ONLY ONE〜できること〜 #17

第3章 エデンの果実  1.Plastic Smile-作り笑い- act3


 次の日、ミザロヂーに着いたのは三時半頃だった。入り口のドアには『七時まで貸切』の札が掛けられている。ドアを開くと、チリンチリンという呼び鈴の音とともに談笑する声が届いた。
 見渡すと、FATEのほかに事務所所属のタレントやスタッフも十数名ほど参加している。
 入り口を入って左側の奥に据えられたカウンターにいる高弥の背を探し当てた。その隣には唯子がいて、二人は親密そうに語り合っている。もしくはそう見えた。
 それは祐真と唯子の二人の姿に重なった。
 実際にこの空間では見たことなどないのに、昂月の中にその二人の姿が存在している。
 祐真はこういう場に連れて来たがらなかった。
 それは事実。
 それでも昂月が行くと云い張ったら連れて行ったかもしれない。
 けれど、昂月が申し出ることはなかった。
 こういう二人の姿を見たくなかったから。
 ここは逃げ場所がない。
 唯子が祐真に連れられて家に来たときは隠れる場所があった。仮面を被って、つらくなったら逃げだせばいい。
 今更になって気づいた自分の中の真実は途方もなく(みにく)いものだった。
 祐真にそうせざるを得なくさせたのは昂月なのに。

「昂月、行こう」
 昂月の視線の先を追った慧は一瞬だけ顔をしかめると、入り口で立ち止まったままの昂月の背中を後ろから押して促した。
「昂月、慧、こっち来いよ!」
 逸早(いちはや)く気づいて手招きしたのはカウンターの手前のテーブルにいる航だった。いつも入り込みやすいように迎えてくれる航の気遣いは、二人をほっとさせる。こういう異質の世界では昂月と慧にとって頼りになる存在だった。
 気づいた高弥が振り向いて席を立ち、近寄ってくる。
 そのとき、高弥に対する戸惑いが昂月の中に生まれた。思わず引き返したくなる。もしかしたら昨日、すでにそういう気持ちがあったかもしれない。
 誘われたのがふたりきりの空間であったなら、昂月はなんらかの理由を探しだしておそらくは断っている。現に、用事もないのに高弥の迎えを断り、さらに慧を同伴させた。
 その戸惑いは高弥にも存在するのか、ぎこちなさがふたりの間に感じ取れた。
「昂月、迷子にはならなかったらしいな。慧ちゃん、久しぶり」
 口を開いた高弥は至って変わりなく、昂月をからかう。
「それってひどくない?」
 昂月も(なら)って、変わりなく応じた。
 高弥が気づいていないはずはない。
「昂月、あんたは自分の方向音痴ちゃんと認めなさい」
 慧はプッと笑って、高弥を援護した。
「あたしは広い建物の中が苦手なだけだよ」
「はいはい。高弥さん、しばらく休みってことはイギリスでの仕事がうまくいったんですね」
「ああ、いい曲が録れた。完成したら慧ちゃんにもプレゼントするよ。昂月を()てくれたお礼」
「あー、お惚気(のろけ)はけっこうです。ちゃんと昂月は返しますよ」
 まるで自分がいないかのような会話に昂月は堪りかねて抗議する。
「これ以上お子さま扱いすると帰るからね!」
「今日は久しぶりに聖央が来てる。まさか、帰らないだろ?」
「えっ、聖央さんが帰ってきてるの?!」
 慧がふざけてくれたことと高弥が告げたびっくりニュースは、昂月の緊張を解いた。

「昂月、慧、こっち!」
 タイミングよく、入り口からは死角になったいちばん奥のテーブルから亜夜が声をかけた。万里もいる。そして、弥永聖央も。
 昂月たちはほかのテーブルにつく人たちと挨拶を交わしながら奥へ進んだ。
「聖央さん、帰国したの?! 亜夜は一緒に帰ってきてるなんて一言も教えてくれなかった!」
 慧は亜夜と聖央をかわるがわる見て、責めるように云った。
 FATEの急な出発には合流せず、亜夜は五日遅れで一人で帰国していたはずだった。
「サプライズ!」
 亜夜はペロリと舌を出して、おもしろがるように昂月たちの反応を窺っている。
「あたしと健朗くんを除いて、今日までだれも知らなかったの。ビッグプレゼントでしょ!」
「亜夜、おれを物扱いにすんな。まったく二人してガキだよな」
 聖央は呆れたように亜夜と健朗を見ている。
「僕は亜夜ちゃんの頼みとあって断れなかっただけですよ。それに、日本でふたりきりで過ごせる時間を、と思って気を利かせた結果です。帰国って知ったとたんに呼びだしの嵐でしょうからね」
「知ってたら、間違いなくおれも連絡取ってるよ」
 高弥がニヤリとそう云って、健朗の意見に賛同した。
 聖央はため息を吐く。
「そのとおりかもな……感謝してるよ。おかげでゆっくりできた」
 認めた聖央を見て、隣に座った亜夜はうれしそうに笑う。
「健朗くん、ありがと」
「どういたしまして」
「よく考えてみれば、聖央くんが亜夜に一人旅させるわけないしね」
 万里がつぶやくと、笑みに沸いた。
「離れがたいっていうのもあったんでしょうし」
「うるせぇ」
 健朗のからかいを聖央は一喝(いっかつ)したが、本音がどこにあるかはその場の全員が先刻承知で、また笑いが広がる。
 FATEの仲間はどうしてこんなに幸せに見えるんだろう。
 昂月はいつもそう思う。
 亜夜も万里もそのハンデをものともせずに強く頑張ってる。
 彼女たちにはちゃんと必要とされている居場所があるから?
「あー、ここでもお惚気かぁー」
 独り身の慧は真面目にそう(なげ)いている。
「今日はあたしも一人よ!」
 万里は慧を見て吹きだしつつ、そう云った。
「万里、そういえば和也さんは?」
「仕事が外せなくて。ぎりぎりまにあうと思うけど。このことは和也も知らないからきっとビックリが見られるよ」
 慧と昂月が加わったことでテーブルごとだった会話が一つになり、一頻(ひとしき)り聖央のイギリス生活が話題を占めた。
 やがて、また個々に散っていく。

 昂月はカウンターに行って、マスターにピンク・レディーを頼んだ。すると、マスターは窺うように昂月の背後を見る。
「マスター、グレープジュースに替えて」
 すかさず、あとを来た高弥は昂月の注文を却下した。
「まだ子供扱いする気?」
「二十才まえ」
「あと二カ月!」
「FATEが未成年に飲酒強要」
 高弥が新聞の見出しを仮想して云うと、さすがに昂月は強行突破できない。
「赤ワイン風グレープジュースをどうぞ」
 マスターが笑みを浮かべつつ、小粋(こいき)に格好良く昂月の前にワイングラスを置く。
 昂月は諦めてワイングラスに口をつけた。果汁百パーセントのグレープジュースはたしかにワインの風味を醸しだしている。
 昂月は顔をしかめた。
「急ぐなよ」
「二十才も二十才まえも大して変わらないと思うけど」
「お酒の話じゃない」
 高弥はいつもより少し怖い顔をしてそう云うと、昂月の隣のスツールに座った。
「じゃあ、なんの話?」
「おれが云ったことだ。急がなくていい」
「どっち? 急がなくていいって、それが十年かかったらどうするの?」
 突っかかるような云い方に、高弥は眉根を寄せて昂月を見つめる。
 自分の云っていることが屁理屈(へりくつ)だとわかっていても、云わずにはいられなかった。もう中途半端な状態で放りだされるのはたくさんだ。
「それでもかまわない」
「偽善はいらない」
 高弥の言葉に被せるように云うと、これまでになく高弥の眼差しが厳しくなった。
「信じてほしい。おれは昂月にちゃんと生きてほしいだけだ」
 瞳に宿る苛立ちとは裏腹に、静かな口調だった。
 信じたい……。
 けれど、いずれは自由になりたい――。
 そう願う。
 あたし自身でさえも自分が重たい。
「ごめん……お酒を飲めないから拗ねてるだけ」
 昂月は目を逸らしてつぶやいた。

「どうしたの?」
 いつのまにか近くに来た唯子が二人をかわるがわる見て、心配そうに問いかけた。
 薄手の黒いニットに淡い色のコスモス柄スカート姿の唯子は、長いストレートの髪を後ろでまとめているだけなのに、女性として寸分の隙もない。
「あたしが高弥にわがままを云ったの」
「昂月ちゃんが? めずらしいわね」
「そうかな。あたしは本当はすごくわがままなのかも」
「昂月……」
「ごめん。高弥、久しぶりに唯子さんと二人で話したい。向こう行ってて」
 昂月は再びすまなさそうに謝って、何か云いたそうな高弥をテーブル席に向かわせた。
「唯子さん、座って」
 さっきまで高弥が座っていた椅子を指した。
「ほんとにどうしたの?」
 唯子が心配そうに訊ねた。
 スツールに座って足もとの一段上がったところにやっと爪先が届くくらいの昂月に比べ、背が高い唯子は余裕で足を置いた。
「唯子さんは知らないですよね。あたしが本当はすごくわがままだってこと。祐真兄をすごく困らせた。いまは高弥も……」
「昂月ちゃん、まだ祐真のことを引きずってるのね」
「……唯子さんは?」
「私は……そうね、私も引きずってるかもしれない」
 唯子はその心情を読み取れない微笑みを浮かべて、さらりと云った。

 高弥は聖央たちがいるテーブルへ戻った。
 座るなり隣の健朗がビールを手渡そうとしたが、ウーロン茶でいい、と断った。
「なんだ、飲まないのか?」
「飲みっ放しはやらない主義。またしばらくしたら飲みはじめる」
「そういや、飲み潰れたとこ、見たことねぇし……おまえ、崩れないよな」
 向かいに座った聖央が云うと、高弥は肩をすくめて笑った。
「慧ちゃん」
 奥で亜夜と万里と話している慧に声をかけた。
「あの件……良哉に云ってくれて助かった」
 高弥が礼を云うと、慧は曖昧に首をかしげる。
「ううん……昂月がなんだか……」
 そのさきは云いよどんだ。
「ねぇ、高弥さん」
 聞いていた亜夜が慧をフォローするように口を挟んだ。それまでと打って変わって難しい顔をしている。
「昂月のこと、よく見ててあげて」
「亜夜、何?」
「昂月、イギリスに行くまえに会ったときと雰囲気が違ってる……似てるの」
 慧が訊ねると、亜夜は昂月に目を向けながらそう云った。
「似てるって?」
「一年前、連絡が取れなくなるまえの祐真さんに。あたしはまったくといっていいほど事情は知らないけど、なんていうか薄氷の上を歩いている感じ。怖々(こわごわ)、歩いてるんじゃなくて、裂けるなら裂けてもいいっていう歩き方」
 ソーシャルワーカーを目指している亜夜はその熱心さゆえか、特に人を()ることに()けている。
 高弥は眉宇をひそめ、唯子と話している昂月に目をやった。
「亜夜、高弥はそれくらいわかってるさ。だろ?」
 聖央がその場の張り詰めたような空気を和らげるように云った。
「わかってるつもりだ。けど、人から云ってもらうと『つもり』でしかないってことに気づかされる」
 高弥は視線を亜夜に戻してフッと笑った。
「亜夜ちゃん、サンクス」
「高弥さんて変わったよねぇ。まえはすっごくおっかなかったのに」
 万里がクスクスと笑ってそう云った。
「なんだ、それ」
 高弥がわざと機嫌悪そうに云い、だれもが笑うなか、慧はじっと考え込むように昂月を見守った。

 ミザロヂーを貸し切ると、いつも直々(じきじき)にカウンターに立つマスターが、昂月の隣に座った唯子に白ワインを差しだす。
 ありがとう、と云いながら受けとると、唯子は優雅にグラスを口もとへと持っていく。唯子の仕草にはいつも余裕がある。
「あたしは唯子さんに祐真兄を渡したくなかった。ずっと祐真兄を引き止めてた。ずっと謝らなくちゃって思ってたのに……覚悟ができなくて……」
「覚悟?」
「独りでいる覚悟……」
 だれもいなくなる覚悟。それを先延ばしにして高弥を当てにした。
 独りになる覚悟ができずに逃げて、逃げて、逃げ続けている。祐真がいなくなってからも、その意思を認めたくなくて逃げ続けた。
 あの日、すでに示された祐真の答えを尊重することなく。
「あたしは祐真兄が死んでしまうまえに……ううん、もっとまえに自由にしてあげなくちゃいけなかった。唯子さんから祐真兄を取りあげちゃいけなかった。それをどうやって償ったらいいかわからなくて……唯子さんに謝れなかった」
 あの部屋へ行って、祐真と対面することもできなかった。
「そうね……だったら、償いとして……高弥を私にくれる?」
「…高弥……?」
 唯子の口から出た言葉はあまりにも突飛で、けれどそれにも拘らず昂月は冷静に受け止めた。
 どこかでわかっていたのかもしれない。
「そう」
 唯子も衝撃的な発言とは思えないほど、和やかに答えた。
「高弥は……あたしのじゃないから……あたしは引き止める権利なんて持ってない」
「冗談よ」
 唯子はつと耳もとのルビーのピアスに手をやって、ふっと可笑しそうに笑った。その瞳は少しも笑っていない。
「ねぇ、そうやって私に謝って……それって昂月ちゃん自身がラクになりたいからよね? 良い子になってラクになれた?」
 そうかもしれない。唯子に謝罪して少しくらいらくになりたかったのかもしれない。
 あたしはまだ逃げようとしている。
「ごめんなさい。唯子さんの云うとおり――」
「謝らないでよ。謝ってもらっても時間は戻らない。祐真の時間もね」
 唯子の厳しい言葉は昂月を傷つける。けれど反論できる立場にはなかった。
「私はいつも……どんなに頑張っても、いちばんになれなくて……いつも昂月ちゃんに勝てない。昂月ちゃん、私もね、昂月ちゃんが慕ってくれるほどいい女じゃないのよ。私のことは気にすることないわ」
 そう云って唯子はテーブルに戻っていった。

 唯子が昂月の隣を離れると、様子を窺っていた慧は席を立って昂月のところへ向かった。
「大丈夫?」
「何?」
 どこに持って行きようもないつらさを隠して、昂月は軽く慧に応じた。
「唯子さんのこと。あたし……いままで云わなかったけど、あの女性(ひと)のこと、あまり好きじゃないのよ」
「美人で頭もいいし、ライバル視してるの?」
 昂月がからかうと、慧は抗議するようにドンと勢いよく椅子に腰を下ろす。
「高弥さんが心配してるよ」
「うん」
「……昂月はあたしにずっと隠し事してる。あたしでは力になれない? あたしは親友じゃないの?」
 慧の声には傷ついた気持ちが感じ取れた。
「親友とか、そういうのは関係ないよ。だれにだって秘密にしたいことあるでしょう? すべてを知ってるから親友ってわけじゃない」
「そういうんじゃないよ。そのくらいわかってる。あたしが云いたいのは、昂月、あんたは相談できることも……あたしに相談しなくちゃいけないことも隠してるってこと」
「待って。あたしにはそんな秘密なんてないよ」
「あんたはあたしを信用してない!」
 慧はいつまでも核心をはぐらかし、逃れ続けようとする昂月に(ごう)を煮やして席を立った。
 昂月は目を伏せる。
 慧、ごめん。あたしは……慧まで失いたくない。
 口にしたグレープジュースの味もよくわからなくなった。

 立ち直る暇も与えないほど早く、今度は予想どおりに高弥が戻ってきた。
 高弥に会話の主導権を取られるまえに昂月は口を開く。
「木村さん……来てないのね?」
「……ああ、あとで来るかもしれない……なんで?」
「……いつもFATEの監視役みたいにしているから。マネージャーだから当然なんだろうけど」
 昂月は口もとに笑みを浮かべてそう云った。
「事務所のことは気にするなって云っただろ」
「気にしてないよ」
 あっさりとそう云った昂月の、少しうつむいた横顔を探るように高弥は見つめる。
 昂月は高弥がそうしていることに気づいたが、顔を上げなかった。高弥自身の答えがあるいま、もう事務所がどうであろうとどうでもいい。
「良くんは?」
「明日から二学期はじまるし、準備に忙しいらしい。用があったのか?」
「……ううん、何もない」
「昂月――」
「ねぇ、もう帰っていいかな。明日は講義あるし。レポート提出があるの。最終チェックしないと。普通、いまの時期はまだ休みなのに熱心な先生がいて、いい迷惑!」
 高弥をさえぎると、昂月は立ちあがりながら努めて明るく云った。
「……送っていくよ」
「ううん。慧と帰るから大丈夫。迷子になんてならないよ」
 昂月は穏やかに笑った。

 渡英まえの逸れた感覚はいま、高弥の中に感触としてある。
 いつも穏やかに見えて感情を出さない(もろ)さと入れ替わって、目の前の昂月には、無謀な攻撃を仕掛けかねない孤高の(はかな)さが見え隠れしはじめた。
 そう仕向けたのはおれにほかならない。
 その攻撃がいつであろうと、それが乗り越える過程であるなら、どこまでも付き合ってやる。

「明日、埋め合わせは?」
 そう問うと、昂月は顔を上げた。
「行けないときは連絡するよ?」
 昂月は平然として見える。
 昨日のことがあっても、それを高弥が素直に受け取ると昂月は本気で思っているのか。
 何れにしろ、この一年、ただ祐真のかわりをしたわけではない。乗り越えるべきことは高弥にもある。越えられないはずがない。
 そう信じた。それともそう信じたかったのか。
「じゃあね」
「気をつけて帰れよ」
「その口癖、“森の熊さん”のせいだったんだね」
「煩い」
 昂月は普段のままに笑った。

 奥のテーブルに目をやって昂月は慧を呼んだ。怒っているにも拘らず、慧は無言で昂月に添った。
 慧はこういう子だ。
 怒っても邪険にはしない。無視はしない。はっきり主張を持っていて、意見も遠慮なく云うけれど、人の意見を否定することはしない。
 あたしは人を当てにして、甘えて、自分の意見を云えない。否定されるのが怖いから。その行く末に独りであることを認めたくないから。
 たまにだったが、家に来るたびに昂月に優しく接してくれた唯子は、外見も人間性を見ても完璧であった。それはいまも変わらない。女性として(あこが)れた。
 けれど祐真を取られたくはなかった。どうやっても、ふたりの未来はゼロだったのに。
 歪んだ心を悟られたくなくて、昂月はだれのまえでも良い子を演じた。
 あたしには何もない。
 誇れるものがただの一つもない。そして、結局何も残るものはない。
 もう疲れた。
 醜い心にも、良い子を演じることも。

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