ONLY ONE〜できること〜 #25

第4章 迷宮の行方  1.パンドーラーの壷 act2


 その言葉を吐き捨てたとたんに、両親は人形のように動かない表情を貼り付けて静止した。
 隣にいる高弥の視線を痛いほどに感じる。高弥は昂月がこんなふうに切りだすとは思っていなかっただろう。
「祐真兄がいなくなって、やっとあたしのことを見てくれてるのね」
「昂月……?」
 美佳が戸惑って昂月を見つめる。
「あたし、祐真兄のことが大好きだった」
 その場の空気が震え、美佳も芳樹も驚きを見せたが、一瞬後には安堵の表情に変わった。
「それはよく知ってるわ。だれが見ても仲のいい兄妹だった」
 微笑みながら、祐真の死を乗り越えた美佳が云った。
 いいほうにいいほうにと解釈して、崩しようもない壁にぶつかるまで、ずるさを知った人は都合の悪い面を見ようとしない。

「兄妹としてなら、わざわざこんなこと云わない」
 残酷な現実を告げられた両親が、ショックを隠しきれずに呆然と昂月を見返す。
「中学のとき、あたしに『ブラコンだ』ってひやかした友だちが、従兄妹同士でも結婚できるんだよって教えてくれた。あたしもそれを信じてた。でも……違ってた」
 彼らは蒼ざめていく。
「お父さん、お母さんは答えられないと思うからお父さんが答えて。違う理由を」
「昂月――」
「そんな理由はないよ」
 美佳の哀願をさえぎって、芳樹はきっぱりと嘘を吐いた。
「……いまとなってはどうでもいいことだもんね」
 昂月は小さく笑って皮肉った。両親のまえではじめて嫌な人間になった気がした。

「あたしと祐真兄は、お母さんの血が繋がった兄妹なんだってどうして云えないのよ。どうして認められないの? 他人(ひと)の前では云えないの? あたしと祐真兄はお父さんとお母さんにとってなんなの?」

 彼らは揃って目を伏せた。
 できることなら耳をふさぎたいだろうに。
「昂月……どうしてそれを……祐真が云うはずないわ……」
 美佳が放心したようにつぶやいた。
「聞いたの。お父さんたちが祐真兄にここで打ち明けたとき、あたしはそこにいた」
 昂月はリビングのドアに目をやった。その向こうで昂月はしたくもなかった盗み聞きをした。
「あの日、慧と約束してて……でも慧の都合が悪くなって……すぐ家に戻ったの」
 聞かなければよかった。
 何度そう思っただろう。
 祐真がこんなに早く逝ってしまうことが運命だったというのなら、昂月は真実を知らないままに、ずっとふたりでいられることを信じていられたのに。
 祐真の苦しみは変わらない、昂月のわがままな悔恨。
「なぜなのかな……わかったんだよ。家の中があまりに静かだったから……何かよくないことが起きてるって。そしたら、お父さんの声が聞こえた」
「……そうか……いつかは話そうと思っていた……」
 芳樹の曖昧な云い方は昂月の中の怒りを引きだす。
「その『いつか』をお父さんたちは間違ったんだよ?」
「もう終わったことだよ」
 昂月の強い口調に、芳樹は額を片手でさすりながら苦しげに云った。
 美佳は手に顔を埋めたまま、声もなく泣いている。
 強く握りしめた昂月の手が白くなった。
 立ち会わせた高弥はどう感じているのか、何も口出すことなくこの不快な有り様を見守っている。

「そうやって終わったことだって……責任を簡単に放棄して事をすまそうとするんだよね。それは祐真兄がいちばん嫌ってたことなのに。自分たちの勝手な判断で、子供の想いなんて考えもしないで。事実を無理強いしてるってことがどうしてわからないの? 自分たちだけ重荷を下ろして、祐真兄にそれを押しつけて」

「そんな……!」
 美佳の叫び声に重なり、椅子が音を立てるのもかまわず、芳樹は荒々しく立ちあがって手を振りあげる。
 瞬時に高弥が動いて、テーブル越しに振り下ろされかけた手をつかんで制した。
「昂月の話を全部聞いてください」
 高弥が芳樹に批難を向けた。
 が、いまの芳樹はその声に耳を傾ける余裕がないようで、高弥の手を振り払い、記憶にある限り、はじめて昂月を怒鳴る。
「おまえに何がわかる! 考えた末の結論だ。祐真のためにも知ったほうがいいと思って明らかにしただけのことだ!」
 普段は穏やかな芳樹がこんなに感情を顕わにするのはめずらしかった。
 けれど、それに怯むわけにはいかない。

「わからないよ。祐真兄のため? じゃあ、どうしてそれを、祐真兄を引き取るときに考えてくれなかったの? そのときに話すべきじゃなかったの? 知らないでいいことは知らないでいいって、叔父さんたちに祐真兄を託したときはそう判断したんだよね? なのに、どうして全部を無駄にしたの? 家族にならなかったら、祐真兄とあたしはずっと従兄妹同士のままだったはずだよ。それなのに……中途半端なことをお父さんたちがするから――」

 あたしたちは――。
 その怒りと想いは声にならなかった。どんな言葉でも語り尽くせない。

「……そうかもしれない。だが……結果的に……それでよかったんだ」
 芳樹は力なく座り、自分に納得させるように云った。
「悪かったわ。だけど、これだけは……」
 美佳は言葉に詰まる。
 結果的に――。
「残酷な言葉……知ってるよ、お母さんが祐真兄を手放した理由。でも理解できない」
 彼らはいまだに安心材料を探し、無神経な言葉を吐く。
 心療内科医という立場にありながら、芳樹は自分の子供のことは何一つ見えていない。祐真の存在を気にしすぎた芳樹は美佳ばかり見ていて、昂月はいつもそれを眺めていた。そこまで美佳のことが大事ならもっと冷静になるべきなのに、芳樹は何も見ようとしなかった。
 愛することで、こんなにも人の判断は狂い、人の運命は干渉されてしまうのだろうか。
「よかったと思う? 兄妹として振る舞ってたのは家にいるときだけだった、と云っても」
「そんなはず……祐真は唯子さんと……」
 美佳は必死になって否定になる理由を探している。認めたくないのだ。
「お母さんたちをごまかすための嘘だったんだよ」
 二人は愕然とした。
 美佳はまた狂ってしまうかもしれない。

「つらい想いしてたってこと、知らないよね? 好きになることが罪だったんだよ? お父さんたちが祐真兄にどれだけの痛みを押しつけたかわかるの? あたしは知らなかった。笑っているのにそれが泣いて見えることがあるなんて、あたしは知らなかった。それなのに、もうお父さんたちは祐真兄の死から平然と立ち直って笑ってる。お父さんたちが決断した時期(とき)は間違ってた。全部が手遅れだった。祐真兄のためじゃない。お父さんたちは自分たちのために打ち明けたんだよ。いまみたいな思いをしたくないから。そうだよね? 認めたくないなら認めなくてもいい。あたしはもうあなたたちには何も求めない。狂ってラクになるなら狂えばいい。そうやってずっと逃げてればいいのよ」

 消せなかった想い。
 あたしは忘れることなんてできなかった。それがあたしのすべてだったから。それがなくなったら、あたしの居場所もなくなる。怖くてたまらなかった。

「ねぇ、お母さん。あたし、気づいてたんだ。覚えてる限り、小さい頃からお母さんがあたしを見てくれることはなかった。あたしに向けられるお母さんの笑顔は本物じゃない。どうして、ちゃんと見てくれないんだろうって……でもずっと訊けなかった。それが祐真兄を引き取ったとたんに、お母さんは笑うようになった」

 叔父たちが亡くなったのに、どうしてうれしそうに見えるのだろう――と思った。祐真を励ますためなんだと、昂月は思おうとした。何かが隠されていると子供なりにも気づいた。

 けれど、認めたくなかった。
 自分がここにはどうでもいい人間であることを。
 あたしは目を背けた。いざ事実を知らされたとき、あたしと貴女の間に見えたのは、祐真兄と、祐真兄に対する罪悪感という名の二重に張り巡らされたフィルターだった。あたしはそのフィルターを通過できない。
 そのフィルターがなくなったいま、今度はあたし自身が断罪という名のフィルターを身に纏った。だれもあたしに触れることができない。

「一人になったって育てていこうっていう気がないなら、子供なんて産むべきじゃない。子供だっていろんなことに気づけるんだよ? どんなに小さくても、いろんなことを考えてる。子供は親の後始末をしなくちゃいけないの? あたしは祐真兄のようにお母さんを笑わせることができない。あたし、思ったのよ。祐真兄が死んだとき」

 これで終わり。
 昂月は立ちあがった。

「祐真兄のかわりにあたしが死ねばよかった。ここはあたしの家じゃない」

 昂月の中に、散らばっているガラスの破片の上を歩いているような感覚が広がった。

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