ONLY ONE〜できること〜 #20

第3章 エデンの果実  3.嫉妬-Jealous(ジェラス)-


 急に思い立ってかけた電話はなかなか繋がらない。
『はい』
 長引いた呼びだし音がようやく眠った頭に届いたようだ。
「ごめんなさい、朝早くから」
『……昂月か?』
 少しぼやけた声が反応する。
「ちょっと話したくて……時間は空いてるかなと思って」
『いまから?』
「ううん、昼休みでも、仕事が終わってからでもいい」
『ちょっと待ってろ』
 電話の向こうで紙が(こす)れる音がする。
『昂月、いますぐこっち、来れるか?』
「うん。でも学校は?」
『今日は二時間目まで授業の受け持ちがないから大丈夫だ』
「わかった。すぐ行くね」

 昂月はフロントにキーを預けてホテルを出た。
 昨日一日をずっとホテルの中で過ごしていたせいか、外で見る太陽の光は眩しく感じられる。
 タクシーで三十分ほどかかり、赤系グラデーションの煉瓦の壁がお洒落(しゃれ)なマンションに着いた。エントランスに入り、セキュリティ用キーボードから部屋番号を入力する。
「あたし、昂月」
『ん、ロック解除した。上がってきて』
 繋がると同時にインターフォン越しに短く話すと、中へと続くドアがまもなく開いた。
 エレベーターが七階に止まり、ドアが開いたとたん、
「おはよう」
と、目の前でスーツ姿の良哉が迎える。
「良くん、相変わらずだね」
「何が?」
「こういう優しいところ」
「そうか?」
 良哉の無意識に出てくる優しさは勘違いを生み、これまで数多くの女性を泣かせてきた。かつては来るもの拒まずといった感があったが、航が云うには最近はそういった付き合いもないという。
 良哉の傷は昂月と同じように度重なり、(いや)すには時間がかかるのかもしれない。
「どうした?」
 部屋に入るとすぐに、つくっておいたコーヒーをテーブルに置きながら良哉が訊ねた。
「うん……」
「……あてが欲しくなった?」
「……わかんないよ……全部が……」
「そう……だな」
 良哉は自嘲(じちょう)を含め、同意した。
「おれが云えることは一つしかない」
「……高弥が……あたし……いま独りで……」
 昂月の言葉は良哉のそれとまったく噛み合っていない。
 それでも良哉は事情が読み取れた。
「わかった」
「祐真兄は……どうしてあの時に死ななくちゃいけなかったの?」
 その想いは良哉も同じこと。いや、良哉に限らず、祐真を慕った者にとっては同じ疑問だろう。
「おれが答えられるのは一つだけだよ」
 良哉は同じ意味の言葉を繰り返した。
「訊いて……いい?」
「ああ。昂月が望むとおりに生きればいい。自分を抑える必要はない。それだけだ。祐真の、現在(いま)の想いはそうなんだ」
 幼い頃から友人だった良哉の断言は、きっと祐真の現在の真実。
「でも……良くん……自分の望みってわかる?」
「難しい質問だな。たぶん……わかってると思う。ただ、おれの場合は果てがないかもしれない」
「良くん、云ってることが難しいよ?」
「ああ。自分でもまだ整理ついてないんだろうよ」
 良哉は笑みを見せた。
「良くん、女遊び、やめたのね」
 あまり散らかっていない部屋は、かつては明らかに女性の持ち物が置いてあった――というよりは女性が勝手に置いていくらしいが、いまは見当たらない。
「人聞きが悪いな。向こうが寄ってくるから仕方ない」
「だれにでも優しいからね、良くん。そういうの、罪作りって云うんだよ」
 良哉は首をかしげて笑った。
 煙草を取りだすと、少しうつむいて火をつける良哉の端正な横顔を昂月は眺めた。良哉もまた、だれをも惹きつけてやまない。
「公平無私。教師としてはこれ以上にない人格だろ?」
「それはそうだけど……」
 良哉は大学卒業後、私立高校で数学の教師をやっている。
 いくら来るもの拒まずとはいえ、まさか生徒にまで……。
「昂月、おまえ、いまヘンなこと想像してるだろ。そこまで堕ちちゃいないよ。そんな面倒なことやって、面倒なことに巻き込まれるのはそれこそ面倒くさい。それに……おれも見つけたんだ。これから探さなくちゃならないけど」
「矛盾してるよ。見つけたのに探すって?」
「はは……自分が探しているものが見つかったんだ。それを探してる。祐真のおかげかもしれない」
 力なく笑って良哉はそうつぶやいた。
「良くんは……どこまで……祐真兄とあたしのことを……?」
 ためらいつつ、昂月は訊ねてみた。
 たぶん、良哉は気づいてるはずだと思った。
「……祐真が水納を連れ回すようになった頃……知っているというよりはわかったと云うべきかな。なんの障害もないはずの昂月がいるのに、祐真がそれでも自分の気持ちを偽って彼女と付き合いだした理由を考えた。おまえと祐真は似てるよ。答えは一つしか浮かばない。その真相はわからないけど」
「……良くんは……いい教師だね」
「おれは……結局、わかっていてもなんの力にもなれなかった」
「そんなことない。あたしが悪いんだよ……いま……家を出てるの……」
 隣に座っていた良哉が手を伸ばして昂月の頭を引き寄せ、つかの間、強く包んで放した。
「大丈夫だ。昂月がどの道を選ぼうと、それは祐真が導いているのかもしれない。高弥のことも……」
「ごめん……高弥も良くんも優しすぎるよ。祐真兄のことでつらくさせて……あたしのことまで……。あたしはなんの力にもなれてない。祐真兄にとっても結局は重荷にしかなれなかったよ」

「昂月、おまえは自分の力に気づいていない。おまえがいなかったら、祐真の人生は悲惨だったかもしれない。福岡にいた頃は……やろうと思えばなんでもこなせるくせに真剣さが足りないっていうか、要するに無気力なところがあった。バンドを一緒にやってても、テクニックはずば抜けてたけど音に対する熱がない。あいつが音をつくりはじめたのはこっち来てからだ。祐真があれだけ真剣になれたのは、おまえに認めてもらうためだったんだ」

「あたしに……?」
「そうだ。プロになるちょっとまえ、あいつは、おまえのまえで恥じるような生き方をしたくないって、そう云ったんだ。おまえがいなかったら、ユーマは存在しなかった。祐真は変わったよ。そして高弥も。おまえの力だ」

「ありがとう……あたしにも望み……わかるかな……」
「昂月の望みは目のまえにあるはずだ。それが見えたら、祐真の意思も見えるだろう」
「わかった……自分に訊いてみる」
 良哉にはわかっているらしい。けれど彼を頼ってはいけない。きっと、自分で探さなくては意味がない。
 良哉は昂月と一緒に下まで行くと、タクシーが来るまでエントランスで待った。
「いま、どこにいるんだ?」
「まだ云いたくない」
「あんまり心配させるなよ」
「ごめん。良くんが知ってるってわかったから、ちょっと落ち着いた。いつもありがとう」
「兄としては当然だろう?」
 そう云うと、昂月はわずかに表情を硬くした。理由を突き止めるまもなく、タクシーが止まった。
「じゃあ、またね」
 良哉は軽く手を上げて昂月を見送った。
「泣けたら少しはラクになるんだろうけどな……」
 半ば自分に云い聞かせるように独り呟いた。

 部屋に戻ると、良哉は顔をしかめてリビングのソファに座った。テーブルから煙草を一本取って火をつける。
 だだっ広いリビングの片隅に置いた、いまは眠ったままのピアノに目をやった。三年前まではたしかに昂月と祐真の素直に笑っている姿がそこにあったのに。
 最後に祐真を見たのは、逝ってしまう四日前。
 昂月がこれ以上に傷つく必要はない。そう思って、見たことをだれにも云わないまま、ここまで来た。話していたら、いま昂月が感じている罪悪感もためらいもなかったかもしれない。
 けれど、何れにしろ昂月は傷ついた。
 祐真……酷すぎるだろ。おまえが連れていた女はだれだ?
 その顔を見ることはかなわなかったが、彼女もまた祐真を変えたことはたしか。
 祐真が救われたなかで逝ったのなら、おれにとっても救いになる。
 けど順番が違うだろ、祐真?
 苛立ちを抑えるように灰皿に煙草を押しつけた。
 高弥、おまえが祐真の立場にあったらどうする?


 良哉のマンションを出て、昂月はそのまま家に帰った。
 美佳はおそらく芳樹に説得されて、折り合いをつけたのだろう。昼間の家には変わらず、だれもいなかった。
 祐真の部屋に入ると、すとんとベッドに腰掛けた。
 あたしの中の罪悪感。あたしの望みは……。
 高弥も、あたしも、良哉も、だれもが……傷はいつか癒えるのだろうか。


 戒斗と電話で話している最中、ドアベルが鳴った。セキュリティ番号を知っている人間は限られている。会話を続けながら、高弥は不意の来客を出迎えるために玄関へ行った。
 ドアを開けると、そこには良哉が立っている。
「邪魔するよ」
 良哉は云うなり、許可も得ずに高弥の横をすり抜けて奥へと行く。
「なんだ、こんな時間に? 仕事は……?」
 電話を切ると、高弥はリビングの入り口で立ったままの良哉に訊ねた。
「仕事に行くまえに話がしたかった。このままじゃ手につかないんでね。(うわ)の空でやれるような仕事じゃない」
「……なら、座れよ」
「昂月が来た」
 良哉にいきなり昂月の名を持ちだされ、高弥は眉をひそめた。
「どういうことだ?」
「そのまま返すよ」
 良哉は刺々(とげとげ)しく云った。いつになく険悪な表情だった。
 ますます高弥の表情が強張(こわば)る。
「昂月の居場所を知ってるのか?」
 すると、いきなり良哉は高弥の胸ぐらをつかんで壁に押しつけた。
「昂月がおまえに教えないんだ。おれが訊いたって教えるわけないだろうが! 航が云わなかったか? 昂月を突き放すような奴をおれは容赦しない!」
「突き放したわけじゃねぇよ。おれと昂月のことに口出すな」
 高弥は良哉を睨みつけ、歯痒(はがゆ)く云った。
嫉妬(しっと)――か?」
 良哉は口を歪めて高弥を(あざけ)った。
「気にいらねぇな」
「お互いさまだ。おれに嫉妬してどうする? 祐真はおれとは比べものにならないくらい昂月に愛されてたぜ?」
「おまえに云われなくてもわかってるさ!」
 堪りかねて、今度は高弥のほうから良哉につかみかかって吐き捨てた。

「だったら、なぜ昂月に痛みを()いる? 昂月は祐真に突き放されたままなんだ。おまえも知ってるだろ?! 祐真は不本意に逝った。そのうえにおまえが突き放すような真似をした。いまのままでどうだっていうんだ? 祐真を越えたくなったか?」

 高弥は顔を僅かに歪めるだけで、否定しなかった。それがすべてではなかったが、そうではない、と云ったら嘘になる。
「高弥、おれは云ったよな? 死ぬまえ、祐真がなぜおまえのことをおれたちに訊いたのか、おまえはわかってるのか?」
「おまえが云ったとおり、おれになら(ゆず)れると判断した……と思ってる」
「じゃあ、おれでだめだった理由は?」
「んなこと、知るかよ」
「おれには治りきれない傷がある。理由はそれ一つだ。祐真が、昂月にはおまえみたいな奴が必要だと判断したんだ。それをわかって引き受けたんだろうが。なら、そのままの昂月を受け入れて最後まで(つらぬ)け」

「全部を受け入れる覚悟は()うにできてる。祐真の存在も含めて、だ。だから、昂月から話してほしいと思った……すべてを。そうじゃなきゃ、守りきれねぇよ。その意味はわかるだろ? 祐真のあの(すさ)み方は普通じゃなかった。おれは、おまえと違って(もろ)に特殊な世界にいるし、すでにマークされてる。何かあったときにおれが呆然(ぼうぜん)としてたら昂月を守りきれないかもしれない。おれは不安要素をなくしたいんだ」

 それを聞いて、良哉はあっさりと手を放した。
「悪かった。確かめたかったんだ」
 (あやま)った良哉はいつもの彼に戻っていた。
 二人ともに軽く息を吐きだし、乱れた服を整えた。

「おれだって祐真がなんで死んだのかわからねぇよ。付き合いの長さなんて関係ない。つらいのは同じだ。祐真は……たぶん、おれが昂月に惹かれていることを知ってた。あいつが生きてたら昂月を奪うつもりなんてなかった。けど……こんなことになるんなら堂々と奪っときゃよかった」

 高弥は力なくやりきれないように云った。
 惹かれているという言葉ではきっと軽すぎる。
 良哉は同意するようにうなずいた。
「おまえは祐真と本質的に似ている。けど、祐真とは違う。昂月は……」
 良哉は言葉を切って肩をすくめた。
「おまえは昂月を――」
「違う。“妹”だよ。おれにとって、昂月は祐真の形見だ」
 高弥の疑問に、良哉は『妹』という言葉を強調しながら、きっぱりと否定した。

 自分で察することができるのか、あるいは昂月の口から聞くことになるのか。何れにしろ、“そこ”にたどり着けるかどうかはおまえ次第だ、高弥。そのさきに待っている結果も。

「祐真は……昂月をどうするつもりだったんだ?」
 高弥は疑問を重ねた。
「祐真は自分からも昂月を守ろうとしていた。その結論がおまえだ」
「どうしてわかる?」
「これでも、親友として祐真と昂月の時間を最初からすべて観てきたっていう自負は持ってる」
「なら、昂月のことはおれに任せればいい」
 高弥は顎を少し上げて横柄(おうへい)に云ってのけた。
「そうするよ」
 良哉は笑ってそう云うと帰っていった。

 嫉妬――か。
 高弥はうつむいて、何かを吹っきるように首を振った。

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