ONLY ONE〜できること〜 #15

第3章 エデンの果実  1.Plastic Smile-作り笑い- act1


 横浜から戻って家に帰り着いたのは日付が変わろうとする直前だった。
 昂月がドアを開けると、いつものように高弥も降りて車の前を回ってくる。
「わざわざ降りなくてもいいのに」
「このまえのことといい昂月は忘れてるようだけど、二回目におれがここに来た日、おれと祐真がどれだけ慌てたと思ってるんだ?」
「……?」
 高弥が家に来るようになったのは三年前、昂月が高校二年生の頃だったが、昂月は思いだせずに眉間にしわを寄せる。
「あの日、おまえは祐真の名前を何回も叫んで悲鳴を上げながらここに走り込んできた。おれはちょうど車を降りて玄関に向かってるところで、昂月を抱き止めたんだ。覚えてないのか?」
 高弥は信じられないとばかりに昂月を見下ろす。
 そこまで云われてようやく思いだした。
「あれは……結局は“森の熊さん”だったし……ヘンな人がいるらしいって慧と話したすぐあとだったから……そう思ったんだよ」
 ばつが悪そうに昂月は云い訳をした。

 その日、学校からの帰り道で慧と別れたあと家に着く寸前で、
『ねぇ、お嬢さん……』
と背後から声をかけられ、とたんにヘンな人と思い込んで振り向きもせずに昂月は駆けだした。
 高弥と慌てて裸足のまま家から出てきた祐真は、
『ヘ、ヘンな人が……』
と家の外を指差しながら泣き声で昂月が云うなり路上に飛びだした。
『これを……』
と、すぐそこまで来ていた丸っこい初老の男性がキーホルダーを差しだしたときは、二人ともにいつもの余裕をなくし、相手が老人であることも確認しないまま殴りかかる寸前だった。
 近所から何事かと人が数人出てきたなか、困惑していた“熊”ではなく“おじいさん”に高弥と祐真は平謝りした。

 悲鳴を上げていることが意識にないくらいその時は怯えていたのだが、結局はバッグに付けていたキーホルダーが落ちたのを拾ってくれただけのことで、不安に思うこともなくいつの間にかすっかり忘れていた。
「危うく、おれたちのほうが犯罪者になるところだった」
 高弥は思いだすのも嫌そうに渋い顔でつぶやいた。
「当の本人は平然と忘れて、家の中まで送り届けないと気がすまないくらい、おれがトラウマを持ってるってどういうことだと思う?」
 高弥は納得できないとばかりに昂月を責めた。
 玄関先のライトの下、昂月の瞳が可笑しそうに輝く。
「祐真兄、あれからしばらくはずっと駅まで送り迎えしてくれたんだよ。“ヘンな人”じゃなかったのに……そういえば高弥も一度だけ祐真兄の都合がつかないときに迎えに来てくれたよね?」
「ああ。祐真が泣きついてきたんだ」
 高弥は大げさに告げた。
「祐真兄はすごく過保護だった」
 微笑んで云った昂月の瞳が高弥を通り越す。
「過保護と云うよりは溺愛(できあい)だろ」
 顔をしかめていた高弥が真面目な面持ちになってつぶやき、瞳を深くして昂月を引き戻した。
「……昂月、おれは昂月と祐真の間に何があったかを()が非でも知りたいというわけじゃない。いまみたいに祐真のことを話してほしい。ゆっくりでいいから。その延長線上でつらかったことを話してくれればと思ってる」
「……話したら……話しても……」
 昂月は云いよどんだ。思うように言葉が紡ぎだせない。
 高弥は昂月の左頬に少しだけ触れた。
「いいんだ。今日はあんまり喋ってくれなかったし、そのぶんいろいろ考えてるんだろうけど焦らなくていい……じゃ、おやすみ」
「……おやすみなさい」
 高弥は昂月が玄関の中に入るとドアを閉めて帰っていった。

「今日は遅かったのね」
 ミュールを脱いで廊下にあがったとき、“おかえり”を云い慣れていない母、美佳が奥の部屋から出てきて声をかけた。
「ただいま。今日は横浜まで行ったから。出たのが遅かったの。まだ寝てなかったの?」
「たまたま車の音に気づいて目が覚めただけよ」
「……ねぇ、お母さん……」
「何?」
「…いま……すごく好きな人がいたとして、でも別れなくちゃいけなくて……それなのにまたすぐに違う人を好きになれるって普通にあること?」
 昂月が訊ねると美佳の表情がわずかに翳った。
「……だれかに頼りたいってときがあるでしょ。それで気持ちが動くこともあるわ……まさか高弥くんのほかにだれか好きな人ができたわけじゃないわよね?」
 美佳は見当外れのことを口にし、昂月は可笑しくもないのに笑った。
「あたしはそこまで贅沢じゃないよ」
「人の心は……変化するものよ。でなければ、立ち直るきっかけを見つけるのは難しいわ」
「そうね……」
「早く寝なさい。休みも明後日(あさって)まででしょ?」
「明後日までって普通、まだ休み中だよ? 古文の中野教授の講義好きには参ってる」
「あら、熱心でいいじゃない」
 美佳は楽観的にそう云うと、部屋へ戻っていった。

 訊きたかった美佳の答え。
 頼った結果がいまのあたしで、この現実なら、だれかを頼るのは間違ってる。
 愛し合うことがいずれ苦しみに変わるなら、ただ好きでいること。
 それだけでいい。

 シャワーを浴びて寝る頃にはとっくに九月に変わっていた。
 ベッドに入って眠ろうとしたが、高弥の言葉が頭の中をぐるぐると(うず)巻いて昂月の眠りを妨げてしまう。何を考えているのか自分でもわからないほど、時間が交差した場面が目のまえに散らばっている。
 何時になったのか、そのうち外のささめく音が耳に入った。暗闇のなか、起きて出窓のカーテンを少しだけ開けると、街灯の下、光のラインがキラキラと反射して雨が降っているとわかった。
 九月に入ったとたんの雨は何かを暗示しているようで、そして離別を思いださせる。
 泣くことを忘れた昂月のかわりに静かな雨が降り続く。
 しばらくぼんやりと見入っていた。

 祐真との永遠の離別は昂月から涙を消した。一度泣いたら、止めることができないようで生きていけないようで、狂ってしまいそうな気がした。
 それよりは笑うことのほうが簡単であり、そうしているとだれも自分の領域の中まで入り込まない。
 けれど高弥は違った。
 ずるさと醜さでいっぱいの貧弱な心を隠すためだった、笑顔という演技は高弥に見破られていた。
 こんなふうに高弥を知る以前、自分がなぜ高弥を苦手としていたのか、その理由はいまに至ってわかった。無口で無愛想だからではない。
 祐真に誘われて家に来るようになった高弥はその瞳に熱を宿らせ、それはだんだんと深く(こも)り、昂月に向けられていた。その瞳があまりにも篤くて、昂月の笑顔が作り物であることを見透かされ、動かされてしまうことを畏れていた。
 そしてあたしの心は動いた。
 あたしの笑顔は自分さえも救えず、まるで無力だ。
 いつも笑っていて。
 祐真との約束は守れていない。

 いつのまにか眠りにつきながらも、高弥がいなかった夏のようにふと目覚めることを繰り返して朝を迎えた。ベッド横のサイドテーブルに置いた時計は八時を指している。
 ベッドから抜けだしたが、夢の名残か、何が現実なのかわからないほど頭の中ではいろんな映像と言葉が駆け廻っている。
 とても疲れた感じがした。
『自由になりたい』
 そう云った祐真兄をあたしはまだ縛りつけている、あの部屋に。
 決心は集わなくても覚悟はできていなくても、あたしには独りが似合っている。あたしももう自由になりたい。
 あたしが自由になれば、祐真兄も、そして高弥も自由になれる。あたしが自由になるためには進まないといけない。未来(さき)に進むためには逃げないこと。逃げないためには独りになること。独りであれば自由が叶う。
 昂月は呪文のように同じ言葉を繰り返した。

「昂月、午後から買い物に付き合ってくれない?」
 十時過ぎ、慧から電話が入った。いつものように彼女は軽快に本題に入る。
 慧は昂月とは対照的な性格をしていて、幼なじみとはいえ二人の仲の良さは周りを不思議がらせている。
「うん……ごめん、今日は行かなくちゃいけないところがあって……」
「高弥さんと? 一週間会いっ放しだし、今日くらいあたしに付き合ってくれてもいいでしょ?」
 不満というよりはからかいだった。
 昂月はクスッと笑ったが、慧にはどこか素直に受け取れない笑い声だった。
「今日は違うの」
「……何かあった?」
 電話越しなのに、付き合いが長い慧はさすがにごまかせない。
「うん……祐真兄のこと……高弥が自由にしてやれって」
 昂月はためらいがちに云った。
「高弥さんが…そう……」
 慧は何かを悟っているかのようにつぶやいた。
「ずっと思ってたんだけど……本音を云えば、昂月を見てると不安なんだ」
「え?」
「祐真兄ちゃんが昂月を連れて行くんじゃないかって」
「……どういう意味?」
「……わかるでしょ?」
「……連れて行かれるなんて……あたしは置いていかれたんだよ?」
 昂月の声には、聞く者によっては気づかないほどの(いた)みが潜んでいる。
 慧はそれを聞き逃すほど昂月との付き合いが浅いわけはなく、それどころか痛いほどに昂月の気持ちはわかっているつもりだった。昂月と祐真の時間に、最初から最後まで付き合った数少ない立会人の一人だったのだから。
「だからこそ、だよ。祐真兄ちゃんは昂月のことが心残りに違いないから。祐真兄ちゃんは何かを決断してた。もしくは、何かを決断しようとしてた」
「その決断があの結果?」
 昂月は痛々しくつぶやいた。
「祐真兄ちゃんがどうするつもりだったのか、あたしにはわからない。“何か”を知っている人はだれもいない。でも、あの死が結果じゃないことははっきりしてる。祐真兄ちゃんがどんな決断をするにしろ、昂月をこんなにつらくさせたままで()くわけないよ。それなのに、肝心の昂月がそれをわかってない。それをみんな心配してるの。高弥さんは特にね」
 でも知ってしまった。責められることはあっても受け入れてもらえる場所じゃない。
「慧……なかったことにしたいよ……全部」
 ゲームのようにリセットできたらどんなにラクだろう。けれどゲームだったらリアルよりはもっとだれかの干渉に翻弄(ほんろう)される。ゲームみたいにだれかの思惑で左右されることにはもううんざりだ。
 ましてや、だれかの未来を左右してしまう想い(ちから)なんて持ちたくない。
「昂月?」
「ごめん、大丈夫。ちょっと弱音を吐きたくなっただけ」
「あたし、そっち行こうか?」
「ううん。ホントに用事があるの。高弥のお父さんのところだから心配いらないよ」
「……うん、わかった。じゃ、またね」

BACKNEXTDOOR