ONLY ONE〜できること〜 #26

第4章 迷宮の行方  2.エラ〜ゼロ-Zero Era- act1


 昂月はリビングを逃げだし、後ろ手にドアを閉めた。
 どんなに感情をぶつけても、吐きだしても楽になることはなかった。
 あの日、自分が座り込んでいたのは目の前。そこにはまだ自分自身の残像が見えるような気がした。


 祐真はリビングを出ると、昂月を目の前に見いだして驚き、そして微笑(わら)った。
 リビングのドアを閉めて呆然とした昂月を抱え、祐真は外へと連れ出した。車に乗せられて、どこへ行ったのかも覚えていない。
 言葉だけが息衝いている。
「聞いたんだな」
 祐真はわかりきったことをあえて訊ねた。そうやって自分に云い聞かせていたのかもしれない。
「おれは振り回される運命らしい……心配するな、兄妹としてやっていけるさ」
 そう云って祐真は笑った。


 昂月はその瞬間(とき)、どんなに悲しくても笑えるものだと知った。
 そんな簡単に切り替えられることではなかったはずなのに。
 それが幻想であろうと、真実であろうと――少なくとも昂月にとっては。
 けれど、祐真は答えを出した。昂月を置き去りにして。
 あたしはどこにも帰れない。
 笑うことも泣くことも同じなら、どんな感情にも意味なんてない。

 ドアを離れたとたん、高弥が出てきた。
 振り返って見上げた高弥の顔に批難は見えなかった。
「ごめん」
 小さくつぶやいた昂月を見下ろして、高弥は励ますように小さく笑みを浮かべた。
「謝るなよ。行こう」
 玄関を出るとき、昂月は一度だけリビングのドアに目をやった。だれもいないかのようにしんとしている。その中で自分が繰り広げた爆破は昂月の心に焼きつき、これからさき、消えることはないだろう。

 高弥が助手席のドアを開けてくれ、乗り込もうとしたちょうどそのとき、音がするほど勢いよく玄関のドアが開いた。
「昂月、ごめんね……ごめんなさい!」
 美佳が叫ぶように繰り返した。
 追いかけて……くれるのね……。
 昂月は横顔を向けたまま、美佳に少しだけうなずいてみせて車に乗り込んだ。
「いいのか?」
「うん」
 高弥はドアを閉めた。

 車の中ではふたりともが沈黙したままだった。
 カーステレオからの声も耳に入らず、後ろへと流れていく夜の灯りも目に入らないまま、適当な言葉も探しだせなかった。

 まもなくホテルに着くと、いち早くホテルマンが助手席のドアを開けた。
 高弥は昂月の荷物を取りだし、車のキーをホテルマンに預ける。
「高弥――?」
「部屋番号は?」
 昂月をさえぎって高弥が問い返した。
「……二一〇五……」
「承知致しました。お預かりします」
 ホテルマンが高弥の車に乗り込んだ。
「高弥、あたしは大丈夫だから――」
「何が『大丈夫』なんだよ。これで放って帰ったら、おれはなんのためにこれまで昂月に付き合ってきたんだ?」
「でも――」
「こんなところで押し問答してもしょうがな――」
 突然、視界のなかに光が散り、高弥は言葉を切って舌打ちをした。
「ここでは話せない。中へ入ろう」
 昂月は高弥に背中を押されるままにホテルの中へ入っていった。
 荷物を持っていくベルボーイの後ろをついていく間、また黙り込んだ。エレベーターの中は静かすぎて息が詰まるようだった。
 詮索(せんさく)する様子は(つゆ)ほども見せず、ベルボーイが丁寧に頭を下げて部屋を出ていく。

「高弥、ねぇ、ほんとに大丈夫だから」
「おれを入れたくない?」
 高弥は二重の意味でそう訊ねた。
「ううん、そうじゃない……ここはもうあたしの部屋じゃないから……」
 それが祐真の答えだった。
「祐真兄には最期にここで過ごした少女(ひと)がいる。その時点でここはあたしの部屋じゃなくなってる。あの子の云うとおり……もう片づけなくちゃ」
 わかっていたのにここでも昂月は受け入れたくなかった。
 全部を祐真からも否定されたようで。
 この部屋を片づけられなかったのは、祐真をここに閉じ込めておくため。それは、昂月が祐真へ下した断罪だったのかもしれない。
「それが昂月にとって嫌なことだったら、祐真がなんの意味もなくやるわけない」
「わかってる。悪いのはあたしなの」
「昂月……そう思うことが祐真の望みなのか? 独りでいることも?」
「……違う……わからない……」
「おれが入る隙はない?」
 その質問の真の意味がわかって、昂月には答えることができなかった。
 高弥を頼ってはいけない。そうしたらまた同じことの繰り返しになる。
「整理がつかないの、まだ……ねぇ、帰って」
「今日はこのまま独りにしておけるわけないだろ? 昂月のためじゃない。おれのためだ」
 高弥は強引に云うと、昂月は諦めたようにため息を吐いた。
「じゃ、帰りたいときに帰って」

 高弥を置いて、昂月はベッドルームを通り、バスルームへ入った。蛇口をいっぱいに捻り、バスタブにお湯を()めていく。ラベンダーのバスオイルを落とした。
 とても疲れて、何をするにも億劫(おっくう)な気分だった。喪失感と無力感という似たものどうしが相まみえる。
 ふと見た、壁の鏡に映った自分の顔がまったく無表情なことに自身が驚いた。これでは高弥が帰れないというのもうなずける。心配させるために付き合わせたわけではないのに、そうさせることばかりしている。
 しっかりしなくちゃ。決めたんだから。
 溢れそうに溜まるのを待ってからお湯の中に身を沈めた。お湯が少し(こぼ)れるとともにラベンダーのほの甘い香りがバスルームに広がる。充満した柔らかな香りがギスギスした感情を少し和らげてくれた。
 かなりの時間が経ってバスルームを出ると、けっして昂月の中には宿ることのない、祐真が求めた光に溢れている夜景が正面にあった。引き寄せられるように窓際に(たたず)み、無数に広がる灯りを眺めた。
 窓の灯りの数だけ、それぞれの人の世界がある。昂月とは無縁の世界の人かもしれないし、もしかしたら廻り合うこともあるかもしれない。
 いつか拒絶されることを畏れながら、これからどこに居場所を探しだせるのだろう。

 昂月は窓を離れ、リビングへのドアを開けた。
 高弥はダイニングの椅子に座って缶コーヒーを片手に外を眺めている。その視線が昂月に気づいて戻った。
 膝丈のバスローブの下から覗く素足と、濡れて短くカールした髪があどけなさを纏い、昂月を一層かぼそく見せていた。風呂上がりのせいか、ここに来たときの蒼白(あおじろ)さが消え、昂月の頬はほんのりと桜色に染まっている。
 それが本物であることを高弥に示すように、ドアの柱にもたれて昂月はくちびるに笑みを宿らせた。
「まだ帰らないの?」
 高弥は少し目を細めて昂月を見返した。
「早まってほしくない」
「早まる……?」
 その意味が一瞬わからなかった。が、高弥の揺れる瞳を見て気づいた。
「心配しないで。それは祐真兄がいちばん望んでいないことだと思うから。そうでしょ? それに……祐真兄が待ってるのはあたしじゃないから」
 自分が招いた結果であることはわかっていても、拒絶どころか、棄てられたことの痛みは昂月に深く根付き、そのうえでの選んだ孤独はどこへ導くのだろう。
「昂月――」
「あたしはたぶん……このままやっていけるよ。いまは……自立してる過程ってだけ。早まる勇気なんてない」
 どの世界を選んでも待っているのは孤独であり、怖いことに変わりない。だからせめて、あたしにできることを。

「あの子を見つけて、幸せであることを見届けなくちゃ。それが、あたしの祐真兄への償いなの。一生かかっても会えないかもしれないけど、そのぶんこのままやっていける。気づいたの。あたしはいつも人を当てにしてた。してくれないって不満持ったり、頼ったり。でも、自分のことは自分で守らなくちゃ。人のせいにしないで」

「なんでそんなに極端な考えになるんだ?」
「あたしは……高弥のお荷物にはなりたくない。だれの負担にもなりたくない。こうなったからって高弥が責任を感じることない。あたしが決めたの」
「そんなことは感じてない」
「どうして? あたし、このままだとまた同じ失敗をするの。また甘えて頼って……全部、壊れる」
「頼ってほしい……頼ってもらうのがうれしいと云っても?」
「いまはそうでも、人の心は変わる。ちょっとしたきっかけで百八十度変わっちゃうことだってある。そう知ってる」
 昂月は目を逸らすことなく、ともすれば高弥を窺うような視線を向けている。
「どうしたい? どうしてほしい?」
「ゼロからはじめたい。高弥は違うと思ったらやり直せばいいって云ったよね。だからやり直そうとしてる。それだけ」
 高弥は昂月から視線を外すと、しばらく窓の向こうを見ていた。
「わかった」
 そっぽを向いたまま高弥があっさり返事すると、昂月の中にあった凍りついた空洞が()けだし、再び膨張をはじめ、昂月自身を(おびや)かす。
 その脅威を抑え込もうと、()られているわけでもないのに昂月は無理やり笑みを浮かべた。
「……うん。じゃ――」
「まだ帰らない。しばらくいるよ」
 高弥は昂月をさえぎって視線を戻した。昂月の顔に張りついた笑みが目に入ると、高弥は目を細めて顔をしかめ、立ちあがった。
「来ないで」
 一歩踏みだそうとした高弥を静かに引き止めた。
「最近、いろいろ考えててよく眠れてないの。整理はつかないけど、云いたいことを云ったからすっきりしたみたい。眠れそうだからもう帰っていいよ」
「眠ればいい。おれはもう少しここにいる」
 近づくことなく、高弥は繰り返した。
 昂月は表情を隠すように少しうつむいた。
「じゃあ、気のすむようにして」
 昂月は柱にもたれていた躰を起こした。
 ドアを閉めようとしてふと手を止め、高弥に目を戻した。
「高弥……祐真兄のかわり……してくれてありがとう」
 そう云いつつドアを支えていた手を放した。
「昂月――」

 高弥の言葉を聞くまえにドアは閉まった。
 口にするのがつらくて言葉にはならなかった、さよなら。これまでの時間をいつか穏やかに思いだせるようになるのだろうか。
 ベッドに(もぐ)り込んで目を閉じた。高弥にはああ云ったものの、安眠には程遠い。目を閉じたまま、ふっと意識が目覚めて眠っていたことに気づいたり、そう気づいたことさえ夢現(ゆめうつつ)だったりで疲れたまま、朝の光に気づいて起きだした。
 リビングへ続くドアを開けると、そこに高弥の姿はなかった。
 表現しがたい感情が集う。
 不安と恐れが溢れ、そのなかに少しの安堵と解放感、相反してさみしさに襲われる。
 気が抜けたように何をする気にもなれず、朝食もとらないままにリビングのソファでぼんやりと過ごした。つけっ放しにしたテレビの気侭(きまま)な雑音が時間の流れを教える。
 不意にドアがノックされ、時計を見るとまもなく正午になろうかというところだった。
 真貴がまた食事の用意でも手配してくれたのかと思って、昂月はドアに向かった。
「はい」
 給仕ならドアの外で声をかけるはずだと知っていながら、そこに気が回らなかった。
 補助ロックを外してドアを開けると、そこにいる訪問者がだれなのかを理解するのに昂月は時間を要した。

「まただ。だれかを確認してから開けろって云っただろ? おまけに着替えてない」
 驚いて昂月が一歩下がると、高弥は部屋の中に入り、彼女を見下ろして笑んだ。
「……どうして……来るの……?」
 そう云って昂月は深くうつむいた。
 高弥の腕が昂月を包み込む。
「ゼロからはじめたいって云ったよな? おれも祐真の役は降りる。おれをおれとして見てほしい。今度は最初から」

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