ONLY ONE〜できること〜 #4

第1章 ノイズレス-無音-  2.パラライズ-麻痺- act2

   

 午後の三時を過ぎたばかりという中途半端な時間帯のせいか、人が少ない電車の改札口を余裕で通り抜ける。
「古文の中野、休講中に無理やり講義するから今頃失速してるの! まったく(あま)邪鬼(じゃく)もいいところ。こっちはいい迷惑よ。せっかくの長期休暇にバイトもできなくて」
「だから四十超えても独身じゃないの?」
 前を行く(けい)は大学の教授のへんな癖を並び立てながら(しゃべ)り続けていて、昂月は笑いながら口を挟んだ。
「それは云うにも及ばず! 家庭教師じゃあ子供相手だし、閉鎖的なのよね。バイトでもして視野を広げたかったのに」
 昂月に比べて格段に社交的な慧は不満そうに口を(とが)らせる。
「はいはい。合コンにでも参加したら? お誘いいっぱいあるじゃない」

「冗談でしょ。安売りはしない主義。それに祐真兄ちゃんや良哉兄ちゃんたちを見てきたから、なんだか普通じゃ満足できない感じ。顔がいいだけならまだしも、なんで中身も男前なのよ。それプラス音楽の才能ありってどういうこと? 天は二物も三物も与えてるし。まえは一緒にいるのが自慢だったのに、いまはそれが選択肢を狭くしてる」

 慧が眉間にしわを寄せて云うと昂月は笑った。
「まぁ、ね。気持ちはわかるかも」
 軽快に答えたのと対照的に祐真の名を出したとたん、昂月の瞳が翳ったのを慧は見逃さなかった。

「でもそれなりに抱えてるよ。良くんはいろいろあってプロのピアニストになる道を断っちゃったし、いまは祐真兄のことでFATEの活動まで休止してる。祐真兄は普通の寿命でいうなら三分の一も生きてない。(こう)くんは良くんと祐真兄のことをずっと心配して奔走(ほんそう)してきてるし、人には絶対に弱音を吐かない人だから、本当に気が休まるときがあるのかなって思う。実那都ちゃんがいるから大丈夫なんだろうけど……そういうところで二物、三物っていうのは帳消しにされてるのかな。いいかげんにやってくほうがずっとラクなのに」

 昂月はさらりとそう云って首をかしげた。
「昂月……大丈夫なの、ホントに?」
「……大丈夫よ。現実は現実。わかってる」
 微笑んで応じた昂月は、周囲が気づかないくらい何事もなかったように振る舞っている。
 生前、祐真の私生活は一切明かされなかったが、その死によって世間は家族の存在を知った。死因が外傷性のくも膜下出血であり、祐真がどこで倒れたのかを伏せられたために、事件性を疑われて家族の周囲は(にわ)かに騒がしくなった。
 結局は祐真の滞在先の証言から事件ではなく事故と処理したことを警察が発表し、ようやく沈静化したところだ。
 昂月も良心的なものから悪質なものまでいくつか取材攻勢を受けていたにも拘らず、(はた)から見れば大人の対応と勘違いさせるくらい落ち着いていた。写真まで掲載された週刊誌で目の部分が黒い帯で隠され、A子さんと称されているのを見ると、まるで罪人ね、と昂月は笑っていた。
 その間に大学でも(うわさ)が巡り、昂月は時の人となる。
 慧は斉木事務所が祐真の家族を守ろうとしないことに怒り狂った。
 けれど、当の昂月は戸惑いつつも(あきら)めたように微笑んでいた。
 それはかえって慧を心配させる。
「じゃ、慧、いまから家庭教師の準備するんでしょ? また明日ね!」
 駅の構内を出ると、昂月は軽く手を振って家へ帰っていった。
 昂月の背はその心を映しだしているようにぴんと張り詰めている。一つ目の角を曲がるまで慧は昂月の後ろ姿を見送ったが振り返ることはなかった。
 力になりきれない自分を歯痒(はがゆ)く思いながら、慧は昂月とは逆の方向へ向かった。


 永遠の離別から一カ月を越えたいま、昂月は以前と変わらない習慣を繰り返している。離別以前の不在が長かっただけに祐真が家にいないことは普通となっていて、どこかで生きている気がしないでもない。
 慧にはああ答えたものの、死という現実はいまだに薄い。認めたくなくて逃げているだけなのかもしれないが、向き合うべきものが大きすぎて昂月自身、どうすればいいのかわからなかった。
 美佳もしばらく受け入れることができずに寝込んでいることが多かったが、先週からようやく仕事に復帰して習慣化した毎日を取り戻した。
 こうやってずっと変わらない風景のなかにいることが、余計に現実を遠ざけているような気がする。

「やあ」
 家の前まで来ると不意に声をかけられた。自分に向けられたものであるかどうかも確信できないままに、昂月は声のしたほうへと顔を上げる。昂月の瞳が大きく見開いた。
「……こんにちは……」
「出かけるから何か必要なら準備してきて」
 玄関前の駐車スペースに見知った車が止まっていて、その脇で高弥が車にもたれて立っている。
 突然の来訪に唖然(あぜん)として立ち尽くす昂月に対し、高弥はまるでいつもそうしているかのように淡々として誘った。
「あ……あの、留守番してなきゃ……」
「意思を無視して悪いけど昂月ちゃんのお母さんには了解をもらってる。急いでるんだ」
 昂月の拒絶するには弱すぎる理由もさることながら、高弥の説得は『悪い』という言葉とは程遠い。それに重ねて高弥の態度はあまりに威圧的で、断りきれずに昂月は命じられるまま家に入って急いで身支度をした。
 親しいとはけっして云えない人と過ごすのは昂月にとって苦痛以外の何ものでもない。加えて高弥はFATEのなかではいちばん無口で――というよりは無愛想で、昂月はなんとなく苦手として、祐真が家に連れて来ても避けていた感さえあった。
 高弥がどういうつもりなのか、その意図はまったく見当がつかない。
 昂月は肩より少し長いストレートの髪を()くと、鏡で自分の姿をチェックしながらため息を()いた。

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