ONLY ONE〜できること〜 #10

第2章 PLACE  1.重篤の季節 act3

   

 パーティの日から十日もすると梅雨が明け、眩しい太陽の光とともに群青(あお)が昂月の目のまえに溢れた。
 明日、FATEは日本を発つ。
 高弥が云ったとおり渡英の準備に追われて、昂月が訪ねても不在であることのほうが多かった。
 今日も出発が明日とあって、約束の五時を二時間過ぎても帰ってくる気配がない。定期的に謝罪のメールが届くたびに昂月はため息を吐いた。
 窓際に置かれたソファの背もたれを横に抱くようにして寄りかかると、昂月は暗くなってしまった風景を見るともなくただ目をやった。
 待ち遠しいというよりはさみしい、さみしいというよりは不安、不安というよりは迷い。決心が鈍っていく。
 昂月は後ろを向いて長いソファの隅に置いた小さなボストンバッグを見つめた。
 バッグの中身は一つだけ。その中身の行方はわかっている。たぶん。
 その行方から逃げるようにバッグから目を背けたとたん、テーブルに置いた携帯が震えだした。
「高弥?」
『いまから帰るよ。三十分くらいで着く』
「うん」
 携帯を切ると同時に、昂月の脈が跳ねだす。手の震えを止めようと持ったままの携帯を握り締めた。
 高弥はどんな顔をするのだろう。
 行き着く先は何をやっても変わらないことを知っている。それでも迷いはなくならず、けれど自分と高弥を取り巻く環境がはっきりしたときから、昂月はいつまでも曖昧なままの自身を持て余しはじめた。
 少し震える息を大きく吐いて立ちあがると、キッチンに入ってクッキングヒーターのスイッチを入れた。温まってきたビーフシチューの甘酸っぱいような香りが漂ってきて、少しだけ昂月をリラックスさせた。冷蔵庫からミニトマトと()でていたアスパラを載せたお皿を取りだして、マヨネーズを細く出してトッピングしていく。
 キッチンカウンターに付けられたダイニングテーブルに作ったものを並べているとき、玄関ドアの開いた音が聞こえた。
 ドクン、と大きく心臓が飛び跳ねる。

「悪かった」
 リビングに入ってくるなり、高弥は謝った。
「……わかってるから……大丈夫」
 ちゃんと普通に声を出せたことに昂月はほっとした。
 高弥はテーブルに目をやる。
「どっか食べに行こうかって思ってたけど必要なさそうだ」
「うん。明日からはイギリスだし、日本料理のほうがいいかなと思ったけど煮物って苦手。その日によって美味しかったり美味しくなかったりするから。そのかわりに炊き込みご飯のおにぎり。アンバランスだけどいい?」
 昂月の云い訳を聞いて高弥はクッと笑った。
「いいよ。向こう一カ月は外食だし、手作りってだけでも貴重だ」
 他愛ない話をしながらゆっくり食事を進めた。ふたりで手分けして片づけを終わった頃には九時を()うに越えていた。
 コーヒーを()れてリビングのソファに座った高弥へ持って行き、昂月はその正面の床に座った。クーラーがきいている部屋ではホットコーヒーがちょうどいい。
 しばらくテレビのコケティッシュな、それでいてちょっと切ない日本映画に見入った。
 そのうち高弥は時折、表情が止まる昂月に気づいた。

「…………どうした?」
「……え……?」
 不意に訊ねた高弥を見上げるとかすかに顔をしかめている。
「……何か云いたいことがあるんだろ?」
 昂月は一瞬途方にくれて目を伏せた。
「……あの……明日出発だし……来月の二十一日は……高弥の誕生日だよね……?」
 昂月がおずおずと切りだした二つのことは一見なんの(つな)がりもない。昂月は顔を上げてソファに置いたバッグに目をやった。
「……プレゼント……何も思いつかなくて……それで……今日……泊まっていっていい?」
 時間が止まった気がした。“賭け”という文字が浮きでてきそうなバッグから目を引き離して高弥に視線を戻した。昂月が云おうとしたことを高弥がわからないはずはない。
「……昂月……?」
 昂月の視線を引き返してバッグに目をやった。その意味を知り、昂月に戻った高弥の瞳が困惑に揺れた。
 昂月には迷惑と映った。歓迎の一欠片(ひとかけら)も見えない。バッグの中身の行方はやっぱり決まっている。
「……ごめん――」
「そうじゃない」
 高弥は謝りかけた昂月をさえぎった。
「いいの……バカなこと云ってるのはわかってる」
「バカなことじゃない。ただ、おれは間違えたくないだけだ」
「……間違える?」
「急ぎたくないってことだ。それに誕生日にはこっちに帰ってきてるよ」
 そんなに冷静にならなくちゃいけないことなの? 高弥にとって()冷静になれるようなことなの?
「……でも延びるかもしれないよね……?」
「下準備はちゃんとやってるから、延びても一週間くらいだ」
「……うん」
 賭けに勝ったのは昂月。負けたのは――。
 意味もなく笑えるようになった昂月は、ここでもなんでもなかったかのように高弥に笑って見せた。
「明日、早いから休んだほうがいいね。もう帰らなくちゃ。誕生日に何が欲しいか考えててくれる?」
「昂月……」
 高弥はふたりの間で何かが逸れたことに気づいた。いつか越えなければならない壁があることはわかっている。時間がないことに高弥は苛立(いらだ)つ。すべては帰ってからだ。
「わかった。送っていくよ」
「ううん。タクシーでいい。明日出発なのに帰りに何かあったら嫌だから」
 コーヒーを片づけている間にインターホンからタクシーの到着を知らされた。ダイニングの椅子からトートバッグを取って肩にかけると高弥に向き直った。
「じゃあ、明日は気をつけてね」
「……本当に明日は来ない?」
「うん。行っても一緒にいられないから」
「控え室にくればいいだろ?」
「ありがとう。でも……」
 昂月は首を振った。
 そしてバッグのポケットから鍵を取りだして高弥に差しだした。
「これも返しておかなくちゃ」
「持ってて」
「でも……」
「帰ってくるときはここで待っていて。顔を見たいから。いないときに入ってもかまわないよ。おれを少しでも近くに感じたいなら?」
 高弥はからかうように昂月を見ている。
「……うん」
 昂月はいつものようにはぐらかさなかった。
 高弥はその素直さの裏に隠れているものを探った。が、見とおすことはできなかった。
 マンションの玄関まで一緒に下りると、昂月は高弥を見上げた。
「じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ。明日、発つまえに電話入れるよ」
 昂月はうなずいて外へ出ていった。開いたタクシーのドアの前で昂月はふとためらうように動きを止めた。昂月が振り返ると高弥はまだそこにいる。
 あたしはそういう優しさなんかいらない。あたしが欲しいのは――。
 昂月は笑って手を振るとタクシーに乗り込んだ。

 部屋へ戻ると、高弥は昂月が置き忘れたボストンバッグに気づいた。
 高弥は髪をかきあげ、顔をしかめた。
 衝動を(おさ)えたのは(つちか)ってきた想いと、バカげたプライド。
 昂月が来たときにわかるように、いつも荷物を置くダイニングの椅子に置き換えようとボストンバッグを持ったとたん、高弥の動きが止まる。
「なんで……」
 昂月が高弥の答えをすでに承知していたことを知った。


 空港は大勢の人が行き交い、アナウンスの声と相伴(あいともな)って終始ざわついている。出発する人や到着した人の高揚(こうよう)した独特の空気感があった。喧騒(けんそう)を避けたVIPルームでさえ、そわそわした空気が漂っている。
「戒斗、ちょっと出てきていいか?」
 搭乗手続きを三十分後に控え、高弥は携帯とサングラスを持って訊ねた。
「ああ」
 いざ出発となってまた拗ねだした叶多をなだめつつ、戒斗は先刻承知のようにうなずいた。
 叶多の素直さが昂月にもあったら、と高弥は思う。
 部屋を出るなり、携帯のボタンを押した。二回のコールで通じた。
『高弥?』
「昂月、どこにいる?」
『え?』
 高弥は歩きながら焦げ茶色のサングラスをかけ、人込みに紛れた。
「チェックインカウンターに向かってる……来てるだろ?」
『……』
 否定しないまま昂月はしばらく黙り込んだ。
 その間も高弥は歩き続け、そして電話の向こうの音を聞き取った。
「昂月、携帯から同じアナウンスが聞こえてる」
 高弥は待ち合わせのスペースまで来て辺りを見渡した。
「昂月、答えて」
『いま……目の前にいるよ……』
 高弥の視線が止まる。ふたりの間を通り行く人々の向こうに昂月が立ち尽くしている。
「こっち来て」
『目立ってるよ』
「だから早く」
 高弥は携帯を下ろした。
 それが合図になったかのように昂月の躰が動く。

 気づいたの。
 高弥の自分のテリトリーを守り抜く意思の強さと、あたしに向けてくれる真摯(しんし)な姿勢はあたしのためらいを徐々に消し去ってきた。高弥が許すままにあたしはどこまでも甘えた。
 でも……いつのまにか、高弥は祐真兄じゃなくなっていた。

「……どうして……わかったの?」
「願望」
 そう云って高弥はクッと笑った。
 高弥はあたしが必要とする言葉を()し気もなく曝す。
 けれど高弥が時折見せる瞳の深さが、あたしをだんだんと(おそ)れという箱の中に閉じ込めていく。
 高弥はサングラスを取ると、なんの前触れもなくいきなり昂月を腕に抱いた。
「?! 高弥……!」
「昨日……バッグを置き忘れてた」
 昂月が高弥の腕の中でビクッと慌てたように震えた。
「……あ……あとで取りに行く」
「なんで……空っぽだった?」
「…………夕食の材料を入れてきただけ」
 そう答えると高弥の腕が締まった。
「誤解してほしくない」
「……なんの話?」
「ごまかすな。勝手に結論を出してほしくない」
 高弥は腕を解いて昂月を見下ろした。
「……高弥……サングラスしないと……」
「いつもはするなって云うだろ?」
「でもいまは……」
「電話するよ」
「……うん」
「ちゃんと待ってると約束して」
「……うん」
 あの約束の言葉といま見上げている瞳の深さはあたしを惑わす。
 昂月は数歩離れた。
「いってらっしゃい」
 高弥が見えなくなるまでその姿を追った。消える寸前に立ち止まって高弥は振り向く。昂月は肩まで上げた手を振って笑う。高弥も応じて軽く手を上げると奥へと消えた。

 高弥……あのバッグの中身は……HOPE(ホープ)――それだけ。
 勝ったのはあたし。負けたのは……あたしの(ねが)い。

 『妹』と口走ったことと昨日云ったことが矛盾しているのはわかっている。けれどそれを、すべてを無視してでもあたしはただ抱いてほしかった。
 そうしたらそこに高弥の気持ちがあるとわかるから。あたしの立場がわかるから。
 誕生日はただの云い訳。
 あたしが欲しかったのはあたしを抱いてくれる高弥の(しん)の腕。祐真兄がくれることのなかった真の腕。

 外に出たとたん、熱い空気が群青(あお)い空とともに纏わりつく。
 季節(とき)は廻り、またあの(あつ)い季節と昂月は対面した。

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