ONLY ONE〜できること〜 #19

第3章 エデンの果実  2.ディレンマ-Dilemma- act2


 電話でのやり取りが胸に(つか)え、なんとなく今日もすんなり眠れないような気がして、昂月は部屋を出た。
 エレベーターで最上階まで上がると、廊下の向こう側にバーラウンジへと入るドアがある。廊下に面した窓は、素通りで見え難いように、それでいて空間に圧迫感を与えないように、花のデザインが施されたスリガラスが使われている。
 ドアを開けると、ピアノの音が耳に入ってきた。左側奥のカウンターでは、バーテンダーが客の目の前でカクテルをシェイクしている。
 店内には二十を数えるくらいの小振りのテーブルがあり、外側の窓際にはカウンターのように一枚板のテーブルが据えられ、スツールが等間隔にある。
 十一時近くになろうとしているが、客はそれなりに入っていた。
 バーテンダーが近づいてきたので、右手の奥にあるピアノ近くのテーブルに案内してもらった。
 お酒を注文したい誘惑に駆られたが、真貴に迷惑をかけるかもしれないと思うと躊躇(ちゅうちょ)した。おすすめのソフトドリンクを頼んで、ピアノの演奏に聴き入る。
 流れているのはピアノアレンジされたパッヘルベルの“カノン”。繰り返しのようなメロディが、ピアノらしい優しさで音を奏でる。
 昂月の大好きな曲で、祐真と良哉のマンションに行くたびにリクエストして弾いてもらった。良哉のピアノを追って、一足遅れた祐真のギター音が続く。
 耳をすませば、この瞬間にもギターの音色が聴こえてきそうな気がした。
 祐真から遠ざかっていた距離が、ここに来て縮んでいく。

「ご一緒してよろしいですか」
 小さく音をたててテーブルに置かれたグラスを持つ手から視線を上げていくと、スーツ姿の背の高い男が問うように見下ろしている。空いた席があるのに、と思いながら店内を見渡しているうちに、返事も待たず、男は目の前に座った。
「……席……空いてますよ」
「話す相手が欲しいんです」
「……あたしは話したい気分じゃないんですけど……」
「勝手に喋らせてください。無視してくれてもいいですよ。一人で喋って変人扱いされたくないだけですから」
 男はおどけたようにそう云った。
 昂月が首をかしげると、男は笑みを浮かべる。
「知ってますか。ずっと一人でいると話す機会がなくて、数時間でもそういう状態が続くと、口が思ったように開かなくなるんです。それで一度、顎を外しそうになったことがあります。ハンバーガー、食べようとして」
 真面目な顔をして男が肩をすくめると、昂月は思わずプッと吹きだした。
「まさか、この時間にハンバーガーを食べるつもりじゃないですよね?」
「うーん。そうするには少し若さが足りないかもしれませんね」
 そう云った男は二十代の後半か、三十代前半くらいだろうか。体系と同じように、話し方もスマートで嫌な印象は受けなかった。
 男は最初に宣言したように、昂月の返事さえ期待していないように勝手に喋り続けた。が、男の話術は巧みで、昂月は無視できないまま時折、相槌(あいづち)を打ったりと、話題は世間話だったがいつのまにか聞き入っていた。
 自分のことを何も知らない男との時間は、昂月を少し慰めてくれた。
 全部を捨ててもこうやって、やっていけるかもしれない。
 互いに名乗ることもなく、その日が終わろうとする頃に男とは別れた。

 部屋へ戻ると、ベッドに潜り込んだものの、眠ったり起きたりを繰り返して一夜明け、昂月の気持ちに整理がつくことはなかった。


 まだ朝も早いというのに、都心にあるオフィスは思ったとおり、すでに開いていた。無用心なくらい、入った事務所内はだれも見当たらない。そのまま、ためらうこともなく奥の個室に向かった。
「父さん、話がある」
 ドアを開けるなり、高弥は急かすように云うと断りもなくデスク前のソファに座った。
 伊東は驚いて少し目を見開くと、デスクをゆったりと廻って高弥の前に腰を下ろし、煙草を取りだした。
「どうした?」
「おれにも一本くれよ」
「……めずらしいな。プロになってやめたと思ってたんだが」
 高弥は答えず、受け取った煙草に火をつけると一息大きく吸った。
「祐真はどこで倒れたんだ?」
 いきなり本題に触れた高弥の表情にはつらさが見え隠れしている。
「今更、それを知ってどうする?」
「昂月がそこにいる。そうだろ?」
「昂月ちゃんは三日前、ここへ来たよ」
 目を合わせることなく、書類が詰まった棚をさまよっていた高弥の視線が動き、伊東の上で止まった。
「なんて?」
「待ってやれ。おまえがそう仕向けたはずだ。おまえが覚悟したように、昂月ちゃんもそれに応えようと覚悟したんだ」
 高弥は再び目を逸らし、組んだ足の上で手に持った煙草に視線を落とす。
「おれは……どうしたらいい?」
「いまの気持ちを忘れないことだ」
「……なんで祐真は死んだ?」
 高弥は苦々しく、伊東に質問を繰り返した。
 それは早くに病気で死んでしまった母親についての疑問でもあるのかもしれない、と伊東は思った。

「それがわかるなら人間が生きる意味もなくなる。残された者にできるのは、その命の継承を手助けすることだけだ。神瀬家は複雑な家庭だ。昂月ちゃんの傷が治るには時間がかかる」

 高弥は訝るように顔を上げる。
「複雑って……祐真の両親が亡くなって引き取られたことだろ?」
「私の口からは云えんよ。守秘義務がある」
「父さんは……祐真のことをどこまで知ってるんだ?」
「私が(あずか)り知るところまで、だ」
 高弥はしばらく考え込むように顔をしかめていたが、やがて煙草を灰皿に押しつけると立ちあがった。
「高弥、祐真くんがなぜ昂月ちゃんを相続人にしたのかわかるか」
「それだけ……信頼してた」
 たぶん、信頼という言葉では軽すぎる。その言葉を使いたくないだけなのか。
「昂月ちゃんはそう思ってない」
 高弥は問うように伊東を見下ろした。
「彼女は復讐だと云ってる」
 高弥は聞いた瞬間に言葉を失った。
「なんで……」
「それだけ根が深いってことだ。高弥、祐真くんが私を顧問弁護士に指名した理由はなんだ?」
「……なんだよ?」
 伊東は自分と背格好も顔もよく似た高弥をまっすぐに見上げる。
「私が“おまえ”の父親だからだよ」
「……」
「私は神瀬の両親が知らないことも知っている。どうしても訊きたいときには、また来ればいい。守秘義務は放棄してやるよ。それが、おまえの助けになるなら」
 高弥は驚いたように伊東を見返し、そしてかすかにうなずくと部屋を出ていった。

「参ったな……女の力には敬服せざるを得ん」
 高弥が出ていくと、伊東は思わず驚きを声に出した。高弥がこんなふうに自分を頼ってくるとは考えたことすらない。
 そして見かけだけではなく、一途なところも似ているらしい。
 早くに妻を亡くし、それ以来、再婚することもなくこれまでやってきた伊東は、あまり人に見せることのない、うれしそうな表情を覗かせた。
 無論、ふたりの前途を案じてはいるが。
 祐真が逝った日、その直前に電話で伊東が受けた依頼の一つ。
『おじさん、高弥を貸してくれませんか』
 いまになってその意味がわかる。
 祐真くん、貸すまでもなく、高弥は自分で志願したようだ。


 昼間、部屋にこもって過ごしていた昂月は、夕方になって真貴から夕食の誘いを受けた。
「伊東さまから電話が入りましたよ」
 ホテルのレストランで早めの夕食を取っている最中(さなか)、真貴がためらいがちに切りだした。
「伊東のおじさま……?」
「ええ。昂月お嬢さまの安否をお気遣いでした」
 もしかしたら……高弥が……。
「真貴さんも伊東のおじさまも心配症なんですね」
「そうでしょうか?」
 真貴はお決まりの困惑顔を向けた。
 昂月はそっとため息を吐く。
「伊東のおじさまの息子さんが……ずっと祐真兄のかわりをしてくれたんです。でも……もう終わりにしなくちゃ。祐真兄のことも……」
「昂月お嬢さま、終わりにする必要はないんですよ。思い出にする必要はあっても」
 真貴は温和な表情で励ます。
「息子さん――高弥さんっていうんですけど……」
「存じてます。これでも客商売ですから、(ちまた)の流行は押さえているつもりですよ」
「あは。そうですよね」
 昂月は少し笑って、哀しみをその顔に宿した。
「……高弥はあたしにはもったいなくて……たぶん、おじさまの電話も高弥のせいだと思います」
 伊東と高弥はけっして仲がいい親子ではない。伊東が云っていたように、かまわなかったぶんだけ高弥は無口になり、昂月からも、親子の間には築かれた見えない壁が感じ取れる。
 それにも拘らず、高弥は伊東のところへ行ったのだ。
「どんな理由があろうと、人に心配させるようなことはお止めください。大事な人なら尚更のことです。それで気が狂ってしまう人もいますよ」
 ゆったりとした口調で、真貴は諭した。
「そんな……」
 昂月は笑って否定しようとしたが、最後まで云えなかった。
 真貴の表情はあまりに真剣で、そして精神的痛手はどれほど酷く人を傷つけるかを昂月自身も知っている。
「祐真さまが(おっしゃ)っていましたよ、あなたは天使なんだと。ご両親が亡くなって、祐真さまのすべてが闇に包まれて……昂月お嬢さまはその心に光をくれた天使だと」
「……羽根もないのに?」
 おどけて問い返した昂月に、真貴は(たしな)めるようにゆっくりと首を振って真剣に答える。
「祐真さまには見えていたんです、きっと」
 そんなことはない。
「ですから、だれにとっても、もったいないことはありませんよ」

 けれど、祐真のために昂月は何一つできなかった。
 違う。
 できなかったんじゃなくて、あたしは祐真兄のためになることを何一つやろうとしなかった。いつも自分のことばかり。

「よく会いますね」
 どこかで聞いた声が頭上から届いた。顔を上げると昨日、バーで一緒になった男だった。
 早めに席を立って仕事に戻った真貴と入れ替わるように、断りもなく男は座った。
「同じホテルに泊まっていればそうめずらしいことでもないですよね。それに『よく』じゃなくて、まだ二回目です」
 昂月は理屈っぽく云った。
「それは失礼。日本語は難しい」
 男は外国人にありがちな大げさなジェスチャーを交えて困ったふりをしている。
 昂月は思わず小さく笑った。
「ところで支配人とはお知り合いなんですか?」
「え?」
「いままで一緒にお食事されていた方、このホテルの支配人でしょう? ひょっとして貴女はどこかお偉いさんのご令嬢じゃないかと思ってみたんですが」
「そんな気取った出身じゃないんです。れっきとしたお嬢さまを探してるんならほかを当たったらどうですか?」
「べつに妻探しをしているわけではありませんよ。ちょっと興味を持っただけです」
 男はにこやかに笑ってそう告げた。
「あなたこそ、よく真貴支配人をご存知なんですね」
「ビジネスに情報は必須ですよ」
 茶目っ気を見せ、隙のない答えが返ってくる。
 よくわからない男だ。
 昂月は席を立った。
「あたしはこれで」
「また、夜にお付き合い願えませんか? 昨日の場所で」
 昂月が振り返ると、涼しげな顔をした男が笑んで返事を待っていた。
 一見、温和そうな顔の裏側にふてぶてしい色合いが見えるものの、その強引さが少し心地よい気もする。
「気が向いたら」

 結局は行かなかった。
 一瞬、()ぎった逃げ口上(こうじょう)
 高弥でなければならない理由なんてない。
 そう思った瞬間、追いかけられたうえ、袋小路にはまったように途方にくれた。
 心の時間は止まっているのに、昂月を取り巻く時間は否応もなくさきに進めと催促する。これ以上延ばしても同じことを繰り返すだけだ。ずっと迷宮からは抜けだせない。ともすれば、だれかをも巻き添えにして閉じ込めてしまう。
 ここに祐真を閉じ込めてしまったように。
 愛しているから――――忘れないで――。
 祐真の遺言。最後となった言葉。
 間違いなく、あたしに向けられた言葉なのに、あたしはそんな大切な言葉さえも捨てて、触れようとしなかった。
 祐真がどうするつもりだったのか。昂月にどうしてほしかったのか。
 その答えはもう知ってる。祐真兄が逝ったあの日に答えはもらった。
 それがどんなに苦痛であっても、祐真の生の(あかし)を無意味なものにしてはいけない。
 祐真を必要とした人はたくさんいる。
 それを奪ったあたしが忘れてはいけない。

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