ONLY ONE〜できること〜 #13

第2章 PLACE  3.jamais vu(ジャメ・ヴ)-未視感- act1

   

 高弥が帰国した翌日、両親と昼食をとっているときに電話が入った。
『昨日は悪かった。いま起きた』
「いま……って半日経ってるよ。すごく疲れてたんだね」
『時差ボケしなくてすむように飛行機の中で眠ってなかったんだ』
「それなのに打ち合わせまで?」
『そのときはピークを超えてた』
「あたしのお喋りは子守唄になったの?」
『悪かった』
 高弥がすまなさそうに謝罪を繰り返すと、昂月はクスクスと笑った。
『今日はこっち来る?』
「うん。片づけがあるから一時間くらいしてこっち出るね」
『わかった。じゃ、あとでな』

 電話を切ると、美佳が何か云いたそうに昂月を見ている。
「何?」
「高弥くんがいるのといないのとでは全然様子が違うから」
「そりゃそうだろうよ」
 美佳の言葉を芳樹が笑う。
「……だから?」
「ちょっとさみしいと思っただけよ」
「……祐真兄がいても……」
 昂月は云いかけてやめた。云っても伝わらない。
「祐真がどうしたの?」
 美佳が少し表情を曇らせて問い返した。
「ううん……ウチは逆なのね」
 昂月はくすりと笑った。
「何が?」
「普通こういうことは父親のほうがさみしがることじゃないの?」
「さみしいのはさみしいさ。ただ、お父さんにはお母さんがいるから大丈夫なんだよ」
 芳樹は照れもせずにそう云った。美佳は、ばかね、と(たしな)めるように返したが当然のごとく満更(まんざら)でない様子だ。
「いいよね、いつまでも仲良くって」
「からかわないで」
 皮肉を云ったはずが、顔を見合わせて笑った両親には通じなかった。
 美佳と手分けをして片づけを終わると、芳樹は美佳を連れて日曜日恒例のドライブに出かけた。
 昂月はため息を吐いた。両親といると息が詰まりそうになることがある。

 昂月は二階に上がって部屋へ入ると鏡の前に立って身支度を整え、最後の仕上げに高弥からもらったネックレスとブレスレットをした。少し手を振ってブレスレットの感触を確かめる。
 部屋を出ようとした矢先、家の前で車が止まった音がした。いまの時間帯からすると勝手気ままなセールスマンに違いない。
 こんなときに。
 昂月は顔をしかめた。
 ほどなくドアベルが鳴る。昂月はバッグを手に取ると急いで階段を下りて玄関のドアを開けた。
「はーい。どなた――」
 応対の言葉は途中で切れた。
 てっきり生保レディのおばさんか、ビジネススーツを着込んだおじさんだと思い込んでいたので、そこにいるのが高弥であることを認識すると昂月が用意していた愛想笑いは驚きに変わった。
 高弥はふっと笑った。
「何、間の抜けた顔してんだ?」
「だって……」
「天気いいからさ、ドライブでもしようかと思ったんだ。久しぶりに運転したいっていうのもあるけど。メール入れてただろ?」
「あ……ごめん。携帯、台所に置きっ放しだった。取ってくる」
 すぐに戻ってくるとミュールを()きながら、ほっとした笑顔を高弥に向けた。慌ててよろけた昂月を高弥が支える。
「急がないでいい。時間はあるよ」
「ほかに用事ができたのかって思っちゃった」
「入っても、昂月をちゃんと優先するから心配無用」
「なるべく、でしょ?」
 昂月はドアの鍵をかけながら笑うと、高弥の甘い言葉をからかった。仕事には(かな)わないとわかっている。
 高弥は少し不機嫌な顔になった。
「それより、一人のときはドアを開けるなって云われなかったか?」
 高弥は表情と比例した渋い声で責めた。
「それは子供の頃の常識でしょ? それに、ちょっとまえまではお母さんたちがいたんだよ」
「じゃ、せめてだれかを確認してから出ろよ」
 昂月は先を行く高弥の腕を捕まえて顔を覗き込んだ。
「心配なの?」
「何かあったら困る」
 高弥の言葉は昂月を甘やかす。彼にとって昂月が大事で特別な人間だと思わせてくれる。
 特殊な世界で仕事をしている高弥の周りには自信に溢れた女性が多くいるが、昂月は高弥を信じていられる。それが贅沢であることも自覚している。
 だから高弥とすごす一瞬一瞬を覚えていたい。どんな形であれ、いつか終わりはあるのだから。

 高弥の濃紺の車は暑い日差しのなか車体を光らせ、車間を縫って(なめ)らかに進んでいく。
 FMの声をバックに時折話しかけてくる高弥が、今後の活動予定を教えてくれた。本格的にプロモーションを開始するのは一カ月後からで、昨日高弥が約束してくれたように、しばらくは毎日でも会えそうだ。
 二時間くらいかかって高弥が連れて来たのは海辺に整備された公園だった。クーラーのきいた車から出ると一気に暑さに襲われたが、海風が少しそれを和らげる。
 砂浜に沿うように設置されたフェンスのところまでくると、昂月は手を広げて風を受け、その景色に同化した。
 高弥はそんな昂月を伊達眼鏡(だてめがね)越しに見て笑っている。
 当初、外へ出るときは必ずといっていいほど、高弥は濃い焦げ茶色のサングラスを常備していたが、昂月が一方的に見られるのは嫌だからと頼んで以来、それは無色のグラスにかわった。
 文字の入った白いTシャツにジーンズという、きわめてラフな高弥の格好はその辺にいる人と変わりない。が、それでも人目を惹く雰囲気は消えることがない。
 いまはたぶん、昂月のほうが人目を避けたいと思っている。
「髪型、変えたんだな」
「うん。ちょっと気分転換」
 伸ばしていたのを肩まで切って、ゆるくウェーヴをかけた髪が風に吹かれてふわりと揺れている。
「ストレートしか知らなかったから新鮮」
「大人っぽくなった?」
「似合ってる」
「答えになってない」
 可笑しそうに笑う高弥に、昂月はふくれ面で抗議した。
 五センチのヒールで高弥の肩にやっと届くくらいの背の低さもあってか、年より幼く見られることのほうが多く、昂月にとってはコンプレックスの一つだ。
「いない間のこと話して」
 高弥はフェンスに肘をついて背中を預け、その先の風景を見るともなく視線を置いている。
 昂月はそれとは逆方向を向いて高弥の腕に自分のそれを(から)ませると、涼しげな水の流れをぼんやりと見つめた。
「昨日、子守唄、歌ったよ?」
「まだ責めるのか? 声が聴けて安心したんだ」
「国際電話してもすぐに切ろうとしてたくせに、いまになってそんなこと云うの?」
「それにはちゃんと理由がある」
「どんな?」
 昂月が問うと、云いたくなさそうに高弥は髪をかきあげる。
「電話代かかるだろ」
「そのくらいどうってことないほど高弥はお金持ちです!」
 理由にはならないとばかりに昂月は云いきった。
「……顔が見れないときに、やたら声を聴いてると会いたくなるんだ!」
 高弥は自棄になって叫んだ。
 昂月は素直にうれしそうに笑う。
「あんまり大したことはなかったよ。やることなくて……というより、やりたいことが見つからなくてぼーっとしてた。慧は(うらや)ましいくらい毎日忙しそうにしてるし。あたしも何か探さなくちゃ」
「焦ることはないさ。何かやってみて違うと思ったらそれからやり直せばいい」
「ぷっ。高弥って年寄りくさい」
「ふざけるな。おれは真面目に云ってるんだ」
「はーい」
 ふたりの間に笑みが漂う。しばらく黙ったまま、昂月は高弥の腕に顔を預けてキラキラと光る水面を眺めた。

「もうすぐ……一年になるんだな」
 さっきまでの口調を微妙に変えてとうとつに高弥がつぶやいた。
 ふたりが祐真について語ることはそれほど多くなかった。高弥に限らず、だれとも、両親とでさえめったにない。
 昂月は一度ゆっくりと(まばた)きをして、ざわつく感情を呑み込んだ。
 昂月は高弥の腕から顔を離した。
 高弥が昂月の横顔を見下ろすと、なんの感情も見いだせないほど昂月は仮面を(かぶ)ってしまっている。

「そうだね。いままででいちばん早く感じた一年かもしれない」
「……祐真の命日にレクイエムライヴをやろうかってみんなで云ってるんだ。ユーマのファンを入れるだけ招待して……いいか?」
「いいよ。それなら祐真兄も喜んでくれると思うから……唯子さんは……元気?」
「水納? あいつは変わりないよ」
「……唯子さん、どこか無理してる感じがして……縛られてる必要ないよ。だれかと幸せになってほしい」
 そうなったらあたしも安心できる。自分のずるさに心が激しく痛む。あたしは幸せになっちゃいけない。
「無理してるのは……昂月、おまえだろ? おまえは祐真の死を乗り越えなきゃいけない」
 あたしは……祐真兄の話をだれともしたくない。
「とっくに乗り越えてるよ」
 昂月は顔を上げて笑みを浮かべた。
 高弥は怖いくらいに昂月をじっと見つめ返す。
「そうやって笑いながら、なぜかおまえはいつも自分を責めてる。おれのまえで……おれに対して無理に笑って見せる必要なんかない。つらいときはつらいと云えばいい」
 昂月はつと高弥から瞳を逸らす。
 高弥は的確に昂月の感情を見抜いている。真の理由を知っているわけがないのに。
 あたしは自分を責めることしかできない。理由は高弥にも、だれにもわからない。高弥がきっと想像しているようなきれいごとじゃない。
「高弥は……優しいね」
「優しくなんかない」
「あたしには優しいよ」
 優しすぎる。はじめて出会ったときからずっと変わらずに。だから余計に怖かった。あたしにはその優しさを受ける資格なんかない。けれどそれを失いたくもない。
「無口で無愛想な奴だけど、人を裏切らない優しい人間だって祐真兄が云ってた。あたしもそう思う」
「無口で無愛想って……それは祐真自身のことだろ?」
 高弥はわざと気分を害したように云った。
 昂月が高弥を見上げると、その瞳はやっぱり笑っている。
「ホントにそう? あたしのまえではそんなことなかったから」
「おれといいとこ勝負だと思うけどな。そのぶん考える時間があって、先回りして……祐真は優しすぎた」

 高弥は祐真に対してか昂月に対してか気遣いながら、祐真のことをそう表現した。
 人の心を読んでしまう(くせ)を身につけ、それを(わか)ってしまう自分に疲れて、祐真は冷めた目で眺めていつもほかの人との間に一線を引いていた。祐真は優しすぎたのではなく、繊細すぎたのかもしれない。
 同じ優しさを持つ高弥を知ったからこそ気づいた。
『あいつは、おれには絶対存在しない強さを持ってるんだ』
 祐真は高弥についてそう語った。
 そのときはわからなかったけれど、いまは高弥と祐真の違いを気づかされる。高弥はたしかな足跡をたどっているような感触を昂月に与えてくれる。祐真といたときには最後まで得ることのできなかったもの。それは祐真が云う『強さ』なのだろう。
 高弥と会うたびにその存在の(とうと)さを思い知り、その日の“さよなら”をする度に昂月は自分に問う。
 自分はその強さに見合う人間なのか――いつかそうなれるのだろうか。
 けれどそうなるまえにすでに果ては目の前に用意された。望むことさえ、もう時間が許さない。
 それならせめて数えきれない瞬間を――。

「高弥がウチに来るようになるまえから、祐真兄はよく高弥のことを話してくれたんだよ」
「おれも昂月のことをよく聞かされた。祐真が話すことと云えば、音楽の次には昂月のことだったから」
 ふたりとも互いの告白に驚いて顔を見合わせた。
「そんなこと一度も云わなかったじゃない」
「おまえもだろ」
 高弥は少しうつむいて可笑しそうに笑んだ。

 ――その姿を満ちることのない箱に詰め込んでいこう。

 ()が暮れるまえに海辺の近くにあるアメリカンカントリー調のレストランに入った。個人の家を思わせるような温かい雰囲気があり、ステンシルを使ったウェルカムボードが客を可愛く出迎える。床は古びて見える板が用いられ、中央には煉瓦造りの暖炉(だんろ)、テーブルや椅子は手塗りふうで、壁には所々にのどかな風景が描かれたタペストリーが掛けられている。
 夕食を取るには少し早い時間帯で、店内は人が(まば)らだ。
 ふたりは海の見える窓際を選んで座った。
「誕生日、過ぎちゃったけど欲しいものを何か決めてくれた?」
「……もう、もらってる」
「…………?」
「おれがわかってればいいことなんだ」
 昂月が不満そうに見ると、高弥は右手を伸ばして彼女の頬に触れる。
「祐真はおれに……おれになら昂月のことを(ゆだ)ねられると思ってた……って思ってる」
 とうとつに云いだした高弥のその真意を計りかね、昂月は答えることができなかった。そこに高弥の想いがあるとしても、事実を知らないという現実のうえでは幻想でしかない。
 そして高弥の云うとおりなら、祐真はそうすることで何を望んだのだろう。昂月にはわからない。
「押しつけられて……高弥ってほんとに祐真兄に忠実なんだね」
 昂月は微笑んだが、その瞳は深く翳る。
「そういう意味じゃない。押しつけられて、ここまで付き合えるほどおれは社交的じゃない」
「……わかってる」
「何を迷ってる?」
「……手を離して……見られてるよ」
 実のところ、ここに入ったとたん、いつものようにほかの客の視線が集まった。画面で見る高弥のあまりにとっつきにくいイメージがあって、話しかけるなどと無謀な人はいないが気づかれていることは間違いない。
 当の本人はそれを知ってか知らずか平然としている。これもまた、いつものように。
「普通にしてるだけだろ?」
「うん。でも……」
「なんで? まえは気にしてなかったはずだ」
「やっぱり……ふたりだけで人前に出るのはまずいんじゃないかって……いまフラッシュたかれたら云い訳できないよ。相手が“あたし”だってわかったら、ちょっとしたスクープだね」
 何度云いだす機会を与えても昂月は話題を逸らし、または(かたく)なに口を閉ざす。
「スクープだろうがスキャンダルだろうが、こういうことでFATEが(つぶ)れてしまうんなら、もともとそれだけの力しかなかったってことだ。昂月が気にすることじゃない」
 思いがけず高弥の言葉は強く響き、苛立ちが感じられた。
「……高弥?」
 戸惑った昂月を見て高弥はふっと笑んで手を離した。
「どうせなら、バラしてやろうか」
 どう? と訊ねるように高弥は眉を動かした。他人(ひと)には見せない、おどけた表情をしている。冗談なのか本気なのか、すました表情の高弥の本心は少しもつかめない。
「そういうの、売名行為っていうんだよ」
「あれ、おれってそんなに売れてなかったっけ?」
「ふざけないで。公衆の面前でふざけてると、せっかく鷹弥として創りあげたイメージが崩れちゃうよ」
「プライヴェートとパブリックは違って当然」

 あるときは冷めた大人で、あるときは無邪気な少年で。
 どっちも好き。
 けっして音にすることのない言葉を(かな)でた。

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