ONLY ONE〜できること〜 #27

第4章 迷宮の行方  2.エラ〜ゼロ-Zero Era- act2


 昂月の中で、かろうじて保っていたバランスがバラバラに壊れた気がした。
「あたし……こんなふうに祐真兄を……引き止めたんだよ……っ? もう……弱いままで……いたくない……っ」
 高弥の腕の中からくぐもった叫びが響く。
「わかってる。昂月の意思を無視するつもりはない。けど、それに付き合わせてほしいと思ってる。たとえ、納得できるまでに十年かかっても、果てがなくても」
 高弥がそうしてしまうことをいちばん畏れているのに高弥には通じない。
 高弥は昂月がしたことを知っても変わらなかった。否、強いて挙げるなら、一つだけ変わった。

「昼、食べてないだろ? ドライブがてら出ないか?」
 高弥の腕を抜けだして、昂月はうつむいたまま首を横に振った。
「……行きたくない。部屋から出たい気分じゃないの」
「わかった。ルームサービスを頼むよ」
「高弥……」

「おれは、昂月とのことをゼロのままにするつもりはない。マイナスにはなっても。おれのことをもっと知るべきだ。諦め悪いってことは知ってるだろうけど」

 昂月をさえぎって真剣に云い切った高弥は、最後にはからかうような口調になっていた。
「つらい……よ」
「おれもつらいよ」
 すかさず続けた高弥を見上げた昂月だったが、ともすれば呑み込まれそうなくらいに深くなっている瞳に気づいて目を伏せた。堪えきれないように心を漏らしていた瞳はいま、隠すことをやめて惜し気もなく曝しだした。
 人の心は変わる。
 昂月自身の心がそれを証明している。
 行く末に裏切るのが高弥であっても昂月であっても、そうと割りきって流されてもいいのかもしれない。つかの間の(さち)を求めて。
 けれど、それと引き換えにして想いに相当した虚しさと闘わなければならない。
 そんな気力なんてない。その昂月の弱さが高弥の強さを逆手にとり、高弥を縛って挙句(あげく)の果てにめちゃくちゃにしてしまう。
 そんなことはしたくない。

「着替えてこいよ。適当に頼むから」
 高弥が昂月の背中を押した。
「……うん」

 昂月はベッドルームに行って、長めのチュニックと七分丈のレギンスに着替えた。クローゼットの姿見が、起きっ放しで少し(もつ)れた髪を映しだしているのを見ると、昂月は、どうかしてる、と音にはしないまま口にしてしばらく立ち尽くした。
 軽くため息を吐いて、ようやく髪を整えているところに慧を示す携帯音が鳴った。
『昂月、大丈夫?』
 慧はいきなり訊ねた。
「え?」
『講義。来ないから』
「……あ……今日あったんだっけ……」
 そういう気分になるどころか、すっかり大学のことは忘れていた。まったく頭が働いていない証拠だ。
『いま、どこにいるの?』
「……英国ホテル……しばらくはここにいるから。大丈夫だよ。高弥がいま来てくれてる」
『……そう……話したの?』
「うん……昨日」
『それでも高弥さんが昂月といるってことはうまくいったんだよね?』
「慧……怖いよ」
 昂月はかぼそい声でつぶやいた。
『昂月……』
「ごめん、困らせて。まだ迷ってるだけ……」
『謝ることじゃないよ。来てほしいときは云うんだよ?』
「うん、ありがと」

 電話を切ってリビングへ戻ると、高弥は窓枠に腰を預けて地上を眺めている。うつむきかげんの横顔は触れたいと思うほど、完璧(かんぺき)なラインを見せていた。
 高弥は顔を上げて昂月を見ると、
「来て」
と少し抑えた声で誘った。
 けれど、見返す瞳に慄いた昂月の足は動かなかった。
 これまでに見ることのなかった畏れを宿した瞳が高弥に向けられている。そう知ると高弥は顔を伏せ、そして瞳から感情を消し去った顔を再び上げて躰を起こした。
 昂月に近寄ろうとしたとき、高弥の携帯が鳴りだす。ダイニングテーブルに置いた携帯をとると戒斗からだった。

『高弥、昨日の祐真の件だ。曲はやっぱりまったくの新曲だった』
「なんだ?」
『二十七日、まさに命日に発売だ。曲名は“ONLY ONE”』
 曲名を聞いた瞬間、高弥は佇んだままの昂月を見やり、動きが止まった。
 ……祐真……?
『……高弥、どうした? 聞いてるのか?』
 高弥は昂月から視線を外し、目を強く閉じて髪をかきあげた。
「……ああ、聞いてる。ちょっと待ってくれ……」
 しばらく考え込むように高弥は黙った。
『……どうする? 裏を使うこともできる』
 やがて戒斗が問うと、高弥の意向も決まった。
 戒斗が手を出せば簡単に事はすむのかもしれない。けれど、それでは戒斗の負担になる。少なくとも莫大(ばくだい)な財が動くことはたしか。
 高弥には高弥のやり方がある。というよりは応える必要がある。
「……いや……そのまま流してくれ」
『いいのか? 昂月ちゃんは――』
「いいんだ。戒斗……そのかわりに頼みがある。あとで電話入れる」

 携帯を閉じると、高弥は一つため息を吐き、自らの覚悟を決めるように携帯を強く握りしめた。
 昂月は問うように少し首をかしげている。

「祐真の曲……発売されるのは“ONLY ONE”だって連絡が入った。知ってる?」

 昂月は途方にくれて首を横に振った。
 高弥は昂月に近づいた。
「昂月……おれは止めないことにした」
 そう云った高弥にいきなり抱き取られ、昂月はその腕に抵抗するように躰をピクリと動かした。そうさせまいと、背中と頭に回された腕がますます強く昂月を縛る。
「昨日の今日でなんだって思うだろうけど、そうする理由がおれにはある」
「高弥……!」
 くぐもった声で抗議すると、高弥の腕が一気に緩んだ。
 昂月は責めるような眼差しを高弥に向ける。
「理由は……もう少し待ってほしい。これ以上、プレッシャーを感じてほしくない」
「プレッシャー……?」
 昂月が訊ねると、高弥は首を少し傾けるだけで答えなかった。
 高弥から目を逸らすと、昂月は窓から見える空を見上げた。昂月の心とは正反対に秋を迎える空はだんだんと澄んでいく。

「あたしは……もうどうでもいいの。もともと……祐真兄の遺産なんて、あたしが受ける理由なんてないから」
 その真の理由を理解できなかった両親への反抗という意思表示であるとともに、祐真は昂月に対しても抗議を示したのかもしれなかった。
 一方で高弥は父、伊東から聞かされた『復讐』という言葉を思いだす。
 どうやっても素直に受け取れず、そう思わなければならないほどの傷を取り除くには、もしくは取り除けなくても癒せるほどになるまでに、いったいどれくらいの時間が必要なのだろう。

 かける言葉が見つからないまま静かすぎる部屋に、ドアをノックする音が響いて給仕の声がした。応対に出ようとした昂月を制して高弥がドアへ向かう。
 食事の準備が手際よくはじめられると、邪魔にならないようにと窓際に()けた昂月は無意識で眼下を見下ろした。あまりの高さに三半規管が機能を失って足もとが揺れているような気がした。加えて睡眠不足と昨日からほとんど食べていないせいで引き込まれるような感覚に(おちい)る。
 ゾクッと躰が震えた瞬間、手が伸びてきて視界がさえぎられる。
「顔色が悪い」
「……ぅん……」
 給仕が準備を終えて出ていくと、昂月は高弥の腕に躰全体を預けてもたれた。
「ドクターを――」
「ううん……ただの貧血……しばらくしたら治るから……座らせて」
 昂月は喋るのが億劫そうな様子で云うなり、脱力したように高弥の腕をすり抜けてその場に座り込んだ。
 すかさず高弥は横にかがむと、うつむいた昂月の頭を引き寄せた。

「……あたし……高い所……ちょっと苦手なの……下、見ちゃった……」
 もともと若干の高所恐怖症がある昂月は、高いところに立ったとき、平行線から見上げることはあっても見下ろすことはない。
 高弥は可笑しそうに笑った。
「おれもまだ知らないことがあったらしいな。どうりで観覧車に乗らないはずだ。『退屈』じゃなくて怖かったってわけだ」
 昂月は抗議するように目の前の高弥の腕を力なくも叩く。
「高弥は?」
「なんだ?」
「あたしが知らない……苦手なこと……あたしだけなんて不公平……」
「はは……歌うのが苦手……って云ったら信じる?」
 少し間を置いて告白されると、昂月の躰が高弥の腕の中で揺れる。
「信じない!」
 昂月はクスクスと笑いながら小さく叫んだ。
「真面目に、歌うの苦手なんだ」
 高弥も笑いながら応じた。
「……どうして歌ってるの?」
「戒斗の強引さに負けた。戒斗とは大学に入ってから出会ったけど……おれが音楽やってたのはギター音が好きだから」
「うん。ギター、いっぱいある」

「ああ。別にプロになろうとかそういう気はなかったけど、ギタリストと名乗れるくらい(はじ)けるようになりたかったし、それなりに作曲も手がけてやってたんだ。大学祭で友達(ダチ)のバンドとジョイントする予定で練習やってて、その最中にヴォーカルが喉を痛めて、結局、即席でおれが歌った」

「友達のバンド、ほかに歌える人はいなかったの?」
「現実、音出せるからって歌がうまいとは限らない」
 昂月はふふっと吹きだした。
「そんとき見てた戒斗にスカウトされたってわけ。歌う気なんてなかったし、ましてや戒斗はプロ、つまり一流を目指してた。冗談じゃないって散々蹴ったけど……こうなってる。素面(しらふ)じゃ歌えないくらい苦手だった。MCなけりゃ、もっと気楽なんだろうけど……いまだに苦痛」
「喋るの、苦手だもんね。でも……高弥の声、すごく好き。歌ってるときの低い声も裏返る声も……」
「声だけ?」
「高弥の声……FATEだって思うの」
 答えなかった昂月の返事に高弥は笑った。
 その笑う声が寄せた高弥の胸の奥から昂月の耳に心地よく響く。触れていることの心地よさと、FATEの馴れ()めを続けて語っている声が昂月の意識をふんわりと包んだ。

 高弥の腕の中で、昂月が不意に重くなる。
「昂月……?」
 うつむいてもたれたまま、反応がない昂月の呼吸は緩やかな肩の上下とともに規則的に繰り返されている。
 昂月を抱く腕に力がこもった。
 夏が廻ってきたあの日、空港で腕にしたときから、触れずにはいられなくなった。それはおそらく昂月も同じこと。
 心は目の前にあるのに。つかもうとする手は昂月の心をすり抜けていく。

 三十分くらい経った頃、昂月が身じろぎをした。とたんにハッと目が覚めて昂月は躰を起こし、高弥を見上げた。
「あたし……寝てた?」
「寝てた」
 あっさりと高弥が云うと、昂月はイギリスから帰った日と同じ困惑の表情を浮かべた。
「おれの腕もベッドも、昂月にとっては揺り(かご)になってるみたいだな」
 高弥はにやりと笑った。
「……あの日は……待ってるのに疲れて……遅くなるから帰れって云うし……ちょっと眠ってから帰ろうって思っただけ……?」
 昂月が云い訳をしているうちに高弥の顔から笑みが消えていく。
「……帰れ……って……おれが……?」
「……うん……唯子さん……が……」
「……水納?」
 高弥は訝しく眉をひそめた。
 その瞬間に昂月の中で唯子の位置が確定した。
「ううん……間違い。あたしが夢見ただけ。あのときはびっくりして混乱してたから。ごはん、食べなくちゃ。冷たくなったね」
 昂月が立ちあがろうとすると、高弥がさきに立って彼女を支えた。
「大丈夫。ありがと」
 高弥は昂月が打ち消した弁解に納得していない様子だったが、ふと笑みを浮かべた。
「これでお相子(あいこ)だな」
「何?」
「子守唄」
 昂月は不満そうに少し口を尖らせた。が、すぐにそのくちびるに笑みが宿った。

 堪えきれない求める心は、大きければ大きいほど追い求め、深ければ深いほど逃げ惑わせる。

BACKNEXTDOOR