ONLY ONE〜できること〜 #12

第2章 PLACE  2.deja vu(デジャ・ヴ) -既視感- act2

   

 ベランダに出て天を眺めていると遥か高い空がきらりと光を放った。銀色に光る物体は飛行機に違いない。
 高弥が乗った飛行機ではないと知っている。
 けれど目に入ったとたん、なんとなく昂月はざわざわとした不安のようなものを感じはじめた。
 視線を落とすと、太陽の光が西に傾いてだんだんと色を濃く変えている。その熱は冷めることなく、昂月はクーラーをきかせたリビングに戻った。時計を見ると四時を指していた。
 まもなく高弥は日本の地に到着する。
 昨夜の高弥からの電話は思いがけなく、いまから帰る、という連絡だった。急に決まったことのようで経緯(いきさつ)は何も訊けないまま電話は切られた。
 FATEの帰国は昂月が思っていたより早かった。というより早すぎる。予定どおりでもなく、九月一杯まで延ばされることもなかった帰国は、そこに何か意味があるような気がした。
 高弥の電話が切れたあとに叶多からは歓喜の電話が入った。事務所側と交渉事があるからと、空港での出迎えを拒否されたことに文句を云っていたが、戒斗の留守中に泣き言ばかり口にしていた叶多はやっと安心したのか、昂月に謝りつつもその声にはうれしさが溢れていた。
 叶多が教えてくれた交渉事がどれくらいの時間を要するのかは見当もつかない。とりあえずは発つときに高弥が願ったようにマンションで待つことにした。
 高弥から電話が入ったのは五時を過ぎてからだった。
『いま、着いた』
「うん。おかえり。やっぱり声が近くに聞こえる」
『変わらないだろ?』
 高弥が電話の向こうで笑った。
 久しぶりにその笑っている顔を間近で見れるかと思うと、昂月はうれしさと緊張が相まってどきどきした。
『いろいろ手続きがあって、そのあとは事務所との打ち合わせがあるから遅くなるけど待ってて』
「うん。いま、高弥のマンションにいるの。ちゃんと待ってるから」
 そう答えると、電話中にしては不自然なくらい高弥は長く沈黙した。
「高弥?」
『……約束……守ってくれたことに応えて……』
 高弥はつぶやくように云った。
「え、何?」
『いや……こっちの話。じゃ、あとで。なんか食べてろよ』
「うん。気をつけてね」

 傍にいるべき人が離れていることへの畏れは、一年前から絶えず昂月に付き纏っている。『気をつけて』という言葉の重さを観じつつ、無事の到着を知ると自分で思っていた以上に落ち着いた。
 高弥に従ってマンションの近くの通い慣れたコンビニに行くと、親しくしている店員が寄ってきた。夏バテの話になって、あたしも、と漏らしたとたんに体力回復にと強引に勧められ、『具だくさん』とタイトルの付いたスープとボリューム満点のサンドイッチを買った。
 コンビニを出ると店員のあまりの勢いに昂月は独り笑う。
 あの季節だからこそなのか、どこにいても何をする気にもなれない倦怠(けんたい)感が付いて回り、色褪(いろあ)せたような感覚の中にいたのが少し色を取り戻したように思えた。
 高弥が近くにいることの安心からなのか、その存在の大きさに昂月は(おのの)く。
 マンションに戻って食事を取っているうちに日が落ちていった。灯りをつけないまま部屋に馴染み深く溶け込んだ昂月は、立ちあがって窓辺に近づき、目の前に広がる外の景色をレースのカーテン越しに眺めた。
 昼間は殺風景としかいえない姿を曝していた建物たちが、いまはネオンによって着飾られて優雅に見せている。部屋はすっかり暗くなり、昂月の存在を隠蔽(いんぺい)するようにひっそりとして空と同じ色を纏った。宇宙をかすかに明るく見せる月の役目をネオンが果たしている。
 しばらく何も考えないまま見入っていたが、やがてソファに戻ると口もとに手を持っていった。食べた量の多さにまだ持続している満腹感も手伝ってか欠伸(あくび)が出た。
 この夏、眠りが浅いというわけではないが、夜中にふと目覚めることが多く、それは時間をかまわず昂月に睡魔をもたらしていた。
 テレビの横に置かれたデジタル時計を見ると、電話が入ってから三時間を越えたことを教える。
 暗さに慣れた目でテーブルに置いた携帯を見遣ったちょうどその時、ピンク色の電光が点滅するとともに高弥限定の着信音が鳴った。

「高弥、終わったの?」
 通話ボタンを押して昂月が呼びかけても電話の向こうはすぐに応じなかった。
「高弥?」
『……あー、ごめんね、昂月ちゃん。私、唯子』
「……え……唯子さん……?」
 予想していなかった声に昂月の心臓が止まりそうになる。
「何かあったの?!」
 昂月は大きな声で唯子を問い詰めた。
『ううん。高弥がちょっと遅くなるから今日は帰るように連絡を入れてくれって……大丈夫?』
 唯子が心配そうな声で訊ねた。昂月の動揺が伝わったらしい。
「……あ……大丈夫です……唯子さん、ありがとう」
 昂月は震える手で電話を切った。

 大丈夫じゃない……本当は……。
 叫びだしそうになる口もとを押さえた。あの日の光景が目のまえに迫る。
 どうして……。
 その答えはもう訊けない。このまま抱えていかなくてはならない『どうして』は、昂月にとっては持て余した現実だった。しばらく、それを忘れていた――あるいは深層に閉じ込めてしまっていたことに気づかされた。
 見知らぬ女性からかかる電話に(おび)えていたことも忘れて温室に入り浸り、いまそうであるように不意打ちでまたあの時間へと昂月は引きずり込まれる。
 唯子の伝言が頭に入ったのはかなりの時間が()ってからだった。
「帰らなくちゃ」
 そう自分につぶやいてみても畏れが昂月を引き止めた。
 高弥の存在を傍に欲しくて、暗がりのなかをもたつくことなく寝室に入った。不在の間もここへ入ってはベッドに潜った。
 少しだけ……。
 目を閉じると、空港ではじめて抱きしめられた腕の中にいる感覚が広がった。


「水納、おれの携帯知らないか?」
 打ち合わせを中断して外食したあと、戻ってきた高弥はデスクに向かっている唯子に声をかけた。
「携帯ならここにあるわよ。会議室に置きっ放しだったって佐藤さんが持ってきてくれたの」
「サンクス。ちょっと食べに出ただけだろ」
「ここはアルバイトも多いんだってこと忘れないでよ。FATE目当てにバイト申し込みしてくる子が多いんだから」
 唯子が云うと、高弥は無頓着に肩をすくめた。
「まだ仕事やってるのか? もう九時過ぎてる」
 昼間は十数人いる事務所も、いまデスクワークをやってるのは唯子ともう二人だけだ。
「これでもいろいろと任されてる仕事があるから」
「……おまえ、FATEのスケジュールが九月まで白紙だったことを知ってたのか?」
「企業秘密。云えないこともあるのよ。たとえ親友でもね」
 くすりと笑った唯子に対して高弥は不満気に顔をしかめた。
「まだ会議やるの? 昂月ちゃん、帰っちゃうかもよ」
「あいつは明日までだって待ってるよ」
「すごい自信」
 唯子は高弥をからかった。
「自信じゃない。昂月は人の期待を裏切らないんだ」
 ある意味それが、自己主張をできないまま昂月自身を抑え込んでしまっている。
「よく見てるのね」
 高弥は照れることもなく当然のような顔をして笑った。


 結局、打ち合わせを終えて高弥がマンションに帰ったのは十一時を回ってからだった。
 不愉快な議論もあったが、(おおむ)ねFATEの要求が通った。あくまで、とりあえず、だったが。
 ドアを開けると、思っていなかった暗闇が高弥を迎えた。眉をひそめ、ドア横にある灯りのスイッチを入れた。玄関には昂月のミュールがある。
「昂月?」
 呼びかけても返答はなく、リビングへ行っても真っ暗だった。エアコンの低周波音だけが部屋に響いている。
 荷物を置くと、部屋の灯りをつけて昂月を探した。キッチン横の部屋にいるはずもなく、そして高弥はふと思い至る。廊下に出て奥の部屋へ行き、入り口のスイッチを押した。
 ダブルベッドの隅のほうで丸くなって眠っている昂月が視界に入ると、高弥は安堵のため息を吐く。
 高弥はベッドに近づいて、横を向いた昂月の顔に手を伸ばした。が、途中でその手を止めた。長く会うことのなかったぶん、抑制がきかないかもしれないと思った。
 しばらく昂月の寝顔を見つめた。
 昂月が“ここ”にいることの理由。それがどれだけ深い想いであっても。
 昂月は常に人が自分に期待していることに応えようとする。それに伴って、昂月は自己主張をするどころか逆らうことも一切しない。
 そう知っているのに、はじめてこの“おれ”に向けた自己主張をおれは蹴った。そうしたいま、事務所が引き離すというのなら、それさえも昂月は黙って受け入れるだろう。
 ならばこの状況下で、おれができること。
 昂月は待ち続けたまま二度と会うことができなくなった苦しみを知っている。画策を承知し、そのうえで待っていることを強いたのに、それでもおれから逃げることなく昂月はただ待っていた。
 それに応え、今度はおれが覚悟するばんだ。


 目が覚めかけたとき、コーヒーの香りがしたとたんに昂月は一気に現実に戻った。慌てて起きあがると、ちょうど高弥がベッドサイドのテーブルにコーヒーカップを二つ置いたところだった。
 高弥の瞳と、驚いて見上げた昂月の瞳が重なる。自分がどこにいるかを意識すると同時に、昂月は急いでベッドから降りた。
「……えっと……あの……遅くなるって……眠たくなって、それで……」
「寝込みを襲おうと思ってたのに残念」
 昂月が言葉に詰まると、高弥は明らかにふざけて云った。
「……そんなことする気ないくせに」
 昂月の声にはわずかに痛みが聴き取れた。
「誤解するなって云っただろ。あれは……おれのバカげたプライド、イコール自信ないことの裏返し。おれは材料を探してるんだ」
「材料って?」
「これだけは負けないっていう何か」
「……だれと勝負してるの?」
「材料を探し当てたら教える」
「謎かけは嫌い。良くんみたいだよ」
 高弥はハハッと声を出して笑った。そしてベッドを指差す。
「座ってコーヒー飲んだら?」
「向こうに――」
「いいよ、ここで。これ、お土産」
 サイドテーブルにあった小箱を昂月に渡すと、高弥はベッドに寝そべった。
「ありがとう。開けていい?」
「ああ。思ってた以上に打ち合わせの時間がかかって……遅くなって悪かった」
 高弥が謝ると、昂月は云い忘れていた言葉に気がついた。
「おかえりなさい、高弥」
「ただいま。久しぶりだな」
 昂月の笑みに応えて、あらためて応じた高弥の端整な顔にも笑みが広がる。
「疲れてない? 帰ってもいい――」
「昂月の顔を見てるほうが疲れがとれるって云ったら?」
 ずるい云い方だ。
 小箱を開けてみると金のブレスレットとネックレスが入っていた。細い鎖に一定の間隔でサイコロ型の小さい飾りが施されている可愛いアクセサリーだ。
 ショーケースを覗き込んで睨めっこをしている高弥の姿を想像した。
「なんだよ」
 微笑んだ昂月に目敏(めざと)く気づいた高弥が問い詰めた。
「選ぶのに大変だっただろうなって思って」
「煩い」
「予定より早かったんだね」
「予定より延長してるよ」
「……あ……そうだね。ただなんとなく、もう少し延びると思ってたから」
「……おれに話しておきたいことない?」
「ううん。何も変わったことなかったよ」
 昂月は即答した。
 肝心なところで昂月は期待を裏切る。それは昂月のほうがより大きく期待を持っているせいだということにほかならない。その一方で期待は切り捨てられている。
「おれにはある」
「何?」
 思いがけず真剣な云い方だったが、高弥を見下ろすとフッと笑みが返ってきた。
「しばらく……九月まで休みが取れた」
「ほんとに?」
 昂月が疑い深く見ると高弥はうなずいた。
「会えなかったぶん、埋め合わせしたい」
「うん」
 昂月は素直にうれしそうな表情を宿した。それは目のまえに期限があることを知ったからこその素直さだった。
 しばらくイギリスでの出来事を聞いたあと、昂月が話すほどのことでもない日常を語っているうちに、高弥は規則的な呼吸を繰り返して眠った。

 そっとタオルケットをかけると、ためらいつつ高弥を見下ろした。
 昂月は髪が落ちるのを防ぐために耳もとを両手で押さえて身をかがめていく。
 そのくちびるに触れようかとする刹那、この瞬間と似たキスの記憶が昂月を(とど)めた。

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