眠れないほど好き
大人の純情◆最後の恋 -3-
同じことをするわたしは浅はかで愚かしい。自分の気持ちさえ信じられなくて、自分がどうしたいかもわからなくて、やめられない。
ダイニングバーは満杯で、大声で話したり笑ったりするような客はいないけれど、こもった話し声や笑い声がささめいて、五月という季節感そのままに終始和んでいる。
その中で、わたしだけがそわそわしている。
譲がやって来るまで、もう間もない。
「匠、結婚式までもうすぐね。忙しい?」
「ああ。マンションの引っ越しあるから」
「優歌ちゃんておとなしそうだけど問題ないみたいね」
ちょうど四年まえ、匠の結婚相手であり、本部長の娘である優歌ちゃんは高校二年生で、業平に職場見学に来たことがある。そのとき、わたしも会っていたのだけれど、あまり印象に残らなくて、強いていえば、あからさまに臆した子だったことを覚えている。
匠に結婚を報告されるまで、まったく記憶から這いあがってくることもなかった。
そんな子が匠とうまくいくということが理解できない。うまくいっているとか、具体的に匠が口にすることはないけれど、なんとなくわかる。堅実さに余裕が加わった感じだ。それとも、中国から結果を携えて帰ってきたせいなのか。
「確かにおとなしいけど、ちょっと違うかもしれない」
その答えからしても匠が優歌ちゃんのことを見ていることがわかる。
いつから? ふとそう思ったけれど、そんなことは関係ない。じゃあ、何?
訳のわからない自問自答は、何も解決されないままわたしの中で迷走する。
「違う?」
そう問い返すと、匠は肩をすくめてすかした。
「匠、わたしも付き合って半年になる人がいるの」
匠は首をひねったあと、何を思ったのかうなずいた。
ひょっとして、ホッとした?
「よかったな」
匠の声は平坦すぎて、真意はやっぱりわからない。
「でも……」
怖い。そう云おうとしてやめた。匠に訊けばわかる気がしていたけれど、相手が匠だからこそ説明するには難しい。
そして、確かに怖くなった。
もうすぐ譲が来る。
壊そうとしている自分に気づいて、壊したくないという自分の本音に気づいた。
「でも、何?」
「匠、わたし、帰――」
「ここ、いいんだよな」
刺々しい声が割りこんだ。好きな声なのに、聞き慣れたイントネーションとは違う。
思い直したことは間に合わなかった。空気は息一つで弾けそうなほど張りつめる。自分だけ、違う場所に隔離されたように遠ざかった感触がした。
静止したような感覚はたぶん一瞬のことだ。匠から目を離せず、その匠は譲からわたしに視線を戻して、これまでになく険しい顔で首をひねり、それから席を立った。
同じことを繰り返した。
違うの! そう叫んだとしても匠には軽薄にしか聞こえない。
団欒に沸く店内で、わたしと譲の間だけ、奇妙なくらい静まり返っている。
合わせる顔がないというのはこういうこと。匠の呆れきった視線は受け止められても、わたしは譲を見られない。
知り合い? と、そう訊かれればどれだけだって云い訳できたのに、なぜ譲は黙っているの? なぜ怒ってるの?
譲が残ったからといって保証にはならなかった。
ただ不安が増す。くちびるが震えていないことを祈りながら、笑うしかなくて。
「美里、おまえと結婚したい」
こんな状況下、理解しがたい言葉で、しかも譲は勘定票を持って席を立った。
聞き間違い?
出ていくんだ。それだけは理解できた。
いつものこと。ちょっと順番が違っただけで。
そう思う内心と裏腹に、わたしは立ちあがった。
譲……。
だって、謝れなかったこと、違うと云えなかったことを後悔したくない。
譲とは――。
ダイニングバーを出ると、ずっとまえ見限られた日に立ち止まることのなかった匠とは違って、譲はまだ店の脇にいた。
「譲」
名前を呼んだと同時に、気配を感じ取っていたかのように譲が振り向く。
「あの人は高校のときの一つ上の先輩で、いまは同じ会社にいるの。それで相談とかよく乗ってもらってる。先輩は一年間、中国行ってて三月に帰ってきたばっかり」
云い訳に聞こえてもきっと云わないよりマシだ。云わないことのほうが苦しいことを知っている。
「それだけじゃないよな?」
譲は何を見抜いているんだろう。思いがけなくその先を促された。
どこまで打ち明けたらいい?
「ホント云うと、高校のときに付き合ったことがあって、でもふられちゃった」
迷ったすえ、大まかなことだけ云ってみた。笑っているわたしとは反対に、譲は表情を硬くした。
「だからなのか?」
「なんのこと?」
「近づこうとすると避けるから。手も握れないし……キスもできない」
譲が気づいていないとは少しも思わなかったものの、こんなふうにはっきり云われても、説明するにはためらうばかりでうまく伝えられる自信がない。きれいじゃない自分を知ったら譲は何を思うだろう。
「ちょっと……怖いかもしれない」
譲の顔の硬度が増して険しくなり、わたしは誤解させたと気づく。
「あ、乱暴されたとかそういうことじゃないんだよ。そういうのとは全然別の意味で、わたしが勝手に怖がってるだけ」
「だから、付き合いが深くなるまえに今日みたいなことやって男を切るのか?」
わたしはきっとびっくり眼になっていると思う。譲の声は確信に満ちていて、わたしがやっていたことを明らかに知っている。
それなら、さっきはすべて知ったうえで、匠がいるというのにテーブルまでやって来たの? だから、知り合いかと訊かなかったし、怒っていて。
でも、それからプロポーズなんて釣り合っていない。
わたしの頭は混乱しきった。
「……見てた?」
「おれがナンパしたのは、あの日に限って偶然一目惚れしたってわけじゃない」
その返事と出会った日のことをかみ合わせていく。わたしが愚かしいこと知ってたのに。それでも?
もう声をかけられたからって簡単には付き合わない。匠の中国行きが決まってそう誓っていた。それをあっさり破らせた譲。もともと、誓うまでもなく、大学の頃のようにその気さえ起きることはなかったのに。
よくわからない人。
はじめて会った日、わたしはそう口にしてしまうほど、譲のことを考えていたのに違いない。まるで見計らったように家に帰ったとたんの電話。それだけで譲は単純に笑わせてくれた。ナンパされたときも、そしていまも。
譲という人がよくわからないというのはいまでも同じだけれど、わたしはいつのまにかかまえることなく笑っている。たまに見える強引さも、わたしの気持ちが追いついていないことを知ると、わざとふざけたことを云って気まずさを払う。
譲が譲であることに疑いはなくて、嫌いなところなんて何一つ見つけられない。
わたしは店の玄関先から譲へと近づいた。
「これまでの人と譲は全然違うの。でも譲もわたしのこと呆れちゃ――」
「でも、から先はいらない」
即座にさえぎられ、わたしが首をかしげたとたん。
「来週は六月だし、結婚するにはちょうどいい。月曜日は遅刻だ」
せっかちな譲に、わたしはまた笑った。
返事のかわりにわたしは譲に向かって手を伸ばす。それがいちばんの答えになっていると思った。
譲の手が強くわたしの手を捕えた。ビクビクした、もしくはドキドキしたわたしを穏やかにしたのは、譲の笑った顔だった。それはまるで譲を少年のように見せる。
理不尽なわがままがわたしの中に現れた。
だれにも見せないで。
*
結婚してから十カ月。四月に入って、ちょっと肌寒い日もあるけれど、概ねすごしやすくて、シフォンのミニ丈ワンピースという身軽さは心地いい。にもかかわらず、わたしは気分がすぐれない。
「美里、体調はどうだ?」
カーディガンを羽織っていると、会社からいったん家に帰った譲が寝室に入ってきた。
「平気」
ぶっきらぼうな声と一緒で、きっと仏頂面になっていると思う。今年は三十になろうとするのに大人げない。わたしの都合で、譲に非はない。
「無理しなくていい」
今日は譲の会社で新人の歓迎会があって、わたしも呼ばれている。
けれど、このところ調子が良くない。別に病気というわけではなく、人に云わせれば“おめでた”で、こんな不機嫌になることじゃなくてうれしいこと。それなのに、わたしは喜べていない。単なる悪阻のせいじゃないことはわかりすぎている。
ただ不安で怖い。いつまでたってもわたしのやることは向う見ずな子供みたいで、大人になれなくて。
わたしがいま大事にしたいもの。それまでも裏切ってしまった。
「ううん、無理じゃない。悪阻はだれでもあることだし」
「おれがもうちょっと配慮すべきだったと思ってる」
「え?」
なんのことかわからずに、わたしはきょとんとして一語で問い返した。
「妊娠。気をつけるべきだった。おれはそうなったらいいって思ってたけど、産むのも、いろいろ負担になるのも美里のほうだし、どうしたいのか訊いておけばよかったと後悔してる」
どうして譲はこんなふうに大人でいられるんだろう。ますます後ろめたくなる。
「譲は満点の旦那さまね。だから、譲が謝ることじゃないの。謝るのはわたしのほう」
「気分悪いのは当然だし、おれの前では無理していいフリしなくていいんだ。美里が謝る必要はないだろう」
譲は謝罪の意味を勘違いしている。無論、勘違いしてもらわなければ困るのはわたし自身であり、訂正する勇気もない。顔をうつむけて目を逸らした。
「正直に云えば、美里を抱くのが気に入ってる。気分は高校生かもしれない」
ちょっとした沈黙のあと、譲が口を開いた。その表現が可笑しくて、わたしは顔を上げた。生真面目な声のわりにそこにはニヤついた顔がある。譲はやっぱりわたしを笑わせる。
「“気に入ってる”?」
「弁解にもならないな。それだけ余裕でいるわけじゃないってこと、覚えていてくれ」
それは何かを含んでいそうに聞こえた。それとも考えすぎで、単純に受け取っていればいいんだろうか。
「どうする。行く?」
「うん、行く。譲の顔を潰したくないから」
ホントはとっくに潰している。
このままなかったことにすれば、わたしは良心まで泥溝に捨てることになるのだ。
「妊婦に冷たかったら、コンサルタントっていう職種上、おれの顔が潰れるまえに、流行遅れの男尊女卑で会社自体がとうに潰れてる」
譲はわたしをラクな気持ちにさせる術を知っている。知っているというよりは無意識で、あるいは譲の持ち前の性格で、わたしがわがままにラクになっているにすぎない。
*
本社のみで開かれた歓迎会は三十人を超え、譲の会社近くにある居酒屋の半分を占領して始まった。
業平商事も大会社なわりに、だれかを牽制するような陰湿さはなくフレンドリーだけれど、譲の会社も和気あいあいとしている。
たぶん、年の離れたパートナー同士が親子みたいにしているせいだろう。名目上は社長と副社長ということになっているけれど、権限は同等にあって、ベテランの知恵と若手の斬新な目線がうまくかみ合って、経営も上々のようだ。この不況下、来期は、関東の枠を出て地方にも進出するらしい。
譲のテリトリーであるこの場所には何度か顔を出しているけれど、譲の、嫌味のない人付き合いのうまさはここでも活きていると思う。
「譲くんは私に似て仕事にしか興味ないと信じてたんだがね」
「社長、似てるのはそこじゃなくて、きれいな人に弱いところでしょう」
中堅社員が遠慮もなく、トップ上司を揶揄する。
「ほんと、美里さんていつ見てもきれい。お化粧もそんなに濃くないですよね」
「それ、云い方が失礼だろ」
内勤の女の子が云ったことに嫌な印象は受けなかったけれど、隣に座った若い社員が咎めた。
「あ、大丈夫よ。充分に誉め言葉になってるから。ありがとう」
「んー、やっぱり譲くんが惚れるだけあって品がある」
「それにあの業平商事に勤めてるって才女なんですよね」
「そんなことないの。わたしはいつも必死になってないとすぐに置いていかれる程度」
だんだん息苦しくなってくる。表面上は、きれいだとか、業平に勤めているゆえに、できる女だとか思われる。でも中身は、そういった見かけ材料に釣り合っていない。
「副社長、それに美男美女で、って出来すぎじゃないですか」
正したことは置いてけぼりにされてしまい、それとはわからないくらい、わたしはそっとため息をついた。
「どうやって知り合ったのか興味あるんですけど」
「おれがナンパしたに決まってるだろう」
譲は隠しもせず、すまして即答した。
「わぁ。美里さん、きれいだし、カレシとか旦那さまがいるかもしれないのに。自信ありました?」
「自信なんてないよ。だめでも当たって砕けなきゃ、結局はどうでもいいものばっかりになって、本当に必要なものは何も手に入らない」
そう云いながら、譲の目は質問した女の子にではなく、なぜかわたしを向いた。
もしかして知ってる?
違う、そんなはずない。でも……何か感づいている。
泣きたくなった。
でも、泣くまえにわたしは認めなくちゃならない。いったんは潔くあきらめなくちゃならない。そうしないと、本当に否定しかできなくなる。
いつもまっすぐにわたしを見る譲に気づいてそう思った。
わたしはあれ以来、いつも首をかしげて機嫌を窺っていた気がする。匠にも、そして、譲にも。
まっすぐに見られないのは怖いから。
きれい。そう云われるたびにつらいのは、自分がきれいじゃないことを知っているから。