ONLY ONE〜できること〜 #7

第1章 ノイズレス-無音-  4.ESCAPE-逃避-

   

 いつもの年より暖かい十一月も半ばを過ぎると、夕刻を控えた空気は冷たく躰に纏いつく。帰り道、家までもう少しという角を曲がったとたん通り道に沿った風に吹かれた。
「さむ……!」
 並んで歩いている慧が長めのニットカーディガンを胸の前でかき合わせた。
「コート必要だよね。明日の帰り、買い物しない?」
 顔に纏わりつく髪を払って昂月も身をすくめる。
「あたしは昂月みたいに財産持ちじゃないし、ウィンドウショッピングで終わるかも」
 厭味(いやみ)ではなく、それどころかおもしろがるように慧は昂月を見遣(みや)った。
「あれはあたしのじゃない」
「祐真兄ちゃんがあんたにって思ったんだから素直に受けなさいよ」
 昂月は大きくため息を吐いた。
 四十九日の法要を終えた日、高弥の父親であり祐真の顧問弁護士である伊東が遺言書を明らかにした。
 伊東を管理人とすることを条件に、そこには唯一の相続人として昂月の名前があった。
 両親、そして当事者の昂月もその存在自体に驚いた。
 たしかな死が目のまえにあったはずはないのに。それを望んでいる祐真ではあったけれど、だれかを傷つけてまでそれを選ぶ人ではなかった。
 伊東からその作成時期を知らされると、昂月にはその理由がわかった気がした。おそらくは祐真の精一杯の反抗だった。
 戸惑ってはいたものの、芳樹も美佳もともに異論を唱えることはなく、あっさりとすべてが昂月のものになった。
「あたしには重たすぎるよ」
「ゆっくりやっていけばいいよ。何かあったら高弥さんに相談できるでしょ。高弥さんのこと、よくは知らないけど昂月のためにはよかったって思ってる。うまくいってるようだし」
 祐真に関しても高弥に関しても踏み込んだ事情を知らない慧はほっとしたように笑んだ。
「……そう……ね……」
「昂月……簡単に切り替えできないのはわかってる。でも、あんたはもう少しラクになっていい」
「充分、ラクしてる。迷ってるだけなの」
 何も解決しないまま自身が自身を迷宮に閉じ込めている。わかっているのに抜けだせない。自分が立っている位置さえも見ることができない。

 慧と別れ、家が見えると車庫が空っぽであることに気づいた。
 昂月の帰宅時間に高弥が待っていることは二週間あまりで、二人にとっての(しか)るべき約束となっていた。
 都合がつかないときはメールが入るのに今日はそのメールもない。
 昂月が玄関に鍵を差し込んだちょうどその時、門の前で車が止まった。車のドアが開く音がしたと同時に振り返ると高弥が出てきた。
「おかえり」
 どうしてこの人は……。
「……ただいま」
 苦しい。
 高弥が来たことに安堵(あんど)している自分に気づいた。必要な言葉を吐く高弥をいつのまにか当てにしている自分がいた。
「悪い。いま急な仕事入った」
 近づいてくると手にした携帯電話をちょっと(かざ)して、出し抜けに高弥は謝った。
「……はい……」
 高弥は数段上にいる昂月をじっと見上げる。
「一緒に……来る?」
 何かを悟ったのか、高弥は探るように瞳を向けて誘った。
「……邪魔になるから……」
「今日の仕事は家ですむんだ……邪魔はしないだろ?」
 瞳が純粋な笑みを浮かべたのと同じように高弥の声にも笑みが潜んでいた。断るのがもったいないような気になって昂月は誘惑に乗ってうなずいた。

 高弥の住処(すみか)はクリーム色の少し波打ったような壁がお洒落なマンションだった。セキュリティーをクリアして乗り込んだエレベーターのボタンは十五階まであり、高弥は十一を押した。
 高弥といわず男の人の住まいに一人で行くのははじめてで、昂月は少し落ち着かない。クリーム色の壁によく映える赤っぽい茶色のドアを開け、高弥はドアを支えて昂月を促す。玄関から細長い廊下があってその両脇と正面にいくつかドアがある。高弥の後について奥に進み、右側の部屋に入った。LDKの部屋でかなり広く、ベランダに面していて室内が明るい。
「座れば?」
 高弥は窓際のソファを指差した。
 一人暮らしにしては広すぎる部屋を見回す。想像していた男の人の部屋よりは散らかっていなくて、少し殺風景な印象を受ける。
「緊張しなくていい」
 高弥はキッチンから持ってきた缶コーヒーを昂月の前のテーブルに置いた。
「こういうの……はじめてだから……ほかの部屋、見てきていい?」
 高弥はうなずくと、
「猫みたいだな」
とかすかに笑った。
 その間に高弥はリビングの壁に立てかけていたギターを手にして床に座ると、楽譜と鉛筆をテーブルに広げた。
 昂月は対面式のキッチンに向かう。壁と同じくクリーム色が基調で明るく上品なシステムキッチンだ。キッチン横のドアを開けると八帖くらいの部屋で、いまは物置みたいに雑誌やいろんなものがある。こんなにいくつも持ってどうするんだろうと思うくらいギターが十本ほど並んでいる。
 LDKを出て廊下を挟んだ反対側は玄関に近いところに一つ部屋があり、そこは空っぽで、次にお手洗い、バスルーム兼洗面所とあった。奥の部屋は必然的に寝室だと思ったので開けなかった。
 リビングに戻るとギターの音が流れだす。
「なんの仕事?」
「CMのテーマソング」
「みんなと一緒にやらなくていいの?」
「まずは単独でコンセプトに沿って、もしくはコンセプト自体から考えて曲作りをやる。それから持ち寄って決める。それがFATEのやり方だ」
「作詞作曲をみんながやるんだよね。すごいっていつも思ってた」
「個人差はあってもできる奴を選んだって戒斗は自信を持ってる」
「だからFATEの曲って()きることがないんだね。いつも新鮮」
「そう思ってくれるなら戒斗も本望だろうな」
「ファンはそう思ってる。きっと」
 高弥は少し驚いてからふっと安堵したように笑んだ。
 姿勢を崩さない高弥のことをずっと自信に溢れた人だと思っていたが、だれもがそうであるように不安も抱えている。
 あまり動くことのない表情だったが、それでも(つぶさ)に追っていると感性が祐真と似ていることに気づいた。ちょっとした言葉の端々に考えていること、価値を置くことの共通点を知った。
 違っているのは強さ。たぶん。
 祐真は信じることを――自分のことさえも――苦手として、希望を持つどころか捨てる人だった。
 高弥は自信はなくても、(ひる)むことをしない人だ。語らない強さの裏には繊細な意思を持っている。
 高弥が仕事をしている間、昂月は持参したテキストを出してレポートを書いた。
 何回も繰り返されるギターの音色が、ほんの半年前の生活習慣を昂月に甦らせた。
 それが完成に近づいたとき――。
「祐真兄、いまのメロディ、もう一回繰り返して……」
 昂月は顔を上げながら云ってそのまま凍りついた。
 そこに祐真はいない。いるわけがない。
 高弥が手を止めて彼女を見返す。
「……あ……あの……高弥さん……ごめんなさい…………」
「謝ることじゃない。祐真のかわりをしてやるって云っただろ。やっと認めてくれたらしいな」
 高弥は(くだ)けた調子で云った。
 はじめて会ったときは想像もしなかった、屈託(くったく)のない微笑()みがそこに在る。
 苦しい。
 無音だった昂月の中にノイズが息衝(いきづ)く。
 それが高弥の本心なのか、そうすることで彼が何を得るのか、昂月にはわからない。
「そうだな……おれがどうしてこんな申し出をしたのかなんてわかるわけないよな。けど、片意地を張らないで接してほしい」
 穏やかな言葉だった。
「……高弥さん……?」
 昂月は惑う。
「高弥、でいい」
 いま、この瞬間の高弥はとても身近に感じられる。無愛想な態度などどこかに消えてしまって、そのかわりに全部を素直に(さら)けだしてもいいと思うくらいに、ずっと見知っていたような歓迎が存在している。
「……高弥……の曲……きれいだね」
 クッ。
 高弥の表情がまた緩んで少年のような笑みが宿った。

 いつか壊れる。
 そうわかっていても、あたしはそう知っている自分を認めなかった。

BACKNEXTDOOR