ONLY ONE〜できること〜 #28

第4章 迷宮の行方  3.No Reason


 これまでと変わらない穏やかさを纏い、高弥との時間が流れた。
 昂月のことを気にかけていた真貴は逸早く情報を手に入れたようで、ルームサービスで夕食を二人分頼んだとたんにルームコールが鳴った。
 部屋を訪ねてきた真貴は出迎えた昂月の向こうに高弥を認めると、目を(しばた)いて挨拶することさえ忘れて立ち尽くした。
 真貴はそのふたりの姿に、一年前の祐真と少女の姿を重ねた。
 高弥が一歩踏みだすと、既視感(デジャ・ヴ)から我に返った真貴は同じく足を進め、互いに自己紹介をした。
「テレビでいつも拝見しております。弁護士の伊東さまにそっくりでいらっしゃいますよ」
 真貴が云うと、高弥はこれまで見たことのない、照れたような苦笑いを浮かべた。
 祐真が云っていたように、どんなに壁があっても高弥はけっして父親を嫌っているわけではない。

 祐真はどうだったのだろう。
 いなくなった三カ月の間も美佳への連絡は絶やさなかった。美佳の精神的な弱さを知っていたからこその祐真の優しさ。
 どんなにつらい目に()わされたとしても、そこに真の意味で愛情はあったのだろうか。

 夕食をとったあと、高弥はしばらくして帰った。
 いつものように約束は口にしなかったが、次の日、大学の講義があるとしても午前中で終わることを知っている高弥は、午後になって訪ねてきた。
「紙と鉛筆、貸して」
 ダイニング用のテーブルでレポートをまとめていると、昂月が使っている大学のテキストに目を通しながら、黙って付き合っていた高弥が不意に声をかけた。
「何するの?」
「曲、作る」
「……五線譜、たぶんあるよ?」
「じゃ、それ頼む」
「キーボードでいいなら祐真兄が置いてたのがあるけど」
「いや、いい」

 昂月はベッドルームへ行くと、ライティングデスクの引き出しを開けた。
 探っているうちに五線譜の上に載ったMDが目に入ると昂月の動きが止まった。

『ONLY ONE 〜最愛の妹、Rising(ライジング) Moon(ムーン)(ささ)ぐ〜』

 ラベルに書かれた文字を見たとたんにその場に力なく座り込んだ。
 高弥が昨日云った新曲と同じタイトルだ。
 日付は逝ってしまう四日前。これが作られた日なら、出所は一つしか考えられない。
 いまになって明るみに出ることと、いまになってあった電話。
 それなら公表も……祐真兄の意思……?
 次から次へと受け入れなければならないことが心をバラバラに散らしていく。
「昂月……どうした?」
 ドアのノックとともに高弥が呼びかけた。
 昂月は深くうつむいていた顔を上げる。心配そうな声が、呆然とした時間の長さを教える。
「……あ……待ってて。すぐ行く」
 昂月は精一杯の平静さを装った。
 立ちあがったが、足が少し震えている。同じように心許ない手が五線譜を取りだして引き出しを閉じた。
 ドアの前で五線譜を抱くように胸もとで握りしめ、深呼吸をした。

 リビングに戻ると、入り口の近くで立って待っていた高弥が、何も見逃さないという様子で昂月を見守っている。
「……祐真兄、しばらく曲を書いてなかったから……奥のほうにあったの。探すのに手間取っちゃった」
 高弥は近づいて昂月の首もとに両手をあてがい、顔を包み込んだ。
 何かあったとすぐに見て取れるほど、瞳から感情を消すことのできなくなった昂月は、そのくちびるに瞳とは対照的な笑みを浮かべ、それが余計にガラス細工のような繊細(せんさい)さを強調していた。
「笑わなくていい」
 そう云うと、昂月のくちびるから笑みが消え、その反動で少し震えた。
 感情を隠すために目を伏せた昂月に、高弥はゆっくりと顔を近づけた。
 気づいた昂月の思わず見上げた瞳は大きく開かれ、驚きと惑いが映しだされている。
 ふっと笑った高弥は顔を伏せ、すぐに顔を上げると昂月を腕に抱いた。
「ドキドキが伝わってくる」
 昂月は可笑しそうに囁いた高弥のわき腹を(つつ)いた。
 クッと笑いながら高弥は昂月を放した。

 緊張が取れた昂月は高弥に五線譜を渡した。
「仕事?」
「いや……ただ作りたくなった」
「ふーん……じゃあ、いい曲ができるよね?」
「そう思ってほしいけどな」
「作りたくて作った曲にファンが文句云うはずないよ」
「……そうじゃなくて……」
「え?」
 問い返した昂月に高弥は少し首を傾けただけで答えず、テーブルに戻った。
 昂月もまた戻り、レポートの続きに取り掛かった。
 けれど一旦、高弥が取り除いてくれた、混沌(こんとん)としたわけのわからない感情がまた戻ってきて、昂月は集中できなくなった。
 向かいに座って、目を閉じたり、昂月に目をやったりと、それを繰り返しながら五線譜に書き留めていた高弥は顔をしかめた。
 さっきは無理に訊かないほうがいいと思っていたが、昂月は見るからに何かに気を取られている。

「どうした?」
「……ううん」
「話して」
 窓の外に視線を置いたまま昂月は首を振って拒否した。
「うまく説明できないから……自分でも……わからないの。全部がぐちゃぐちゃになってて……あたしは……自分が怖いのかもしれない」
「昂月……」
「ごめん。自立するって云ったのにまだ心配かけてるね」
「急いだって……たぶん、遠回りになるだけだ」
「……うん」
 それからも昂月が持ったペンは役を果たすことなく、手持ち無沙汰(ぶさた)を解消する道具になっていた。

「高弥、祐真兄の曲はいつ出るの?」
「命日。CMは二週間前からって戒斗が云ってる」
「じゃあ、来週には……」
 不意打ちで訊ねた昂月を案じるように見ながら、高弥はうなずいた。
「大丈夫だ。今回の件は祐真の意思に背くものじゃないとおれは思ってる」
「うん……大丈夫」
 おそらくは高弥の云うとおりだ。それを裏付ける証拠もリビングのドアの向こうにある。

「高弥……“Rising Moon”てわかる?」
「……祐真の初期の曲だろ。ライヴのアンコールで必ず最後に歌ってたやつ」
「うん……ほかに何か思いつかない?」
「……簡単に訳せば“昇る月”だし……」
 そう云って五線譜にそのまま訳を書いた文字を見た、高弥の手が止まる。
「……違う……()がる月……昂月の名前だ」
「当たり」
 昂月は静かに笑った。
「祐真兄がその曲を作ったのはたった四年前のことなのに……四年でこんなに変わっちゃうなんて思ってなかった。あたしはいま沈んじゃってる。太陽がないと光も見せられないし」
 首をかしげて昂月が云うと、高弥は片手を伸ばして彼女の頬に触れた。

「……じゃあ、おれの立場から。自分で輝ける太陽はさ、眩しすぎるし熱すぎるから、まともに見ることも近づくこともできない。それよりは太陽の力を借りて輝く月のほうがずっと近くでまっすぐに見ていられる。こんなふうに触れることも、抱きしめることもできる」

 昂月はくすくすと笑いだす。
「喋るの、苦手じゃないよね。むしろ上手すぎるよ。そのセリフを高弥に云われたら十人中十人ついてくるよ」
 高弥は可笑しそうにしながらも、瞳は射抜(いぬ)くように昂月を見返す。
「一人でいい」
「……そうだね」
 その仄めかしにはまともに答えず、昂月は曖昧に笑った。
 少なくとも一年まえまでは――高弥のことを本当の意味で知るまえは、昂月もずっとそう思っていた。互いがそう思っていたはず。
 昂月がいればそれでいい。祐真兄がいればそれでいい。
 でもあたしでは足りなかった。
 あたしはもっと欲張り。
 高弥がいればそれでいい。でも祐真兄をだれにも取られたくない。
 昂月の心は変わり、自分を直視したいま、欲ばかりが息衝いてだんだんと醜悪(しゅうあく)になっていく。
 早く!
 結果を知っている心が叫ぶ。
「高弥は……太陽みたい。光が途切れることがなくて……」
 その心があまりにもまっすぐな光を放ち、昂月には眩しすぎて近寄ることができない。あまりにも深く篤いその心は身に過ぎて、昂月には畏れが溢れて応えられない。
 昂月の瞳が曇ると、高弥は手を放してふっと笑った。
「けど、太陽の光は雲にさえぎられる」
「雲……そうだね」
「その雲を振り払うことができるのは?」
「……風?」
「そう。目に見えることのない風」
「……また謎かけをしてるみたいだよ」
「昂月にこの謎が解けたら……おれは太陽になれるかもしれない。『Rising Moon』を輝かせることも……」
 昂月の瞳の翳りが消え、かわりに笑みが(きら)めく。
「高弥、そういうセリフを簡単に口にするのに堅物(かたぶつ)だって云い張るの、信じられない」
「『昂月』っていう歌を堂々とファンの前で歌ってる祐真といいとこ勝負だろ? 祐真がそこまで大胆な人間だってことが信じられない」
「あたしの前では絶対に歌ってくれなかったよ。一度だけ祐真兄のライヴに行ったけど、そのときも歌ってくれなかった」
「なんで?」
「気持ち、入りすぎてあとの収拾がつかなくなるって……それってどういう意味かよくわからないけど」
 昂月が戸惑ったように首をかしげると高弥は笑って、
「当然だ」
と一言で祐真に賛同した。
 理由を教えてくれそうになく、昂月は顔をしかめた。
「昂月、もうレクイエムライヴの打ち合わせに入るから、あまり一緒にいられないかもしれない」
「……うん、わかってる」
「それ……ホントに口癖になったな」
 高弥が真面目、というよりは深刻さと後悔を含んだ声でつぶやいた。

 昂月の迷いは消えないまま、一見、穏やかな日が数日続くと、常と変わらない、もしくはまえよりも近づいた時間のなかで、昂月を()()でる瞳は痛みを混在しはじめた。
 隠すことが何もなくなったいま、今度は()きだしになった互いの想いが、触れれば(はじ)けてしまうような儚さを増す。
 それはすべて、心からだけではなく昂月の瞳からさえ拭い去れなくなった畏れのせいだ。
 人の心は変わる。だったら、あたしはまた握り潰すまえに高弥のまえから消えたほうがいい。
 いまそれが高弥にとって苦しくてもつらくても、やがては違うだれかを見いだしていく。
 昂月でなければならない理由なんてどこにもない。

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* 文中の歌【ONLY ONE】・【Rising Moon】はmenu◆Poetry-うた-◆に歌詞あり
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