ONLY ONE〜できること〜 #14

第2章 PLACE  3.jamais vu(ジャメ・ヴ)-未視感- act2

   

 それから数日間、ドライブしたり高弥の部屋ですごしたりと、不在だった隙間(すきま)を補うように、ただ一緒にいるという日常のなかで穏やかな時間が続いている。
 今日も約束をしたわけではないが、それはずっとふたりの慣例となっていて、昂月は午後になってから高弥のマンションのエントランスを(くぐ)った。
 高弥の渡英まえに重く感じていた夏は結局は何事もなく通りゆき、(こよみ)上では明日、秋を迎える。このままでいられるかもしれないという希望さえ昂月の中に芽生えた。

 ドアベルを鳴らすと少しの間をおいてドアが開いた。
「ようこそ」
 高弥はバカ丁寧に歓迎の言葉を口にした。
 玄関に入ると高弥のものではない男物の靴が二足並んでいる。
「だれか来てるなら……」
「良哉たちだよ。入って」
 高弥のあとを追ってリビングへ行くと、良哉と航がソファに向かい合って座り、くつろいでいた。
「よぉ。元気そうだ」
 航が目を細めて煙草の煙を吐きだしながら昂月に声をかけた。
「お帰りなさい。実那都ちゃんからお土産にもらったダージリンティ、美味しかったよ。ありがとう」
「いまだに朝が紅茶ではじまるってどう思う? おれはコーヒーのほうがいい」
 それでも実那都が飽きるまで、航は抗議もせずにそれに付き合うのだ。そう思うと昂月は笑った。
「実那都ちゃんらしい。それより部屋が煙草臭いよ。実那都ちゃん、よく文句云わないね。空気入れ換えしていい?」
「相変わらず口煩い妹だな。これでも減らしてるんだぜ?」
「こいつは実那都の前ではめったに吸わないんだよ」
 そう云って笑っている良哉も煙草を手放すことはない。
「良くんも吸いすぎ」
 昂月はベランダ側の窓を全開にした。
「祐真も吸ってたはずだけどな?」
 航の言葉に窓の枠をつかんでいた昂月の手がピクリと震えた。
「一年もすると鼻の感覚も変わっちゃうよ。高弥は吸わないし」
 航の隣に座った高弥を振り向いて、ね? と同意を求めるように昂月は首をかしげた。
「デビューまえちょっとはおれも吸ってたんだ」
「そうなの?」
「そういや、おまえと入れ替わるように祐真はまた吸いだしたんだっけ。祐真はこっち来てからやめてたからな」
 昂月の顔がわずかに歪んだ。
 一瞬のことですぐに微笑みに変わったが、それを見逃す彼らではなかった。
「こっち来てから、って来るまえは未成年だよ?」
「固いこと云いっこなしだ。もう時効だぜ?」
「良い子ちゃんの昂月には許せないことだろうよ」
 航と良哉はニヤリと笑いながら昂月をからかう。
 この光景は一年前まで繰り返されていた(なつ)かしいものだった。
 違うのは祐真に取って代わっていまは高弥がそこにいること。
「怒るよ!」
 何事もなかったかのように繰り返している日常に気づかされる瞬間は苦しい。祐真の名が出るたびにそのつらさと向き合わなくてはならない。
 笑みが崩れそうになって昂月はキッチンに向かった。
「コーヒー淹れるよ。今日は仕事の話じゃないの?」
「半分半分ってとこだ。レクイエムライヴの件を聞いただろ? 曲を決めなきゃなんねぇし。おまえが絶対に入れてほしいってのがあったら――」
「あたしは……選べないよ。(こう)くんたちとファンに任せる」
 航をさえぎって昂月はそう云うと対面キッチンに入り、彼らに背を向けてコーヒーメーカーのセットをしはじめる。
 揺れる吐息とともに手が少し震え、それを振り払うように昂月は両手を握り締めた。
「あづ――」
「航、それ以上はいい。おれにやらせてくれ」
 高弥は声を落として云いかけた航をさえぎった。
 航はやりきれないように顔をしかめ、煙草を思いっきり吸い込んで煙を吐きだした。

 良哉は立ちあがって昂月のところへ行く。
「おれも手伝うよ」
「……良くん、ライヴには参加するの?」
「そのつもりだ。FATEの活動は当面休止のままだけど」
 良哉はまだ哀しみを(ぬぐ)い去れない瞳を昂月に向ける。
「良くん……」
「祐真のことは……そう早くは立ち直れない。ま、早いかどうかってのはそいつ次第だろうけど。あくまで休止だ。やめたわけじゃない。昂月、おまえも急ぐ必要はない。何か当てが必要だったら連絡しろよ」
「うん、ありがと」
 四人で高弥と航の土産話を中心にしばらく語り合っていると、一時間くらいして良哉と航は立ちあがり、帰る素振りを見せた。
「もう帰っちゃうの?」
「おれたちはそんな野暮じゃないよ。これ以上いると、帰らないと云ったところで高弥が追いだすに決まってる」
「よくわかってるな」
 ははっと笑いながら高弥は良哉に応じた。
「けっ、何年おまえと付き合ってると思ってんだよ。昂月、こいつのお守りよろしく。じゃあな」
 そう云いつつ、航が高弥の肩を叩いた。
 ふざけあったり、本音で生真面目に語り合ったり、彼らを見ていると昂月は心底から羨望(せんぼう)を覚える。

「せっかくの休みもライヴの打ち合わせとか音合わせで忙しくなるね?」
 二人が帰ってしまうと、コーヒーを片づけてまた淹れなおしながら昂月は訊ねてみた。
 が、高弥はすぐに返事しなかった。
「……高弥?」
「あ……なんだ?」
「……ライヴあるから休みも忙しくなるねって云ったの」
「ん……まあな」
 高弥がはじめて昂月の言葉を聞き逃した。そして歯切れの悪い、曖昧な答え方。
 昂月は驚いて高弥を見ると、いつもらしくない表情にまた驚く。
 な……に……?
 昂月はそれを見てしまった瞬間に果てを悟った。
 二つのコーヒーカップをテーブルまで運ぶと、昂月はソファではなくカーペットの上に直に座る。
 正面のソファに座った高弥の顔は迷いに満ちていた。
 昂月は言葉を待った。

「昂月……」
 高弥のためらいが昂月に現実を告げる。
「もう祐真のことを認めてもいいだろ?」
 昂月の名を呼んだときの高弥の声にはどこまでも迷いがあったのに、本題を口にしたときは一片のためらいも感じられなかった。
「認めるって何?」
「祐真がいないという事実だ。全部を受け入れて現在(いま)に在るべきなんだ。いつまでも同じところに立ち止まっていないで」
「あたし、立ち止まってなんかない」
「違うだろ。祐真が死んでからか? ……そんなんじゃない、それ以前からだ。どんなにつらくても自分に起こったことを認めないと進めない。避けて通れない道ってのがある。昂月にとって祐真のことがそうだろ?」
 高弥は真剣な眼差しで昂月を諭す。
「あたしは祐真兄がいないこと、解ってるよ。立ち止まってなんかいない」
「そうじゃない」
 高弥は首を振った。瞳はまっすぐに、何も見逃すまいと、昂月を捕らえて放さない。
「それは表面上のことだろ? おれはここのことを云ってるんだ」
 高弥は親指をたてて、自分の胸をついた。
「そんなの……そんなのわかんない。高弥が何を云ってるのかわからないよ?」
 昂月の瞳は道に迷ったように心許(こころもと)ない不安で揺れている。
 迷宮の中を自らの意思でさまよっているとしても、必ず出口へと導く。そのために、おれ自身が昂月に痛みを強いることになっても。

「祐真の名が出るたびにおまえはビクついてる。祐真のことに目を背けて……それは祐真がいたことさえ否定していることにならないのか? つらいのは……祐真を慕ってた奴はだれだってそうだ。おまえのがその比じゃないことはわかってる。けど、祐真を……もう自由にしてやってもいいだろ? 昂月自身のことも」

 何がわかるの? だれにもわからない。
 叫びだしそうになる。
 云えることならこんなに苦しくない。
 ふたりの空間はそれを遠く隔てるような沈黙に遮断された。慣れ親しんだはずのこの部屋が見知らぬ時空にすり替わっていく。

「祐真兄はあたしの何を高弥に話したの」
 心の中のカオスと反して、昂月の声は淡々としている。
「すべてかもしれない」
「すべて……?」
 わかるはずない。祐真兄でさえ、あたしをわかってくれることはなかった。
「三年前くらいから祐真が荒れだしたことは、仲間内では公然のことだった。理由はだれも知らない。祐真が語ることはなかった。けど……」
 高弥は最後まで云わなかった。
 昂月ならわかるはず――。
 暗に仄めかされた言葉は当たっている。あの少女()を除いたら――たぶん。
「祐真がたまに水納を家に連れて行ってたことは知ってる。もちろん、おれが一緒のときもあったし。けど、おれは祐真が水納と付き合っていたとは思ってない。おれに限らず、祐真を知ってる(・・・・)なら、そんなふうに思ってる奴はいない。正直、最初は驚いた。昂月がそう思っていることに」

 それならだれもが知ってるの? あたしが祐真兄を追い詰めてしまったこと。あたしが高弥たちから祐真兄を奪ってしまったこと。

 高弥は追い討ちをかけるように、昂月を動揺させる問いを容赦(ようしゃ)なく向ける。
「祐真が目立って自滅的になったのは、水納と、おまえが云う『付き合い』だした頃だ。何があった?」
 そして決定的な一打を放つ。
「昂月と祐真の間に何があった?」
 ――――。
 昂月は顔を背けて手が白くなるほどに握りしめ、動揺を潰そうとした。
「おれが『祐真のかわりをしてやる』って云ったのは妹としてということじゃない」
 高弥が助け舟を出す。

 けれど。
 祐真兄を束縛して、その果てに存在を奪ったのに、あたしはいとも簡単にその想いを高弥に乗り換えた。
 祐真を大事に思っていた人たちはそんなあたしをどんな気持ちで見てるの? 高弥はあたしをどんな思いで見てるの?
 あたしから居場所を奪わないで。全部を取りあげないで。

「何も……思い当たることなんてない」
 なんの感情も示さない言葉が部屋の中を(うつ)ろに響く。ふたりともがその言葉が嘘であることを承知していた。
「もし……何かあったとして……それを知ってなんになるの?」
「おれのためじゃない」
「理由がわかったとしても……祐真兄は戻ってこないよ。何も変わらない」

 昂月から高弥という居場所を遠ざけるのは仕事ではなく、高弥自身だった。
 高弥、助けて。あたしはまた――。
 もう傷つきたくない。
 いつか別れがあることをわかっていても、それが仕事のためなら引き延ばせるところまで一緒にいられたらそれだけでいい。
 そう思っていた。
 それがこんなに早く、そして高弥自身の手で終止符が打たれるとは思っていなかった。
 否、思いたくなかった。
 決心がつかなかったあたしの愚かさは何度も同じ結果を招く。

「昂月につらい想いはさせたくない。けど、祐真と同じ道を歩かせたくもない」
「いまのまま……じゃだめなの?」
「それでいいつもりだった。けど、このままではいつかおまえは潰れる。そう気づいたんだ」
 高弥が苦悩に満ちた声を出していても、その声の中に彼自身の想いがあっても、いまの昂月はそれに気づく心をなくしていた。
 高弥は言葉を継ぐ。
「いますぐにどうにかしろって云ってるんじゃない。少しずつでいいから考えていってほしい」
 両手に包み込んだコーヒーカップの(ぬく)もりも伝わらないほど、手が氷のように冷たく感じる。
 何が高弥を変えたのか。いま、昂月にとって高弥は見知らぬ人に戻りつつあった。
「おれは昂月の力になれる」
「すごい自信だね」
「当然」
 昂月が皮肉っぽく云ったにも拘らず、高弥はそれに気づかないふりをして力強く応えた。
 普段の会話のなかの言葉だったら頼もしく聞こえるだろうに、いまは国語の教科書に出てくるようなただの単語にしかなり得なかった。

 祐真兄が与えた義務。受けざるを得なかった、あたしに対する責任。
 あたしの想いはいつも届けるまえにドアの外で拒絶される。最初から届くはずのない理由がちゃんと敷き詰められていて、あたしは居場所を探して諦めがつかないまま、いつも無駄な抵抗をしている。

「昂月、出ようか」
 そう云った高弥はいままでの会話がなんでもなかったことのように普段に戻っていた。
 高弥に次いで昂月も立ちあがる。
「……どこ?」
「百円玉貸して」
 財布から取りだして高弥に渡すと、ポンと上に(はじ)いて落ちてきたコインを右手で受けて左の手の甲に伏せた。
「表は北、西、どっち?」
「西!」
「オーケー」
 高弥の勢いに乗せられて昂月が返事すると、高弥が右手を上げた。
 コインは表だった。
 昂月にはそぐわない。昂月には裏が似合っている。反対に高弥は表でしかあり得ない。
 はじめからふたりは見る方向が違っていたのだと今更に気づいた。
「西方面に決まり。横浜まで飛ばそう」
「いまから? 車の運転したいだけなんだよね?」
 昂月がいまの精一杯でからかうと、高弥は笑って肩をすくめた。
「……高弥……」
 リビングを出ようと前を行く高弥を引き止めた。
「な――?」
 高弥が振り向くなり、昂月はその背に手を回して顔を高弥の胸に(うず)めた。
 突然のことに驚いた高弥の言葉は途切れたが、その腕を解くことはなく、逆に昂月をすっぽりと腕の中に包み込んだ。

 この腕はあたしを甘えさせてくれたけれど、あたしの居場所じゃない。高弥が云ったとおり、いつの頃からか、あたしに意味のある時間などなかった。祐真兄の死という空洞も通り過ぎたんじゃなくて、祐真兄がいなくても普通に生活できていることに気休めを見いだし、逃げていただけのこと。自分を責めながらもあたしは高弥に逃げ場所をつくり、祐真兄から時間を奪ったことを忘れて(のぞ)みをかけ、自分だけ幸せになろうとしてた。

 どれくらいの時が過ぎたのか、高弥は昂月が顔を上げるまでずっとそのままの姿勢でいてくれた。
 やがて昂月は手を放す。
「ごめん」
「謝るようなことじゃないだろ。行こう」
 昂月はうなずいて、高弥のあとを追った。

 篤い夏は過ぎ、離別の季節が廻る。
 手を放すと同時に甦った空虚は、昂月の時間のすべてを無意味にした。
 それでも一緒にいたい。せめて決心が(つど)うまで。

 高弥、助けて――――――。

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