ONLY ONE〜できること〜 #23
第3章 エデンの果実 6.エヴァ-EVE-
昂月はチューリップの形をしたコーヒーカップを手に取った。高弥と春に出かけた先で一目見たとたんに気に入って購入したものだ。
甘く深いモカの香りを感じながら、淡い桜色のカップに口をつける。以前は砂糖入りしか飲めなかったのに、高弥と付き合いだしていつのまにか好みがブラックに変わっていた。
高弥は色違いの淡いブルーのカップを手にしている。
「……事務所がユーマの新曲を発売することを知ってるか?」
カップをテーブルに戻すと高弥はとうとつに切りだした。
「新曲……? アルバムからカットするってこと?」
祐真が不在のいま、遺産とともに、彼のプロデュースに関する権限は祐真の遺命によって昂月が譲り受けた。仕事関係のほとんどは事務所任せにしているが、生前公表されなかったものはどんな企画であろうがすべて拒否しているし、その旨も伊東弁護士を通して伝えている。
仕事を一つ終えてもそのあとの編集段階で意見が合わず、祐真が没にした企画はいくらでもある。
祐真の素志を守りたかった。
唯子が云ったとおり、斉木事務所は昂月のその趣旨を快くは思っていず、そのうえで高弥のこともあって亀裂は深まるばかりだ。
「いや……違うようだ」
高弥はためらいながら否定した。
「違う……って? でも曲は……発表してないのなんて祐真兄が事務所に遺しているはずない」
昂月は云いながら、内部に現れた痞えがどんよりと広がり、不快さを覚えていく。
「かなり内密にされている。おれも今日、戒斗から連絡を受けて知った。詳細はまだわからないけど、来週からCMがオンエアされるらしい」
祐真兄が云ったとおりだ。
「なんだって?」
高弥が問うまで、それが声になっていたことに気づかなかった。
『世間は……おれがいる世界は汚い。おれは守りきれない。だから昂月には触れてほしくないんだ』
そう云ったにも拘らず、祐真は昂月を相続人に指名した。
「祐真兄はどうして死んじゃったの? あたしに自分の世界に踏み込むなって云ってたくせに、嫌な思いをしなくちゃいけないって知ってたくせに、あとをあたしに押しつけて、どうして独りだけでいなくなるの?」
行く末なんてどこだってよかった。ねぇ、どうして一緒に連れて行ってくれなかったの?
声にならなかった叫びは、それでも高弥に届いた。
できるのなら、祐真と同じようにあの部屋で永眠りにつきたい。
高弥と向き合っていることが苦しく、昂月は立ちあがって窓辺に寄った。外から差し込む冷ややかな光は昂月の中に影をつくる。
どうすればいい? あたしには止める力なんてない。
「おれが守るよ」
内心の焦りは少しも見せず、高弥もまた立ちあがると強く云いきった。
「あたしがその言葉を信じると思ってるの? 祐真兄があたしを置いていったように、高弥も同じことをしたんだよ。祐真兄のかわりをするって云ったのに、あたしを蹴った。あたしが頼んだんじゃない。高弥が云ったんだよ? そんな高弥があたしを守る保証なんてどこにもない」
昂月の冷めた声はかえって高弥を動揺させる。
「そうじゃない。何回も云ってる。蹴ったわけでも、嫌になったわけでもない。どうしてそんなふうにとる? そんなんじゃない。手放したくなんかねぇよ!」
高弥はだんだんと感情的になり、乱暴に云い放った。
思い知らされる。昂月は想像以上に傷ついていた。
「守るって簡単に云わないでよ。祐真兄の意思を守りたいって思ってるあたしの気持ちをわかって云ってるの? どんなに頑張ったって諦めないといけないことってあるんだよ? あたしを守るために……曲の発売を中止にできる? できるわけない。事務所は手遅れだって云い逃れるに決まってる。そういう世界でしょ? それがわからないほど、高弥は世間知らずじゃないよね?」
「ベストを尽くすよ。それでもかなわないなら、別の……そうなったときの対処方法を考える」
「……他人にとってはその程度なの。どうしてユーマの未発表の作品を公表しないのか、だれも全然わかってくれない。そうすることがあたしにとってどんなに重要なことかわかってくれない。でも、わかってほしいと思うあたしのほうが間違ってるんだよ……ね?」
昂月が祐真から託された唯一の願い。
それは祐真の素志を継ぐこと。
たぶん。
それさえできないのなら、あたしが祐真兄の妹である――“昂月”である理由なんてどこにもない。あたしが生まれてきた価値なんて皆無だ。
高弥は昂月に近寄って肩をつかんで振り向かせた。
「どうしてそんなふうに考える? 今回の事務所のやり方にはおれだって納得いかないんだ」
高弥が吐き捨てると、昂月は関心がないように首を振った。
「いいの。もう……なるようにしかならない」
「おれが動いたからって状況は変わらないかもしれない。けど、黙って見てるだけのつもりはない。それは信じてほしい」
「……祐真兄が云ってたこと、いまの高弥を見ててわかった気がする。大人になるってことは云い訳が上手になるってことなんだね。だれかのためだって云って、いつもいちばんさきに自分を守ってる。前置きなんていらない。云わないほうがいいセリフってあるんだよ」
昂月は目を逸らし、感情のない口調で高弥を責めた。
砂の上に字を書くように、おざなりでその場限りの嘘が許され、そして約束と称された嘘は、それを紡ぎだした口もとから出るため息に吹かれて、いとも簡単に消し去られてしまう。
高弥が悪いわけじゃない。
あたしはだんだん嫌な人間になっていく。自分を切り捨てたくなるくらい、嫌な人間になると決めた。
ごめんなさい……酷いことを云って。
昂月の良心が声にしないままそっと囁く。顔を見なくても、高弥が傷ついているだろうことは容易に読める。
なのに――。
高弥は目の前の昂月をその腕に強く包み込んだ。
いまは何を云っても届かない。それでも――。
「大丈夫だ」
ねぇ、あたしを嫌って。
高弥が思っているより、あたしは高弥のことをわかってる。きっと何もかもを知っても高弥はあたしを見棄てない。かえって知ったことであたしから離れられなくなる。高弥はそういう人。
だれになんと罵られても云い返せないほど貴重な魂を、あたしはひとつ消滅させ、またひとつ粉々にしようとしてる。
もうかけがえのない大切な人をこの手で壊したくない。
高弥にはもっと見合った人がいるはずなのに。
昂月は離れがたくなるまえに手を突っ張って、高弥から躰を離した。
迷惑ばかりかけているうえにまた心配を強要している。まさに昂月自身が見棄てられてもいいという機会をつくっているにも拘らず、高弥は引くことを知らない。
昂月はソファに戻ると、膝を抱えて丸くなり、顔を伏せた。縛りたくない気持ちと、手放したくない気持ちが交錯する。
「祐真兄が一緒に暮らすことになって、その次の日、祐真兄のほうがあとから帰ってきたのに、待っていたあたしに『おかえり』って云ってくれたの」
昂月はポツリポツリと祐真とのことを話しだした。
だれも迎える人のいない家に帰るという、さらなる孤独は幼い昂月の感情を蝕んでいた。『ただいま』ではなく『おかえり』があの時点で、どんなに昂月の救いになったのか、祐真はきっと知らないだろう。
高弥が横に来て座った。
おそらく、早くに母親を亡くした高弥にはその孤独は通じているはず。
「うれしくて。 たぶん、あの頃を幸せっていうんだよね。でも、すぐに壊れた。いま思うと、幼稚で、単純で……まるでバカだったな……気づいていたのに、その答えを納得しなきゃならないことが怖くて、理由を探そうとせずに逃げて、諦めて、受け入れたの。でも結局は、取り返しがきかなくなってから答えを聞かされた。二重の意味で、その答えを受け入れる余地があたしには残っていなかった。あたしに自覚が生まれてから祐真兄が来るまで、あたしにとってあの家が“家”であったことなんてない。自分の存在が家の中で“自分”として認められていない怖さがわかる?」
けっして返事を求めているわけではない、だんだんと綴られていく昂月の声を、高弥は黙して耳を傾けていた。
何かが見えそうだった。
それに応えられるのか――そのまえに支えきれるのか。
「でも……一度認められると、そうしてくれた人を失くすかもしれないって思うほうがもっと怖い。そう知った。結局は失くしたんだけど。そして……失くしたことを受け入れることができないうちに、祐真兄は本当に消えてしまった……高弥がかまってくれて、あたしは思ったの。このまま……高弥がいてくれるなら、いままでのことを放棄してやっていけるかもしれない……」
昂月が創ったパンドラの箱は無視して生きていけるかもしれない。パンドラの箱なんてはじめから存在しなかったと思えるかもしれない。
「でも、やっぱり砂の家だった」
その存在を感知できないような高弥ではない。騙しとおせるはずがなかった。
それでなくても、やがてはだれかがその箱の在り処にたどり着く。それが存在することを知ったなら、開かずにはいられない。どんな引き換えを翳しても人間の好奇心を止めることは、おそらくだれにもできない。
神でさえ、アダムとエヴァの戒めにはならなかったのだから。
「砂の家は所詮、砂の土台。壊れやすくて、呆気なくて、残るのは砂の欠片だけ。はじめからつくるべきじゃなかった」
現実に対処しきれなくて高弥に依存した。 それ以前に、祐真を求めたことこそが昂月の非だった。
「なんの役にも立たなくて……あたしって余計者なのね、きっと」
その言葉が意味するものとはおよそかけ離れて、昂月は可笑しそうに笑った。
まさか――。
昂月の笑みが宿った横顔に、記憶にある表情が重なり、突然、高弥の中のばらばらだった断片がぴたりと合わさった。
祐真が昂月を語る言葉に散りばめられた想いは最後までなくなることはなかった。
それにも拘らず、祐真は水納と付き合わなければならなかった。
否定するには、感情表現もその横顔に見える面影も、あまりにもふたりは似すぎている。それ以外に、祐真があれだけ苦しみ、意に反して昂月を手放さなければならなかった理由はどこにもない。
そして昂月が祐真のことに触れたがらない理由も。
「昂月……」
高弥のこれまでにない深い声に振り向くと、何を考えているのだろうか、険しく真剣な眼差しが昂月を捕らえた。名を呼んだまま、高弥は言葉を失ったように、ただ昂月に見入っている。
「……気づいたのね」
高弥は見逃すことなく、自分で答えを見つけた。
ありがとう。それほどまでにあたしのことを見てくれてたんだね。