ONLY ONE〜できること〜 #22
第3章 エデンの果実 5.Trust in Me
昂月の連絡を待って三日経つ。まだ、三日、なのか。
高弥から電話を入れても、返事するのは決まって『電源が入っておりません』の機械的な応答だけだった。
気が短いということはない。むしろ、我慢がきくほうだと思う。
けれど、今回のことは一年前の祐真を彷彿させる。
一年前の七月。
音を出すことができなくなった祐真は、だれにも理由を語らないまま、連絡が取れなくなった。
ようやく、待ち続けた連絡があったのは逝ったあの日。
祐真からの電話は、言葉からも、聞き取った声のイメージからも、死を暗示するものなどなかった。それどころか、これまでに聞いたことがないくらいに快活と表現できるような声だった。
すべてうまくいった、あるいはそうなるという確信に溢れている声だった。
それが――。
ソファの背に首を仰け反らせてもたれ、高弥は大きくため息を吐いた。
昨日、良哉に衝かれて形となった感情への戸惑いと、連絡が取れないことの不安で何も手につかず、高弥は苛立ちに何度も髪をかきあげる。
無駄とも云える時間をやり過ごしているとき、メンバーからの電話を告げる呼びだし音が鳴った。携帯画面を見ると、戒斗からの電話だ。
『高弥、おまえ知ってるか』
通話ボタンを押すなり話しだした戒斗は、訊ねているというよりは、知らないことを確認するような云い方であった。
「なんだ?」
『祐真のシングルが出る。新曲らしい』
「新曲……?」
『ああ。詳細はまだわからないが、まったくの未発表曲だ。来週から大々的にCM入るぞ』
「命日に合わせて……ということか」
それは業界の常套手段だ。けれど、今回は他人事ではない。
『事務所から聞いたわけじゃない。たったいま、別ルートから情報をつかんだ。同じ事務所内でこれだけ内密にされてることだ。昂月ちゃんも、おまえの親父さんも知らないことなんじゃないか? 祐真の了解なしの未発表曲を売りだすことに、昂月ちゃんがゴーサインを出すわけがない。云うまでもなく、おれらも同じ気持ちに変わりない。おれらを日本から遠ざけておきたかった理由がここにもあったということだ』
戒斗の冷静さはかえって事実に違いないことを教えている。無論、戒斗の云う『別ルート』の情報がいままで間違ったことはない。戒斗は高弥たちの与り知らないところで、それだけの人脈を持っている。
「……なんでこんなときに……」
強く目を瞑り、高弥の口から思わず弱音が漏れた。
『高弥、昂月ちゃんと何かあったのか? このまえのおまえたち、ちょっと様子が違ってた』
戒斗はリーダーらしく、メンバーの異変にすかさず気づく。だれもごまかせた例がない。二才年長だからというわけではなく、戒斗は根っからのリーダー格としての資質を持っているのだ。
「戒斗、なんでおまえは、いつもそうやって人のことまで観る余裕があるんだ?」
『余裕なんかない。おれは叶多の期待を裏切りたくないだけだ』
「期待?」
『良哉のことも含めてFATEが壊れることがないように、一人も欠けることがないようにって、叶多はたぶん当事者のおれたちよりも強く願ってる。おれはFATEの先駆者として、その期待を反故にするわけにはいかない。FATEはおれが尊敬してる人への証明の場でもある』
「おまえはやっぱり強いよ」
『そう見えるようにやってる。おまえもだろ? 気持ち一つだ。高弥、いまはてめぇがしっかりするときだろうが』
高弥はソファに寝転がり、目を閉じた。
電話を切ったあとも、時間が経つばかりで気持ちの整理がつかない。整理がつくどころか、問題がまた一つ増えた。
伊東が云うように待つしかないのか。
自分と昂月の間に横たわる溝は深くなるばかりに思える。
食べることすら忘れて正午を疾うに過ぎた頃、携帯音が高弥を呼びだす。
何よりも待っていた音だった。
「昂月?」
『うん。そっちにいまから行っていい?』
「ああ」
『三十分くらいしたら行けると思う』
「わかった」
昂月の声を聞いて、苛々した気分が少し落ち着いた。どんな状況であっても、彼女の存在が自分を強くさせることをあらためて知る。
戒斗の云うとおりだ。自分が動揺している場合ではない。
何れにしろ、昂月は傷つく。それなら――。
おれが昂月を傷つけるということは、結果的に、昂月にとってはいちばん傷が浅くてすむ。それほどの、だれにも負けない想いが自分の中にはたしかに在る。
マンションのエントランスを潜り、高弥の部屋の玄関前まで来ると、いつになく昂月は戸惑った。
ふたりで会うようになってまもない頃に逆戻りしたように緊張が纏わりつき、ドアチャイムに持っていった指が自身の覚悟を試すように少し震えている。
一つ深呼吸をしてドアチャイムを鳴らすと、すぐに高弥は顔を出した。
高弥がドアの外に立つ昂月をじっと見つめる。
「ごめん、心配かけて」
その喰い入るような眼差しに戸惑いつつ、昂月は以前と変わらない声を気にかけながら笑った。
中からドアを支え、高弥は躰をずらすと、入るように無言のままに昂月を促した。昂月はブーティを脱いで部屋の奥へと進み、そのあとからゆっくりと高弥がついてくる。
馴染んだ柔らかい黒革のソファにバッグを置くと、昂月は視線を合わせるのも心地悪くて窓の外に目をやった。
都会に伸びあがるビルの窓に反射した光が、冷たく昂月を見返す。
話すことは決まっているのに、いまだどこから話していいのか困惑していた。
一方で高弥も言葉を探しているのか、黙り込んでいて、二人ともが所在なげに立ち尽くすばかりだった。
「コーヒー、淹れるよ」
向き直って気まずさを断ちきるように昂月が云うと、失言を恐れているかのように高弥は沈黙を守り、うなずいて答えた。高弥は昂月の一挙一動を静かに見守る。
「心配しないで。元気にしてるでしょ?」
コーヒーをソファの前のテーブルに持っていくまで、昂月は取り留めのない世間話を一人でひたすら明るく喋った。
「おれは必要ない?」
ソファに座ったとたん、向かいの高弥がまっすぐに瞳を向けて昂月の瞳を捕らえた。抑制された静かな声だった。
あたしたちは――あたしは……。
「必要なくなったのはあたしなの。最初から……高弥にあたしは必要なかった」
電話で話したときと同じことを、昂月は淡々と口にした。
自分はいつだって不要だった。祐真にも高弥にも、だれにも必要ではない。必要どころか、彼らにとっては負担になることしかできなかった。
「おれのことを、わかろうとするまえから決めつけてほしくない」
乱暴に告げられたその言葉は重く、昂月をつらくさせる。
……どこで間違ったんだろう――。
高弥のどんなに真摯な告白も、昂月は拒否することしかできない。純粋な高弥の約束の言葉が邪魔している。
何もかも知ったときに同じ気持ちでいられるの?
「高弥が傍にいたら頼ってばかりで、混乱して、自分がわからなくなる」
高弥は瞳を逸らして、髪をクシャッとかきあげた。言葉にすることのないいろんな感情を処理するための高弥の癖。
こんなことに巻き込んではいけない人だったのに。こんな弱いあたしのために。
祐真は昂月を認めてくれた。昂月を昂月として見てくれた。
還れる場所をなくしたくなかった。
あたしのたった一つのそのわがままが祐真兄を苦しめた。
それでも祐真は高弥と引き合わせてくれた。
昂月の家で暮らしはじめたばかりの頃の祐真が冷めて見えたように、最初は高弥のことを冷たい人だと思った。一緒にいる時間を重ねるにつれ、その裏に潜む高弥の優しさが感じ取れるようになった。
その優しさは祐真のものと同じ種類のものだ。
言葉に依るものではなく、伝わってくる波動。
昂月が無二の存在であることを常に感じさせてくれる。
雨上がりの空に映える虹のように、それは高弥への道を渡し、昂月を導いた。
その優しささえあれば、ほかに何もいらない。
そう思っていたのに、その儚い虹の道はじゃぼん玉に映る虹が呆気なく弾けるように、いきなり途切れてしまった。
あたしは光を持たない。光がなければ虹は見えない。
罪悪感も前触れも悉く無視して、認めることを引き延ばし続けた弱虫な自分には何も残らない。散り散りになった昂月の心の断片はもう繋がることもかなわず、いつのまにか修復も不可能なところまできていた。
あたしに必要なのは――。
「それで……おれは待っていることしかできないのか?」
「待っていてくれるの?」
「そうしてほしいのなら――それしかできないのなら……そうする」
なんの保証もないのに、高弥は迷いなく応じた。
祐真ばかりか、高弥をも失ってしまう。
高弥を信じている。でも、あたしは信じ抜くことができない。
終わらせるしかなくなった。
けれどそれは、予定していたよりは少しだけ早かったというだけのこと。
そう云い聞かせた。
あたしのわがままがまた悲運を招くまえに。
それほどに高弥の意思は重たく、忠実すぎる。
「高弥と祐真兄は似てる。あたしのことをすごく大事にしてくれる。でも……一つだけ違うところがあるんだね」
「何?」
「うん。高弥はどんな逆境にあっても、それに向かっていく強さを持ってる」
「おれは強いんじゃなくて、わがままなだけだ。欲しいものは手に入れるために、どれだけでもがむしゃらに頑張れる。興味ないものはどうでもいい。それだけのことだ」
「諦めたことある?」
「……いや、ないと思う」
少し考えてから断言したその言葉に、高弥の意思の強さを感じる。
「羨ましい。あたしも頑張れる強さがほしいな」
「諦めるなよ」
高弥がようやく笑った。
もっと早くに高弥と出会っていたら頑張れただろうか。在ることすべてを認める強さを持てただろうか。
そうしたら祐真が逝ってしまうこともなかったのかもしれない。
あたしに必要なのはただ一つ。
断罪だけ――。