ONLY ONE〜できること〜 #11

第2章 PLACE  2.deja vu(デジャ・ヴ) -既視感- act1

   

 八月も半ばを過ぎて蒸し暑い日が続いている。アスファルトが反射する熱は夕刻の六時になっても地上にこもったままで、陽が落ちても不快さは変わらない。
 そのせいで慧と待ち合わせしたカフェのオープンエアにはだれも寄りつかず、人はクーラーのきいた店内に集中している。
 ウィンナーコーヒーをゆっくり飲みながら慧を待っていると、歩道に面した大きなガラス窓の向こうを、家庭教師のバイトを終えた彼女が足早に横切った。
 店内を見渡す慧に昂月が手を振って場所を知らせると、遅れたことを謝るように彼女は顔の前で手を合わせた。
「ごめん!」
「大丈夫。三十分なんて待ったうちに入らないくらい待ち慣れてるから」
「んー、ホントにごめん。ついやりすぎちゃうのよね」
「慧はいい先生になれるよ。あたしも何か探さないと。なんだかやることがなくてますます気力が落ちそう」
「……高弥さんたちはまだ帰ってこないの?」
「うん」
 十日の帰国予定がすでに一週間は延びて、その後も日程がはっきりしていない。高弥の誕生日は四日後だ。
「昂月、大丈夫?」
「……それ、口癖になってるよ」
 昂月は笑って云った。
 ほぼ一年前から慧はいつも昂月にそう問う。
 慧は顔をしかめる。
「……ごめん」
「いいよ、ありがと。ホントいうと最近、ちょっときついというか……何をするにも(だる)い感じ。もう夏バテかな」
 昂月は首をかしげた。
「昂月……」
 不意に昂月の携帯音が鳴り、慧は云いかけた言葉を切った。
 昂月がバッグから取りだした携帯は、呼びだし音が教えるとおり、高弥からの電話だと示している。この時間帯にはめずらしい。いまイギリスは朝の十時くらいになる。
 良いニュースなのか悪いニュースなのか、答えは見当がついた。
 慧に断って通話ボタンを押した。

『昂月、いま話せる?』
 高弥の声は日本にいるときと変わらず近くに聞こえる。
「うん、慧と一緒だけど大丈夫」
『悪い、また帰国延びた。今月末になるかもしれない』
「……うん、わかった。トラブル?」
『トラブルというよりは現地スタッフが熱心すぎて、細かいところまで音の確認してるところなんだ』
「叶多をなぐさめるの大変なんだよ?」
 昂月はクスクスと笑いながら云うと電話の向こうで高弥も笑っている。
『昂月――』
「大丈夫。わかってるから」
 云いかけた高弥をさえぎって安心させるように云った。
『それ……最近、昂月にそのセリフばっかり云わせてる気がする』
「あ……うん……慧がね、あたしにいつも大丈夫? って訊くから、あたしも大丈夫って答えるのが癖になってるのかもしれない」
『……何かあったのか?』
 少し黙り込んだあと、高弥が探るように訊ねた。
「ううん、何もない。慧の口癖。それより、あたしのことは気にしないで。延期は覚悟してた。それに高弥が謝ることじゃないから。ファンが増えるくらいいいアルバムを期待してるから、また延びることになっても謝らないでいいよ」
『……もうこれ以上は延びる理由がない』
「……そう?」
『……昂月?』
「じゃ、外だから」
『……ああ。また電話する』

 電話を切るなり、昂月はそっと息を吐いた。
「延期?」
 ここでもまた心配そうに訊ねる慧に昂月は笑んで見せた。
「……うん。わかってたから大丈夫」
「わかってた……って?」
 昂月の口調が何かを含んでいることに気づいて、慧は怪訝(けげん)そうに眉をひそめた。
「……高弥には内緒にしてくれる?」
「何よ?」
「……斉木事務所はあたしのことをよく思ってないの、祐真兄のことに関しても高弥とのことも……帰国が延期になってるのはたぶん……あたしのせい。叶多に知られたら殴られそうだけど」
 昂月は肩をすくめて笑っている。
「事務所が彼女の存在を嫌がるのはわかるけど、それは叶多にしても同じことでしょ。昂月のせいって、どこからそういう理由が出てくるのよ?」
「聞いたの、FATEには知らせないまま、最初から事務所は延期させるつもりだって。冷却期間を置くためなのかどうか……叶多の場合は今更そうする必要もないでしょ?」
「だれから?」
 昂月は首を横に振って答えなかった。
「当然だよね。祐真兄のときもすごくあたしは嫌われてたから。祐真兄はなるべくあたしといる時間をつくろうとしてた。高弥もそう……なんだかあたし、同じことを繰り返してるような気がする」
 淡々とそういう昂月は慧に一年前の彼女を思いださせる。平然として見せるけれど、なんとかしないと些細(ささい)なきっかけで()ちてしまいそうな危うさがある。
 とりあえず、昂月は高弥に云うなと云っただけだ。
 慧はそう自分に納得させた。


「高弥、水納から伝言が入っている。良哉が至急電話してほしいそうだ」
 現地で間借りしている音楽スタジオに近い事務所で、マネージャーの木村が会社からの電話を切るなり、そう告げた。
 部屋中央の長テーブルには、イギリス各地で撮影したアルバムジャケット用写真が並べられていて、事務所と現地スタッフを含め最終選考をしていたところだった。
 高弥はうなずいて席を立つと、窓際に寄って携帯を開いた。
 窓から見える風景はやはり日本とは違っていて、ロンドンの夏は過ごしやすく、時間の流れが遅いのかと勘違いしそうなくらいに日中が長い。事務所は都心からそう離れていないが、道路を挟んだ向こう側の歩道沿いには緑の木々が並び、のどかな感じさえした。
 滞在も一カ月半を越えると東京の喧騒を忘れそうだ。あと一週間で八月も終わる。
『そっち、どれくらい進んでるんだ?!』
 高弥からの電話に出たとたん、()みつくように良哉が訊ねた。
「音録りは終わってる。チェック中だ。いきなりなんだよ。喧嘩を売ってるのか?」
『おまえ……無駄にそっち長いと思わないか?』
「予定よりは長引いてるけど――」
『事務所は最初からそのつもりだったらしい。水納に確認取ったら九月までこっちのスケジュールは白紙だそうだ』
 良哉がさえぎって云うと、高弥の動きが一瞬止まった。
「……何を云ってる?」
『おれは慧からそう聞いた。そのさきはわかるよな?』
「……昂月は……?」
『自分の目で確認しろ。早く帰ってきたほうがいい。そっちにいる理由は一つもない。おまえらがそっちで楽しんでるって云うんなら意味の一つにもなるだろうけどな』
 最後は明らかに喧嘩腰だった。
「……良哉、サンクス」
 電話を切ると出窓の枠に腰を預け、高弥は髪をかきあげた。
「高弥、昂月がどうかしたのか?」
 航の問いに高弥は黙ったまま一度首を横に振ると、しばらく考え廻った。
 空港に来ないと云い張ったこと。それまであまり頓着しなかった周囲の視線を気にしはじめたこと。わかっているという口癖。
 思い当たることを繋ぎ合わせると良哉が云ったことに合点がいった。事務所は昂月を排除するために画策しはじめた。

「木村さん、帰国手続きをしてもらえませんか。もうこっちでやるべきことはないはずです」
 木村を見据(みす)えたとうとつな高弥の言葉に、戒斗たちも手を止めた。
「仕事を(おろそ)かにしてもらっては困る」
「疎かにはしてませんよ。真剣にやってます」
 木村はテーブルを離れて机に向かうと引き出しから数枚の紙を取りだし、窓際にいる高弥の足もとに投げだした。
 すべての視線が集中する。空港でのワンシーンがそこに散らばっていた。
「ひどい、投げなくても……」
 航の横でほかに聞こえないくらい小さく実那都がつぶやくと、席を立ってプリントアウトされた写真を拾いあげた。
「やましいことは何もない」
 高弥は顔を上げ、木村を冷たく見返した。
「まだデビューして二年のおまえたちが、女を連れてチャラチャラしてる場合じゃないだろ。航のときのファンの反応見ただろ?」
 実那都が息を呑む。
「何が云いたい?!」
 航がいきり立った。
「航」
 戒斗が一言で制した。
 木村は再び高弥に向けた。
「一年後にはおまえか? ファンは許さないぞ」
「木村さん、一時的にファンが減ったとしても、すでにいまは去年以上に多くなっているはずですよ」
 戒斗が口を挟んだ。
「おまえのこともそうだ、戒斗。認めたわけじゃない」
「認めてもらう必要はありませんから」
 矛先を向けられた戒斗は動じずに淡々と云い返した。
「とにかくいまは高弥の話だ。相手がユーマの妹であるだけに狙ってる奴が多い。これまで報道をずいぶんと揉み消してきたがもう限界に近い。ヴォーカルといういちばん表に立つおまえにこういうことをやってもらっては困る。早すぎるんだ」
「早すぎるとかFATEには関係ねぇよ。おれらの音についてくるファンだけでいい」
「理想論でやっていけるほど、この業界は甘くない」
「それでも音がよければ世間は放っておきませんよ。いつでも僕らはベストを目指しています」
 航に重ねて健朗も援護した。

「自分たちの力だけでここまで来たとは思うなよ。切ることは簡単なんだ。高弥、あの()高々(たかだか)従妹(いもうと)というだけの立場でユーマを潰したんだぞ? 次の犠牲者はおまえか?」

 聞いたとたん、高弥は躰を起こした。
「そんな……!」
 実那都が小さく叫ぶと同時に航と、いつもは穏やかな健朗が眉間にしわを寄せ、勢いよく立ちあがった。椅子が大きな音を立てて倒れる。
 高弥は白くなるほど両手を握りしめた。
「高弥、やめとけ」
 一歩踏みだした高弥を座ったままの戒斗が制した。
「まぁ、おまえの替わりは探せばいいことだが? なり手はいくらでもいる」
 木村はあっさりと云い放った。
「FATEの音は高弥の声しか合わねぇんだよ」
「航、それはおれらがわかってればいいことだ」
 戒斗は(さと)すように云うと、今度は木村を冷めた目で見据えた。

「木村さん、事務所に認めてもらう必要がないのは云ったとおりだ。けど、おれらが大事にしているものをぞんざいに扱われるのはまったく別の話だ。おれらは生半可な気持ちでチャラチャラしてるわけじゃない。手荒な真似(まね)をしてしまうまえに、いますぐスタッフ連れて席、外してもらえませんか」

 遠巻きに見ていたスタッフを(あご)で指し、戒斗は組んでいた足を(ほど)くとゆっくりと立ちあがった。
 その年令にはそぐわないほどの威圧感に押された木村は、それでも自尊心をなくすことなく、一時間だ、とつぶやきながらスタッフを引き連れて出ていった。

「くそっ!」
 吐き捨てて航は転がった椅子を()った。大きな音とともに椅子が当たった壁のクロスが破れた。
「航、悪かった。おれのせいで――」
「てめぇのせぇじゃねぇよ」
 謝りかけた高弥を航はさえぎった。
「高弥、良哉はなんだって?」
 高弥が説明すると戒斗はしばらく黙り込んだ。
「急に延期を決めたわりにこのまえの生中継の段取りがいいはずだ」
 戒斗は口を歪めて皮肉を吐いた。

「おまえらに云っておく。おれは斉木に(こだわ)ってるつもりはない。ここはでかいだけに妙な制限されて、やりたいことをやっているというよりはただやらされている感がある。おれはプロの世界でもゼロに近い状態から伸しあがっていくつもりだった。いくつか打診があったなかで、おまえらに一任されて斉木を選んだ理由は一つ。祐真とその音を守るためだ。おれはそれくらい祐真に()れてた。おれはいまのFATEも絶対に捨てない。FATEに欠かせないものもとことん守ってやる。そのなかには昂月ちゃんも入ってる。高弥、すぐ日本へ帰るぞ」

「戒斗、おまえが手を回す必要はない――」
「高弥、おまえのためだけじゃない。おれのためでもある。おれが叶多の泣きに弱いってことは知ってるだろ。いいかげん、電話越しになぐさめるのは面倒くさいし、一人寝も飽きたんだ」
 ははっ。
 高弥が笑うと同時に殺気立っていた部屋の空気が一気に和んだ。

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