ONLY ONE〜できること〜 #18
第3章 エデンの果実 2.ディレンマ-Dilemma- act1
「ただいま」
昂月はだれもいない家の中に向かって声をかけると、当然返事を待たずに二階へと上がり、テキストが入ったバッグを机に置いた。
大学には行ったものの、結局は講義を受けないまま、教授にレポートを提出しただけで帰ってきた。
変わらない風景のなかにいることで安心していたのに、いまは逆にそれが苦痛になっている。
全部を壊してしまいたい気持ちが募っていく。
昂月はタンスと机を探り、当面、必要なものを取りだしてバッグに手っ取り早く詰めた。
準備ができると一つため息を吐いて、意を決したように隣の部屋に向かった。
祐真がこの家を出ていってからも、だれもいない祐真の部屋を幾度も訪ねた。それは昂月にとって習慣となっていたので、仕方ないことだった。
かつて、昂月は学校から帰るや否や、祐真の部屋のドアを開けてそこに入り浸った。昂月の、ただいま、よりさきに祐真が、おかえり、と歓迎してくれる。
いつも足の踏み場がないほど楽譜やノートが散らばっていた部屋は、祐真がいなくなってから整然として、それを見るたびに、祐真がいないことを思い知らされた。
祐真の死後、昂月が祐真の部屋に入ることはなくなった。
祐真の裏切りを拒みたがる弱さと、自分がやったことに向き合うことができなかった。併せて、祐真の部屋のドアはいつも昂月に向かって、入ってほしくない、と責めているような気がしていた。
そのドアを開け、部屋に入ると、夏が残る暑さのなかでもひんやりとした感触がある。
美佳が週に一度、慈しむように丁寧に掃除をする部屋はやはり整然としていた。
拒絶が感じ取れなかったかわりに、この部屋は祐真の気配を無くしつつある。
けれどそれでは悲しすぎる。祐真の存在を無にするようで。
ここにあった時間はたしかに幸せだった。いまとなっては一瞬のように儚い。
昂月が中学に上がった冬、祐真はデビューを控えてそれに伴う準備やレコーディングに日々追われ、家を空けていることが多くなっていった。
祐真がだんだん昂月から遠ざかっていく。
それはデビューしてからも変わることはなく、デビューの一年後には事務所のマネージャー、石井の進言で、祐真はこの家から独立を考えた。
引き止めたのは昂月だ。
『勝手に出てっちゃえ!』
そう叫んだ昂月の涙が、その瞬間に、従兄妹という関係を変えた。
『……石井さんは……あたしを嫌いなんだよ。祐真兄に……わがまま云って……自由にしないから……』
十五才だった昂月は自分で云って、その言葉の意味をよくわかっていなかった。
あたしは、まったく子供だった。
祐真が考えていたこと。想っていたこと。
いまならわかる気がする。どうして出ていくつもりだったのか。
想いが深ければ深いほど、その果てに苦しみがあることを祐真はきっと知っていた。想いが通じ合うほどに、互いが互いに深く影響を与えて縛ってしまうことも。
そのままに流されてしまっていたなら、いまの現実は変わっていたかもしれない。
けれど、これが現実。
その時の選択が正しかったのか、間違いだったのか、それはわからない。いや、だれに云わせてもそれは間違いだったのだろう。
『ずっとここにいる』
以来、祐真は約束となってしまったその言葉をずっと守ってくれた。ただ、最期までは叶わなかったのだけれど。
皮肉にも、家族として住み慣れたこの場所が昂月にとって“家”であった日々は、あまりにも哀しくて、あまりにも重篤な時間となった。
午後になってからボストンバッグを一つ持って、昂月は英国ホテルに入った。
祐真のもう一つの住処となったのがこのホテルの一室で、三年前から祐真の、一年前からは昂月の貸し切りとなっている。
支配人の真貴がはじめて祐真をホテル内で見かけたとき、息子ではないか、と自分の目を疑ったと云う。親しくなったきっかけは、真貴が事故死した息子に似た祐真に声をかけたことだった。
昂月は祐真とともにこの一室に通いつめた。そうするうちに、この部屋を貸し切りたいという祐真の申し出を、真貴は快く承諾してくれた。
仲がよすぎる従兄妹同士を見て真貴はどう思っていたのか、何を口出すでもなく二人をずっと見守っていた。それはいまも変わらない。
祐真が逝って数日後、真貴と連絡を取ったときはここに入る覚悟もなく、昂月は借り続けることを依頼した。
『待っていますよ』
再び“息子”を亡くした真貴は悲しみを宿した声で昂月にそう云った。
冷蔵庫から缶コーヒーを取りだして、昂月は応接用のソファに腰掛けた。クラシックな調度品で揃えられた部屋は昂月を落ち着かせる。
ほっと昂月は息を吐いた。
祐真も待っている。昂月が自由にしてくれることを待ち望んでいる。
祐真の答えをここに閉じ込めて、昂月は目を瞑って現実を拒んだ。
でも、もう逃げ場所はなくなった。だから、すべて片づける。
今更……何もかも手遅れになってしまったけど……。ここに遺された祐真兄の想いを全部、祐真兄に返して、あたしもまた、もう現実に目を背けることもなく、ここから出ていく。そうしないと、祐真兄が大切にした友達まであたしは苦しめたままにしてしまうから。
「お食事をお持ちいたしました」
六時を過ぎた頃、ノックの音に引き続いてドアの向こうで給仕が云った。
注文した覚えはなかったが、しかけていた課題の本とノートを閉じてドアを開けると、
「真貴の依頼でお届けしております」
と深々としたお辞儀とともに告げられた。
お礼の電話を入れると、
「ダイエットの必要性は感じませんでしたので、思いきり用意させていただきました」
と真貴は楽しそうに応じた。真貴の心からの歓迎がそこに見える。
真貴がおすすめと称したコース料理はその品数が度を越えていた。ケーキに及んでは小振りではなく普通サイズのものが三種類もある。チョコレートムースとチェリータルトとレアチーズ。デザートのトレイにメモが挟まれていて、開いてみると『お夜食に』と書かかれている。
真貴に気遣い無用と伝えなければ、ここにいる限りこういうことが続きそうな気がする。
一時間くらいかかってゆっくりと食事を進めたが、どんなに頑張っても半分くらい残ってしまった。
これから自分がどれだけ心配をかけるのか、というよりは傷つけてしまうのか、それを考えたらこの贅沢な食事は気が咎める。
ポットのコーヒーをカップに注ぎ、それを持って昂月は窓辺に近寄った。
暗がりでは着飾って見える外の景色も、部屋の明かりによって色褪せてしまっている。
室内に視線を戻し、テーブルの上に置いた携帯に目をやった。
「電話しなくちゃ」
ため息を吐きながら昂月はつぶやいた。
携帯の電源を入れ、自宅を画面に呼びだしてボタンを押した。一回目の呼びだし音も全部が鳴り終わらないうちに、電話は素早く取られる。
『昂月?』
こちらが名乗るまえに気が急いたような母、美佳の声がした。
「うん。今日は慧のところに泊まるから帰らないよ」
『……その慧ちゃんから電話があったの。携帯が通じないって』
子供じみた嘘はすぐにばれる。
メールは入れていたものの、昨日、喧嘩したせいで慧は心配したに違いない。だれとも話したくなかったために携帯の電源を切っていたことが仇になった。
「ごめん。とにかく今日は帰らないよ」
『どこにいるの?!』
「云えない」
『帰っていらっしゃい』
美佳は冷静に命令した。
「いろいろ整理したいことがあって……」
『家でできることじゃないの?』
「家でできることなら家にいるよ」
『どこなの?』
「二、三日のうちにはちゃんと帰るから、じゃね」
『昂月、だめよ……』
美佳の呼び止める声を無視した。
電話を切るとまもなく、メールの着信音が鳴った。慧からのメールが二通。携帯の電源が切れていることに対する苛立ちのメールと、その一時間後に心配するメール。
そして、高弥から『電話して』と一言メールが一つ続いた。
要点しか伝えないという、あまりにも高弥らしいメールに思わず昂月はふっと笑う。
慧にはとりあえずメールを返した。いま話したら、きっとまた喧嘩になってしまう。まだ慧と闘う気力がない。
そして再び、別の番号を呼びだし、ダイヤルのボタンを押す。
『昂月、何やってんだ?』
美佳と同様に電話はすぐに取られ、いきなり静かな声で高弥が訊ねた。
「高弥……ごめん……えっと……」
まだ何も応えることができず、昂月はうまく切りだせない。
『おれは昂月の力になれるって……そう云ったよな?』
「…………」
『昂月』
「うん……高弥に云われていろいろ考えてる。でもそうするには……あたしは独りにならないと……」
『どうしてだ?』
「……祐真兄とふたりになりたい」
鋭く息を呑む音が聞こえる。
昂月と祐真にあった想いを知っているならば、そして高弥の中に昂月への想いが在るなら、それは高弥にとって残酷な言葉であるはず。
この一年足らずのなかで、仮にも祐真のかわりとして絆を培ってきたのだから、それでなくてもきつい言葉だった。
『どうしてそうやって、おまえと祐真は独りになりたがる?』
「たぶん……自分からも逃げてるから」
祐真は答えを探そうとした。
あたしを残して。
祐真は独りにならなければならなかった。自分と対峙するために。
あたしも、また。
『いま、どこにいる?』
「もうちょっと待って。あたしから連絡入れるから」
『携帯の電源を切るだろ? そっちの電話番号だけでも――』
クスッ。
高弥は駆け引きをはじめた。
「電話番号を教えたら、ここの住所がわかっちゃうよ」
『昂月、お母さんからも慧ちゃんからも電話があった。心配かけるつもりか?』
高弥の気遣いは、昂月の笑みを消去した。
「じゃあ、あたしのことは? 高弥はあたしのことを最後までそんなふうに考えてはくれなかった。逃げるなって云ったよね。でも、最初に逃げたのは高弥のほうだよ」
『そうじゃない』
「あたしは最初から高弥には要らない。妹は抱けないよね?」
『そんな意味で拒んだんじゃない! 逃げたんじゃないんだ。おれは昂月に…………』
焦ったうえに言葉に詰まった高弥の声は、昂月を少し冷静にさせる。
「あたしを動かしたのは高弥だよ。後悔しない覚悟をしてたよね? ごめん、またかける。高弥のお父さんがちゃんとあたしの居場所を知ってるから安心して」
『昂月――』
電話を切る寸前に高弥が名を呼ぶ声がもれ、昂月の耳に届いた。
二重の意味で口にした“妹”という立場。高弥は額面どおりにしか受け取っていない。それなのに。
そうじゃない。
だったらなぜ?
酷いことをしていると思う。どんなことが高弥の本心であれ、高弥はこの一年を惜しみなく昂月のために費やしてくれた。
それどころか、高弥の中に昂月に向けた想いがあることも知ってる。
たぶん。
その瞳はいつもあたしに語りかけてくる。
気づいて。
「くそっ」
携帯をソファに投げ置くと、高弥は声に出して自分を罵った。
昂月に過去の精算を課したのは自分であり、追い詰めているのも自分だ。
祐真、なぜ昂月を置き去りにした? なぜ昂月はこんなにも頑なになる? おれでは不足か?
我慢できなくなった。昂月が意思を示したときから。
守れないとわかっていながら口にした約束。
そのままに祐真の領域を侵そうとする自分を抑えきれない。
そうしてしまってから、昂月がふと現在を現実として直視したとき、彼女は自分を許せるのか――。
そう考えた。
最初にした約束は、想いを素直に伝える機会をふたりから奪ったのかもしれない。
窓際に立って、昂月は闇となった空を見上げた。
星たちが弱々しくながらも、必死で輝こうとしている。都会の空は天からいちばん遠いところのような気がする。
祐真は昂月に光を求めた。
祐真にとって、この都会の空に薄ら輝く月くらいの力にはなれたのだろうか。
ほかの力を借りて――祐真の力を借りてはじめて輝ける月が、昂月にはせいぜいだった。ましてや、太陽になんて生まれ変わってもなれるわけがないのに。だれかの光になんてなれない。
『祐真のかわりになってやる』
傷つくことを恐れて、昂月は自分を守るためにその申し出を受け入れた。
祐真兄でなければならない理由なんてない。
そう証明したかった。
そして証明された。
昂月もまた、祐真を裏切った。
幼い頃から身につけた処世術は、受け入れたくないことを無視すること、そして自分の醜い心をだれにも悟られないように明るく振る舞うことだった。
その子供っぽい所業は所詮、だれをもごまかせるほど巧みじゃない。
何年もかかって築きあげてきた心の仮面は呆気なく崩壊してしまった。
土台のない仮面はもうどこにもない。