勢がなく、どこか集中力に欠けている。
 はっ、とため息を吐くように高弥は笑った。
「おまえに心配させなきゃならないほど、おれは弱く見えるのか?」
「心配してんのはおまえのことじゃねぇよ。昂月のことだ」
「余計なお世話だ」
 高弥がにべもなく云い返すと、
「はいはい、わかりました」
と航は降参するように片手を上げた。
「高弥、歌は“DEEPBLUE”の真柴(ましば)とのジョイントをメインに組んでいこうと思ってる。間にはほかの参加者を入れ替わりさせる」
「その辺のプロデュースは戒斗に任せる」
 うなずきながらそう答えると、とうとつに高弥は立ちあがった。
 やっぱり放っとくわけにはいかない。
「戒斗、悪い。今日はこれであがらせてくれ」
「……わかった。おれらはこのまま音合わせをやっていく。そのまえに……ちょっと待ってくれ」
 戒斗は云いながらダレスバッグを開けてCDを取りだすと、高弥に差しだした。
「おまえに渡しておく。明日からオンエアだ」
 見ると、祐真の新曲だった。サブタイトルが目につくとCDを持った高弥の手に力が入る。
「じゃ、さきに帰らせてもらう。悪いな」
 高弥は航たちにも声をかけた。
「高弥、おまえの曲はほんとにあれでいいのか?」
 戒斗が呼び止め、高弥は振り向いた。
「かまわない。それより、おまえらに申し訳ない」
「おれらはいい。むしろ、企画としては最高におもしろいと思ってる」
「けどよ、戒斗。事務所はうんとは云わねぇだろ?」
 ソファに仰け反った航が訊ねると、戒斗は問題ないというように肩をすくめた。
「今回は嫌とは云わせない。是が非でもやる。これでもレコーディングの件といい、おれらの扱い方にはかなり頭にきてんだ」
「結果的に休みが取れて、いまは叶多ちゃんとゆっくり過ごせてるのに、ですか」
 健朗がからかうと、戒斗は鼻で笑い、
「それとこれとは話が別だ」
とすまして返した。
 航が笑いだし、高弥もにやりと返した。
「高弥、とにかくこの件はおまえの希望どおりにやる。心配ない。ファンは確実に増えるとおれは踏んでる。つまり、結果的には事務所にとっても実質的にプラスになる。それほど……さすがにいい曲だ」
「さすが、か。おれはそのセリフを祐真に云わせたかったんだ」
 ふっと笑みを漏らし、うつむいてそう云った高弥の表情は戒斗には見えなかった。
「じゃ、な」
 顔を上げた高弥の表情は普段と変わらず、軽く手を上げてスタジオを出ていった。
「戒斗――」
「わかってる」
 戒斗は云いかけた航をさえぎってうなずいた。


 高弥は英国ホテルに入り、昂月の部屋までまっすぐに行くとドアをノックした。が、待っても返事はない。
 エレベーターまで引き返しながら携帯のボタンを押した。少しの無音のあとに電源が入っていないというメッセージが流れる。
 不安に押されたような苛立ちを覚えながら、一階まで下りてフロントへ向かった。真貴が事情を周知させているフロントの女性は、高弥が近づくと訊ねるまえに先刻承知とうなずいた。
「神瀬さまはお連れの方と外出されています」
「……連れ?」
「はい。当ホテルにご宿泊中の男性です」
 高弥はかすかに目を細めたが、私情の不快さは押し殺した。
「伊東さま、真貴がお話したいと申しております。お見えになられたらご案内するようにと云いつかっておりますが、お時間はございますか?」
「わかりました」
 高弥が了承していたところへ、ちょうどマネージャーの大井がやってきた。
 ここ数日の間に、顔見知りという言葉では足りないくらいまで大井とも親しくなった。
「伊東さま、こんにちは。私がご案内致しますよ。どうぞこちらへ」
 高弥は返事の変わりに笑みを浮かべてうなずくと、懇意をプラスして営業スマイルを向けた大井の後に続いた。
 真貴が高弥と話したがるように、高弥にも真貴に訊ねたいことは数えきれないほどある。

BACKNEXTDOOR
    
* 文中 ダレスバッグ … ビジネスバッグの一種(アメリカ別名ドクターズバッグ)