ONLY ONE〜できること〜 #2

第1章 ノイズレス-無音-  1.NOISELESS

   

 背の高い壁に囲まれた歴史を感じさせる寺院は、(あふ)れる人の波にも(かかわ)らず、ひっそりと(たたず)んで悲しみを見守っていた。 時間を重ねてきた太い木製の柱で構えられた門は、古いというよりは(おごそ)かな気品が漂う。
 壁沿いの歩道には互いに見知らぬ人々が言葉もなく待ち並び、穏やかに降り注ぐ雨の音が、(こら)えきれずに小さく漏れる慟哭(どうこく)をかき消した。
 九月が終わる日の雨は霧のように優しかったが、人々の(からだ)をだんだんと濡らしていく。それでも傘を差す人は(まば)らだった。
 出入りが止むことのない門を(くぐ)ると開放された寺院の奥には、遠くからでも目が届くようにとたくさんの花に囲まれ、大きく飾られた写真があった。その瞳と口もとにはかすかな笑みが宿っている。
 それは神瀬祐真(かんぜゆうま)がソングアーティスト“ユーマ”として見せた最高の笑顔だった。
 限られた人のみが立ち入りを許された領域では数少ない親族が立ち並び、途切れることのない参列者の一人一人に深く頭を下げて感謝を伝えている。
 そのなかで少し位置を下げた彼女が両親よりわずかに遅れて挨拶を繰り返す。
 ユーマの曲が静かに流されている会場で、彼女――神瀬昂月(あづき)だけは無音の空間を(まと)っていた。
 時折、頭を下げることを忘れて昂月は遺影を見つめる。
 その瞳が昂月に向けて笑んで見せたのはずいぶん過去(まえ)のことのような気がする。いま見返す瞳は昂月を通り越していて、もう輝くことも真に見つめられることも永久にない。
 三カ月前から徐々に大きさを増していった昂月の中の空洞は膨張(ぼうちょう)を止め、冷たく凍りついた。


 中学三年の冬、交通事故で一度に両親を亡くした祐真は、それを機に昂月の両親に引き取られた。
 東京と福岡という遠距離ではあったものの、昂月と祐真の両父は仲の良い兄弟であったために行き来は頻繁(ひんぱん)だった。従兄妹(いとこ)同士になる二人は互いをよく見知っていて、会うたびに祐真は面倒がらずに小さい昂月の相手をして仲もよかった。
 一緒に暮らすことになってもなんの抵抗も覚えず、きっかけは悲しいことであったが、とりわけ昂月は四つ年が離れた“お兄ちゃん”ができたことを喜び、何かと祐真に付き纏った。祐真はそんな幼い昂月を邪険にすることなく優しく接した。
 当時、母、美佳(みか)は昂月が小学校に入ってから会社に勤めだしたため、いわゆる鍵っ子だった。同級生にもそういう子はたくさんいた。それでも帰る家にだれもいないのはさみしい。
 そんなときに現れた祐真の存在は大きく、当然のように昂月は祐真を求め、祐真もそれに応えてくれた。
 昂月がすっかりお兄ちゃんっ子になった二年後、祐真は路上ライヴで歌っていたところをスカウトされた。祐真はいろんなことを深く考える人で、それを託したメッセージ性の高い歌は若い世代の支持を受け、ライヴのみで画面に露出することはなかったにも拘らず、(またた)く間にトップに位置した。
 そんななかで育っていった互いの想いが深くなっていくほど、あるはずのない事実に祐真は追い詰められた。
 耐えきれなくなった祐真は三カ月前、梅雨明けの()けるような空の群青(あお)さのなか昂月を残した。
『自由になりたい』
 祐真の瞳に宿った決心を認めると、昂月は引き止めることができなかった。微笑(わら)うことしかできず、祐真が何時(いつ)瞬間(とき)も求めていた自由を許すしかなかった。
 それは昂月からの精一杯の想い(あい)であって償いであった。
 背中を向けた祐真に伸ばした手が刹那(せつな)の愛を(いだ)く。そして見られているわけでもないのに、祐真が願い続けた微笑(えがお)でその背中を送りだした。

 それから、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて…………――――。

 最期(さいご)となった三カ月。
 その空白になった時間を、祐真が何をして、また何を考えて過ごしていたのかを知ることはできない。

『明日ここに来て。ちゃんと話したい』
 祐真の声を祐真の声として聴いたのはほんの四日前のことだ。三カ月ぶりに昂月に向けられた言葉は穏やかで温かかった。
 その翌日、祐真の答えが何一つ聞けないままに離別を啓示する電話が入った。
 携帯からユーマの曲が流れだす。祐真に違いなく、約束どおりに出かける時間を待っていたときだった。
祐真兄(ゆうまにい)?」
『もしもし……』
 それは見知らぬ女性の声だった。
『祐真が……』
 なんの心構えもないままにその女性の口から祐真の名が(つむ)ぎだされる。
『祐真が倒れました……すぐに来てください……』
 淡々と告げる、女性というには少し幼い声とその内容が一致せず、昂月はその意味が理解できない。
 電話の向こうで彼女が祐真に呼びかけている声が聞こえる。
『もしもし? 祐真と話して……もう……最後かもしれない……かわります』
『……昂月……?』
 はっきりしない祐真の声が耳に届く。
「祐真兄? どうして……?」
『……ごめん…………一つだけ……願いがある…………』
「何……?」
『……すべて……おれが悪いんだ…………昂月のせいじゃない…………この子のせいじゃない……』
「祐真兄?」
『……愛しているから……おれ…………昂月……を……忘れないで…………』
 途切れ途切れの力ないつぶやきのなか、なぜか祐真の声からは笑みが感じ取れた。
「……祐真兄……?」
『……お願い、早く来て。あたしは…死なせたくない。祐真に死んでほしくない……祐真もそんなこと望んでない……こんな気持ちのまま……祐真を助けて!』
 こんな状況でも冷静だった彼女の声が、はじめて感情を(あら)わにして悲痛に叫ぶ。
 その感情が昂月にも伝染してようやく事態を把握(はあく)した。
 そこが英国ホテルであることを確認すると、ホテル支配人の真貴(まき)かマネージャーの大井へ連絡するように彼女に伝え、昂月は急いでホテルに向かう。
 車で二十分ほどの距離がこの間は一時間にも思えた。
 そして開けっ放しにされた部屋に着いたときは、ベッドの上に横たわった祐真にホテルドクターと大井が応急処置を施していた。
 スイートルームの寝室の片隅で祐真に見入り、両手で口もとを覆って震えている少女がいる。
 部屋の電話が鳴り、素早く受話器を取った真貴が電話の相手に(あわ)ただしく指図した。
 そして昂月に気づいた。
「昂月お嬢さま、救急車が到着しました。私も付き添いますから……しっかりなさってください!」
 放心して立ち尽くす昂月を真貴が(しか)る。
 ビクッとして昂月は我に返ってベッドに近づいた。
 その眠ったような顔がもう二度と笑みを見せてくれないことを告げる。
「祐真兄……これが……答えなの……?」
 大井が祐真の上から退くと、昂月は祐真に顔を近づける。
「祐真兄、わたしも……愛してる。いままで云えなくてごめんなさい……」
 消え入るように伝え、そして途切れそうに息を(ささや)くくちびるにそっと自分のくちびるを合わせた。
 最初で最後となる祐真へのキスは温かく――。

 病院に到着後まもなく、祐真はその生を(まっと)うした。
 享年二十三才。死因、外傷性くも膜下出血。


 祐真の最期を看取った少女がだれであったのかわかることはなかった。
 外傷のはっきりした原因もわからず、ただ死の直前の数日間、祐真が頭痛を抱えていたことを少女は云い残し、救急隊員の到着で騒々しいなかに忽然(こつぜん)と姿を消した。

 それはたった三日前のことなのに、昂月の中ではすでに彼女が現実に存在したのかどうかさえ怪しくなってきている。
 昂月の空洞が埋まることはなくなった。

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