ONLY ONE〜できること〜 #16

第3章 エデンの果実  1.Plastic Smile-作り笑い- act2


 昂月は伊東弁護士事務所を訪ねた。
 都心のビルの二階にワンフロアを貸し切った事務所に入ると、カウンター越しに女性が出迎える。
 (あらかじ)め電話を入れていた昂月が名乗ると、
「どうぞ、こちらへ」
と、整然と机が並んだ横を通って奥の部屋に案内された。
 土曜日にも拘らず仕事熱心な人が数人、昂月には見向きもせず忙しそうに書類を(めく)っている。
 個室と思われるドアがいくつかあって、そのいちばん南側の部屋に通された。

「やあ、久しぶりだね。座って」
 昂月は、柔和な顔で席を立って近づいてきた伊東の歓迎を受けた。
「ご無沙汰してます。今日は突然にすみません」
「いや、気にすることはないよ」
 二人は応接セットのソファに向かい合わせに腰を下ろした。
「土曜日なのに仕事なんですね」
「ワーカホリックとも云われるがね」
 伊東は高弥と同じ仕草で肩をすくめた。
「おじさまに報告しなくちゃと思って……」
「高弥のことで?」
 昂月は首を横に振った。
「高弥は優しいです。おじさまに似て。今日は祐真兄のこと……あの部屋は解約するつもりです」
「それで……いいんだね?」
「はい。ただ、もう少しだけ時間をください。その間……あたし、あの部屋に消えたりすることがあるので……解決できるまでまだ云わないでいてもらえませんか?」
「これでも弁護士だよ。守秘義務は基本だ」
 伊東は心配そうに昂月を見る。
「すみません。きっと、おじさまに迷惑かけます」
 昂月は曖昧に笑った。
「高弥が動いたんだね?」
「高弥はたぶん、あたしのこと考えて……」
 昂月が言葉に詰まると、伊東は顔をしかめた。
「息子のことを信じてやってほしい。母親を早くに亡くして、私もかまってやる時間を取ってこなかった。このとおり、仕事を外せなかったんでね。いまになってみると、高弥が何か話しかけてきてもちゃんと答えていなかったような気がする。そのせいか、高弥は不器用な人間になってしまった」
「でも、高弥はおじさまを尊敬してるんですよ。祐真兄が高弥の話をしてくれたとき、そう云ってました。でなくちゃ、高弥が法学部で学ぶはずがないって。職業柄、仕事熱心であることって素敵だと思います」
 伊東はうれしそうに笑った。高弥と同じ笑みがそこにある。
「君と付き合うようになって息子はずいぶんと変わったよ。相変わらず頼ってくることはないが、電話をかけると話してくれるようになった。まえは単語二つ並べばいいほうだったんだよ。いまは会話になってる」
 伊東の告白は昂月を笑わせた。
「しばらくは心配かけますけど……高弥に応えられるように祐真兄のこと、自分でちゃんと解決します」
 高弥との暗黙の約束を知らない伊東の頼みに、昂月はきっと応えられない。
 何も見えない。祐真の心も、高弥の心も。
「おじさま、もう一つ、お願いがあります」


 その名のとおり、英国の宮殿をモチーフにした英国ホテルのエントランスまで行くと、ドアの両脇に控えたホテルマンが(かしこ)まって頭を下げる。
 昂月は小さくうなずいて自動ドアを通り抜けた。
「神瀬と云いますが、支配人の真貴さんをお願いできますか」
「はい、真貴……ですね。少々お待ちくださいませ」
 フロントで丁寧に受け答えをする女性は、訓練を受けていても少し戸惑った様子を見せる。支配人を指名するには昂月はたしかに不釣り合いかもしれなかった。今日はフロントに知っている顔が見当たらない。
 待っている間にフロントの左側に大きくスペースを取ったロビーを見渡した。
 行き交う人が絶えず、ビジネスマンや有閑マダムのように優雅な女性たちが、カフェでコーヒータイムを取っている。
 一年ぶりにこの雰囲気に接した。
 懐かしくもあったが、何よりもここは悲しい場所となってしまった。
「恐れ入ります、神瀬さま。ただいま真貴は外出しておりまして――」
「昂月お嬢さま……?」
 受付の女性が云い終わらないうちに、聞き覚えのある男性の声が割り込んだ。後ろを振り向くと、黒っぽいスーツを着込んだホテルマネージャーの大井が立っていた。
「大井さん!」
「やはりお嬢さまでしたね。ご無沙汰しております。案じておりましたがお元気そうで……何よりです」
 大井は少し言葉を詰まらせた。
 クスッと昂月は笑った。
 責任ある立場になるとこうなるのか、三十半ばにしては相変わらず、大井は年寄りじみた云い方をする。
「元気です。覚えていてくださいました?」
「もちろんです。真貴も喜ぶでしょう」
 真貴が外出していると聞いた旨を話すと、大井はフロントとやりとりをしてすぐに昂月に向き直った。
「一時間もすれば戻ってきますよ。待っている間に、私と一緒にお茶でもいかがですか」
「お仕事中じゃないんですか?」
「たったいまから休憩に入りました」
 大井はすましてそう云うとわざと営業スマイルを昂月に向けた。
「じゃあ、喜んで」
 昂月は笑いつつ、遠慮なく大井の申し出を受けた。大井の云い方には押しつけがましいところが少しもなく、それは居心地のよさを約束していた。
 コーヒーを飲みながら互いの近況を報告し合った。
 フロントはこの春に大幅な人事異動があったことを知らされた。そういうなかで見知った人はたまたま今日が休みらしい。
 大井が提供してくれたコーヒータイムは思いがけず楽しい時間で、この空間に足を踏み入れることをためらっていた昂月は少し肩の力が抜けた。
 そして一時間も経たないうちに真貴が外出先から戻った。大井の場合と同じく温かい微笑みが見えた。
「お元気でしたか」
 いろんな意味が込められた言葉だった。
「はい。迷惑かけたのに、心配までかけてしまいました」
「とんでもありません。こちらの勝手ですからね」
「真貴さん、ずっとわがままをきいていただいてありがとうございました。わがままついでに、もう少しだけあの部屋を使わせてもらいたいんです」
「どうか、お気になさらないでください。そのぶん、戴くものは戴いておりますから」
 真貴は真面目くさった顔でちゃめっけを見せると、昂月の顔には自然と笑みが宿る。
「はい。今日からしばらく出入りします。もしかしたら長くかかるかもしれません」
「ご存分に」
「独りで考えたくて。祐真兄のことを自由にしてあげたくて……すべて整理したいと思うんです。伊東のおじさまも了解済みです」
 昂月がここにいる意味をすっかり承知のように真貴はうなずいた。
 真貴が直接、借りっ放しにしていたスイートルームまで案内した。
 不意に昂月は思いだし笑いをすると、真貴が困惑した顔を彼女に向ける。
「ごめんなさい。フロントの方たちがあたしのこと、いったい何者だろうって思ってたのがわかるから可笑しくて……大井さんも『お嬢さま』なんて云ってるし、良いところのご令嬢って勘違いされたんじゃないかと思って」
「ああ、フロントには通達しておきますよ。それに、昂月お嬢さまは充分に『良いところのご令嬢』です。誇るべき方が大事にされていた昂月お嬢さまですから」
「ありがとうございます。一年経つといろんなことが変わっているんですね」
「一年も、もしくは、まだ一年、その時によって感覚は違うもの……(いず)れにしろ月日は無情なものです」
「はい……真貴さん……あの少女()から連絡は……?」
 そう問うと真貴は表情を翳らせた。
「いえ。この件に関しては自分の愚かさに(あき)れております。あのご令嬢が引っ越しされるとは思いもせずに……」
 真貴はその後、教えられていた電話番号を頼りに祐真と一緒にいた少女の行方を追ったが、すでに引っ越しした後で、内密にすべきことだけに捜している理由も云えず、個人情報保護という法律に邪魔されて追跡できなかった。
「真貴さんが責任を感じることではないんです。それはたぶんあたしが負うことであって……もし、連絡があったら……」
「承知しております。では、祐真さまと……ゆっくりお話しなさってください」
 真貴は微笑んで的確な言葉を云い残すと部屋を出ていった。

 部屋に入った瞬間に感じた祐真の息吹(いぶき)
『おかえり、昂月』
 祐真の声が甦る。昂月の大好きな言葉が聴こえる。
「ただいま、祐真兄」
 そして、ごめんね、祐真兄。
 高弥が云ったように、祐真兄に向き合わなかったあたしは、自由にしないどころか、その存在さえ消そうとしていたのかもしれない。
 あたし独りではやっぱりうまく笑えなかったよ。
 ここは昂月と祐真を優しく迎えてくれた。互いが(ただ)の人となれた。
 けれど、いまは昂月が歓迎される場所ではない。それでもここしか当てがない。
 もうしばらく邪魔させて。独りで歩きだせるようになるから。

 昂月は思いだすようにスイートルームの一室を巡りはじめた。奥に進むと南側に位置したガラス窓からは遥か彼方まで地上が見渡せる。深夜からの雨はすでに止んでいるが、まだ空は白く濁っている。
 窓の手前には応接セット、仕切りのない右側のスペースには食事用のテーブルがある。左側のドアを開けると、ダブルサイズのベッドが少し間を置いて並べてあり、廊下に面した側にバスルーム、化粧室、クローゼットと贅沢な空間が設けられている。
 昂月は寝室の窓際に置かれたソファに横向きに座ると、その背に寄りかかった。
 そのまま動きたくなくなって目を閉じた。昨日眠れなかったつけがまわってきたようで、昂月はいつのまにか、そのままの姿勢で眠り込んでいた。
 夢を見た。
 何も知らなかった昂月が笑っている。まだ未来を信じていた頃の祐真が昂月に向けて屈託なく笑っている。夢の中でふたりの笑い声が木霊(こだま)した。
 声が消え行き、(むな)しさに変わろうとしたときに目が覚めた。
 眠りの中の笑い声は目覚めると同時に携帯の音にすり替わった。
 外に目をやると眠っている間に雲が取れた空はもう薄暗くなり、夕焼けの痕跡(こんせき)がビルの隙間から見える地平線に残っている。
 この風景を幾度この部屋から眺めたことだろう。祐真とふたりで――。
 それは現実に戻る時間だった。あの頃も、この瞬間も。

 携帯のメロディは、掛けてきた主の心理を表すかのように鳴り続ける。昂月は携帯を開いて通話ボタンを押した。
『昂月、何してる?』
 高弥の声が、おそらくはその心情とまったく逆に静かに届く。
「あ……ちょっと慧に付き合って買い物してる」
『……迎えに行こうか?』
「ううん、大丈夫。ごめんね。連絡入れておけばよかった」
『……いや……明日は()く?』
「何?」
『内輪で食事会やるって。三時頃、迎えに行くよ』
「……ミザロヂーで?」
『ああ』
「ちょっと用事があって時間の約束できないから店に直接行く。慧も一緒にいい?」
『わかった。じゃ、明日な』
 自分の嘘は高弥に見破られなかったのだろうか。
 高弥はいつもと変わらない様子で電話を切った。
 HOLDのボタンを押すと画面に不在着信の表示が出る。
 高弥からの着信が二回。
 それほど深く眠っていたのだろう。
 けれど高弥は何も云わなかった。
 それは高弥の覚悟の一つ――?
 昂月はバッグを手に取ると、もう一度室内を見渡してホテルを出た。

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