ONLY ONE〜できること〜 #21
第3章 エデンの果実 4.Fury-怒り-
家に帰ってしばらくしてから、昂月は慧に連絡を入れ、大学で待ち合わせをした。
午後になって閑散とした大学へ行くと、課題のレポートを教授に提出し、敷地内の一角にある木陰のベンチで慧を待った。
休校中の大学はいつもより静かではあるが、時折、サークル活動などで賑わう声が校舎の隙間を縫って響いてくる。
缶コーヒーがなくなる頃、校舎から出てきた慧が足早に近づいてくるのが目に入った。重たくないだろうかと思うほどの、何種類ものブレスレットをした左手をヒラヒラと振ってやってくる。大学二年生ともなると化粧も慣れてきたせいだろうか、慧は昂月を取り残してずいぶんと大人びていた。
「昂月、ごめん、遅くなって。慌てて家を出たから、肝心のレポートを持ってくるのを忘れちゃって取りに帰ったのよ。せめて電車に乗るまえに気づいてよかった!」
「あたしが慌てさせたんでしょ」
「まぁ、ね」
慧の正直さはいつも気持ちいい。
慧は隣に座り、フゥッと息を吐いて呼吸を整えると、ブレスレットをいくつも重ねた手でミディアムレイヤーのサイドの髪を耳にかけた。
「天気いいね」
「……ぷっ。あたしに天気の話をしたいわけ?」
慧が吹きだして茶目っ気たっぷりに目を見開くのを見て昂月も笑う。
「もちろん、違うよ。なんとなく天気がいいと、いまから話すことも気分的に和らぐ気がして……ごめんね、心配かけて」
「いいわよ。心配するのはあたしの勝手だから」
「あたしね、慧が云うとおり……秘密にしてることがある」
「うん……無理に話さなくてもいいよ。あたしは、あんたがラクになるならって思っただけなんだから」
慧はぶっきらぼうに昂月を引き止めた。
「そうだね……いまなら、ラクになれるかなって思ったんだ」
そう云って、そっと微笑う昂月の横顔を慧は見つめた。
穏やかに見える裏で、彼女はいつも泣いている。昂月に好意を抱いているなら、そう気づくのは自分だけではないはずだ。
幼い頃から、いつもさみしそうにしていた昂月は、祐真が来てから少し元気に、強くなっていたのに、いつの間にかまたもとの彼女に戻っていた。
「わかった。聞いてあげるよ」
「うん。ありがと」
けれど、昂月はやはりためらっているのか、すぐには切りださなかった。
「……あたし……あたしと祐真兄は……本当は――――」
ようやく、昂月が微笑いながら続けた告白とその経緯は、慧にとっては考えもしなかったことで、ただ呆然とした。祐真と昂月がなぜ離れてしまったのか、その理由に、ここに来てはじめて慧は納得がいった。
昂月に祐真が必要だったように、祐真にも昂月が必要だった。そんなふたりに降りかかった事実はあまりにも過酷すぎる。
そうである必要なんてどこにもないのに。
「なんで……なんで、あんたたちが従兄妹じゃなくて兄妹でなきゃいけなかったの?」
だれも答えが出せないとわかっているのに問わずにはいられなかった。
音もなく流れる慧の涙はしばらく止まらなかった。
どうして?
人が抱える数えきれない疑問に、たしかな答えが返るのはわずかしかない。それらを抱えたまま、人は自分を乗り越えていかなければならない。
慧に打ち明けたことで、昂月の心の波が少し静まった気がした。
「慧が泣くことないのに」
「昂月が泣かないからよ」
「泣かないんじゃなくて泣けないのよ。自分が悪いのに泣けるわけない。泣いても何も変わらない。取り返しはつかない」
笑うことしかできなくなった昂月はまだ隣で笑っている。
祐真兄ちゃん、祐真兄ちゃんが昂月に望んでたのはこんな笑顔じゃないよね?
「祐真兄は隠すために唯子さんまで利用したの。あたしのせいだよ。あたしが祐真兄を引き止めた」
「お母さんたちは……?」
「うん。あたしが“知ってる”ってことを知らない」
昂月の中に宿った怒りは、悲しみと入れ替わってだんだんと膨らみ続けている。
「もう、お利口さんはやめる。あたしも祐真兄も、あの人たちのオモチャじゃない。思いどおりにはさせない」
「昂月……?」
慧は昂月の『あの人』という両親を指す言葉に驚かずにはいられない。
「ごめん。疲れたんだ」
昂月はやっぱり笑って、戸惑っている慧に謝った。
「いいよ。昂月はずっと我慢してたから……それはわかってる」
「あたしのわがままはたくさんの人を悲しませちゃったね。高弥も唯子さんも巻き込む必要なかったのに、あたしがラクになりたくて……つらくさせてる」
「高弥さんはともかく、唯子さんのことは気にする必要ない。あたしは、あの女性が本気で祐真兄ちゃんのことを好きだったとは思ってない」
「どうして?」
「祐真兄ちゃんが生きてるときは全然わからなかったけど、というか、思いもしなかったけど。このまえ……ミザロヂーで見てたら気づいた」
「何?」
昂月の家に来る唯子と数回会ったことがある。そのたびに慧が覚えた不快感と違和感。そう感じる理由が、あの日、ミザロヂーで唯子の視線を追っていてはっきりした。
「唯子さんの本心は、高弥さんだと思う」
「…………」
昂月は慧を見返して、それから視線を逸らすと、つと目を伏せた。
『高弥をくれる?』
唯子はそう要求した。
あれはやはり本心だったのだろう。
「そっか。敵わないな」
昂月がため息とともに漏らした。
「敵わない? 敵わないのは唯子さんのほうよ」
「あたしは……」
「昂月、高弥さんのこと……祐真兄ちゃんのときみたいに、今度は諦めたりしちゃだめだよ」
昂月は視線を上げて慧を見ると、ほっとした表情を浮かべる。
「慧は……変わらないのね」
「……なんのこと?」
慧は意味のわからない昂月のつぶやきに首をかしげる。
「嫌われるかなって思ってた」
「なんでそんなこと……」
「兄妹なのに、あたしは祐真兄が逝ってしまうまで別れることができなかった。祐真兄が生きてたら、あたしはまだ引き留めてるよ。きっと」
「あんたたちは兄妹ではじまったわけじゃない。事情を知ってるいちばんの親友のあたしが、そんなことで嫌いになるわけないよ。いちばんでしょ?」
慧が強引に同意を求めると、昂月は可笑しそうに笑って、そして虚ろに変わった。
「それに……あたしだから、祐真兄を殺したのは――」
「何云ってんの? 違うでしょ! 事故だったじゃない」
「うん。でも、あたしがちゃんと祐真兄を放してたら、祐真兄はそこで終わらなかったかもしれない。ちょっとまえから体調悪かったって聞いてる。早く治療すれば助かったかもしれないのに祐真兄はそれを放っておいた。病院へ行こうとしなかったのは祐真兄が決めたことなの。きっと、あたしのことを解決するほうがさきだと思ったんだよ。あたしがそういう選択をさせた」
「なんでそんなふうに思うの?!」
「慧が否定しようと、ほかのだれが否定しようと、祐真兄を死という運命に導いた要因のなかにあたしという存在があったのは事実だよ。あたしのことで悩んでなかったら事故なんてなかったかもしれない。それを認めなくちゃいけない。忘れないで……って、祐真兄の遺言を無視して、あたし、忘れようとしてた。忘れようとして高弥に逃げてた。思いだすのはつらい。でも、忘れようとしてるのに思いだすのはもっとつらいよ」
「そんなことを思ってたら、祐真兄ちゃんは天上に行けないよ。ずっと祐真兄ちゃんに後悔させてここに縛りつける気なの?」
「祐真兄は悪くない。でも、いまは重たい。全部投げだしたい。祐真兄に謝らないといけないことはいっぱいある。でも祐真兄に謝ってほしいこともある。あたしと祐真兄はふたりとも、お互いを裏切ったの。このまえ、慧は云ったよね。祐真兄があたしを連れて行くんじゃないかって。もう……祐真兄が連れて行くとしてもそれはあたしじゃないんだよ、あの少女の存在があってもなくても。あたしは……祐真兄を裏切ったの」
祐真のことをすべて頭ではわかって受け止めることができても、心がついていかない。
だれにとっても、祐真兄のことを抱えたあたしは重すぎる。だから、どうせ独りで生きていかないといけないのなら、何も必要ない。
そう思ったのに、慧と良くんはあたしを見捨てなかった。あたしの中に期待が生まれる。
でも――。
「……高弥さんのことも投げだすつもり?」
「高弥は……あたしにはもったいないよ。高弥にも全部話す。あたし、もう祐真兄のかわりは必要ないから」
いま、昂月の声からは無理した感情が容易に読み取れる。
祐真と決別できなかった昂月の甘えは、結局は自分に跳ね返ってきた。
あたしは自分を許せない。
だれが見ても価値のある存在なのに、それに気づかなかった昂月は、高弥を手放さざるを得ない。幸せになりたい、よりは、幸せになってほしい。そう思うほど、傍にいてほしい大切な存在なのに。
「そういう覚悟があるわけだ」
「平気。これまでのあたし、贅沢すぎたんだ」
「高弥さんが昂月の決断を放っとくとは思えないけど……ま、それについては高弥さんに任せましょう。ただ、なんの力にもなれないかもしれないけど、あたしがいることは忘れないで」
英国ホテルへ戻ると、昂月はドサリと倒れるようにベッドに仰向けに寝転んだ。
祐真兄、あたしは独りで立ち向かえるかな。
祐真が倒れていた窓際に近いほうの空っぽのベッドに視線を移した。そこは見えない結界が存在しているかのようで、このスイートルームで唯一、昂月が入れない領域となっていた。
高弥という存在があるにも拘らず、処理できない嫉妬とも怒りともつかない混乱が、どこに持っていきようもなく昂月の中に溢れる。
こんな感情は要らない。
祐真兄、あたしは幸せにはならない。それがあたしの復讐。
ねぇ、祐真兄、あたしは高弥のために何をしてあげられるのかな――。