眠れないほど好き
大人の純情◆最後の恋 -2-
匠を追って、同じ大学ではないけれど東京の大学に進学し、そして、匠がいる業平商事への就職までたどり着いた。
こっちでは遊ぶのをそっちのけにして、思いついたかぎりでいろんなことを学んできたつもりだ。国内だけではなく世界に名立たるトップ商社へ入社できたという結果は、わたしの自信になった。新入社員の一カ月研修でも、なんとかついていけそうな手応えをつかんだ。そこが機能しなければ経営は成り立たないという営業部に配属されたのは、手応えの裏づけになって、頑張ってきた自分を誉めたいくらいだ。
匠のことは地元にいる子の伝手で大まかにつかんでいて、会いにいこうと思えば行けた。けれど、会ってしまえば際限がなくなることをわかっていたし、だからこそ、何も証明するものがなかったわたしは近づけなかった。
でも、いまなら匠もきっと認めてくれる。
配属先に入った初日、新人紹介で営業部フロアの各ブースを案内されて、その中の一つに匠はいた。新人を見回す視線がわたしを見た瞬間に止まった、というのは気のせいなのか、すぐに隣に流れた。
なんの反応もない。まるで覚えてもいないように。忘れてほしいことはあるけれど。
わたしのことは思い出にすらなってなくて、どうでもいい記憶でしかないの?
内心、泣きそうな気分で呆然として、けれどいまは仕事中で、自分の感情にかまっているときじゃないと云い聞かせた。何も考えていなかった頃とは違う。
実際、自分の持ち場に入れば、仕事のこと以外何も考えられないほど、新しいことにあたふたしてしまった。その間に、匠に対する気持ちはほぼ落ち着いた。よくよく考えると仕事中だったし、個人的な話ができるわけもない。
規定勤務時間の五時半まであっという間で、それから新人はキリのいいところまでで帰らされた。一階まで下りるとそれまでの緊張が解けて、ため息をつくなり肩の力が抜けた。
ほかの新人たちとは業平本社ビルの玄関口で別れ、わたしは独り、受付カウンターの反対側にある待合ブースに入った。それから二時間、七時半を過ぎてようやく匠が下りてきた。
「匠」
匠が独りでよかったと思いながら呼び止めた。わたしが近づく間、とりあえずは匠が待っていてくれることにほっとする。
正面で立ち止まると、まっすぐな眼差しが向く。わたしの心臓の音まで覗かれているんじゃないかという、バカげたことを考えてますます鼓動が乱れた。
あらためて目の前にすると、押してもビクともしないような、明らかに“少年”を脱した匠がいる。変わらず孤高として見えて、その雰囲気は高校の頃よりもっと厚みを増した感じがする。
「わたしのこと、わかる?」
わからないと云われてもいいように用意していたはずの言葉は、匠の名を口にした瞬間からすでに真っ白になってしまっている。わたしはおどけた笑みを浮かべて焦りを取り繕った。
「こっち来てるって知らなかった」
肩をすくめながら答えた匠の声にドキドキして、そして何より安心した。匠はわたしを忘れていない。
「大学からこっちいるんだよ」
匠はうなずいただけで、それ以上は質問も何も返ってこない。
「いまから営業ってわけじゃないよね?」
「違う」
場を持たせるためにからかったのがなんにもならないくらい、匠は素っ気なく否定し、わたしを思案げに見下ろした。
「……予定ないなら、一緒に食べにいってもいい。どうする?」
「うん、行く!」
不自然なほど間を空けたあとの誘いにためらいなく二つ返事をすると、匠はかすかに首をひねってわたしを促した。
匠は業平からそう遠くないレストランに連れていった。コース料理しか受け付けない高級な感じだ。
どこ行く? という問いかけがなかったことに、わたしは密かにがっかりしている。訊かれても答えられないけれど、わたしががむしゃらに頑張ってきた間、匠にも何かしらの成長はあったはずで、近づけたんじゃなくて、もっと離れたという可能性もあると気づかされた。
「ここ、高くない?」
「おれからの就職祝いだ」
「ホント?」
「ああ」
「うれしい。ホント云うと、こっちでは友だちつくる暇なくって、だれかとごはん食べるっていうのもあんまりなかったの。大学、頑張ってたんだよ」
「へぇ。業平はどうだ?」
「実践は今日からだし、まだわからないよ。研修はいい感じだった」
「業平は開かれてるらしいから、認められる仕事ができれば上っていける」
「匠は上るつもり?」
「仕事やるからには当然だろ。だから業平を目指してきた」
匠らしい答えだ。きっと堅実に地位を築いていくんだろう。
すましたコース料理に手間取りつつも、会社のことを中心に話していくうちに、匠がずっと話上手になっていると気づいた。最初に呼び止めたときは変わらず無口そうだったのに、あれは単に何かをためらっていただけなんだろうか。高校のときは、話しかけるたびに一呼吸置いてからしか返ってこなかったのが、いまは殊の外スムーズに反応がある。
匠を変化させたのは何? ただ単に大人になっただけ?
「匠、もしかしてカノジョいる?」
わたしはつい訊いてしまった。たったいままで、こんな単純な可能性を考えてこなかったなんてどうかしている。
「あ、もしかしてっていうのはおかしいよね」
露骨すぎた気がして慌てて付け加えたけれど、混乱したのはつかの間で、わたしは別のことに驚いた。
だってその答えなら、すぐに返ってきていいはずの返事なのに、ためらったのちに出てきたからだ。そのうえ、一瞬だったけれど、いつもまっすぐな匠の視線が浮いた。
「いない」
なんだろう。
だめなんだ。
漠然と感じたことは、それからだんだん明確になっていった。
相談があるの。
大したこともない相談をわざわざつくって会ってみるけれど、匠が応じるのはそこまでで、中に入りこめない。
もしかしたら『いない』と云ったのは嘘で、カノジョがいるのかもしれない。営業部のお酒の席で、匠の同僚に話のついでみたいに訊いてみた。
ちょっと酔っぱらってテンション高めだったその人は、業平に入社して以来、匠にはカノジョがいないことを教えてくれた。大学も一緒だったらしく、そのときはいまと比べると想像できないくらい匠の女遊びが派手だったという。
わたしからすれば、女遊びが派手というほうが想像できなくて、親切なのかお節介なのか、その人が匠のことを語る間、別人の話を聞いている感覚でいた。
わたしにはそんなことはどうでもよくて。それよりも特定のカノジョがいるわけでもないのに。
ともすれば、拒絶されている、とさえ感じるのはどうして?
疑問を持つこと自体、わたしが受け入れられないという答えにもなっている。
認めたくない。
仕事はうまく熟していて、匠もそれを認めている。でも、そうじゃない。
わたしは好きだって叫ばせてほしいんだと気づいた。
それなのに、匠にある壁と、匠が云った、おまえの好きってなんだ、という言葉がそうさせてくれない。たどり着けない。そこから進めない。
わたしは頑張ってきたのに。
あのときのこと、わたしはずっと引きずっていかなくちゃならないの?
自信が散り散りになりそうで、やっぱり自分を否定したくなくて、縋れるものが必要になった。
あの頃からずっと変わらないことがある。付き合おうぜ、が、付き合いませんか、という云い方に変わりはした。それに、さすがに大人になると用心深くなるようで回数は減った。もしくはわたしの力が衰えてきたのか。むしろ、そのほうがうれしいかもしれない。そのたびに、誘いやすい軽さがあるんだろうかと落ちこんできたから。
けれど、落ちこむことじゃなくて、わたしにも惹く何かがきっとある。匠が見いだせなかったものを、その人が見つけてくれるのならそれでいい。そう思い始めた。
でもだめだった。
付き合っても先に進めない。あれからずっと男の人を避けてきたせいか、触れられるのが怖くなっていた。一歩踏みこもうとされると、つい避けてしまう。上手に断れる方法も思いつかず、得てして露骨に見えるようで、すぐにぎくしゃくしてうまくいかなくなった。
そうなるとどうしようもなくなって、わたしは匠を呼んだ。
匠といるわたしを見てどうするのか。保証が欲しかったのかもしれない。
匠を超えられる人なら、恐れずにぶつかっていける気がして。あわよくば、わたしを見てくれている人がいるんだよ、と、匠への証明にもなる。
結局は鉢合わせという下劣なことを繰り返しても、保証も得られなければ証明にもならなかった。匠を目にしたとたん、だれもが踵を返す。
最初の二人のときは気づかなかったけれど、三人目、わたしの視線に気づいた匠はそれを追った。頭の切れる匠が、どういうことか見当をつけられないはずがない。
ますます匠をうんざりさせた。わたしもうんざりしてる。それでも相談だと云うと、匠は見限ることなく付き合ってくれる。
どうして?
そんな疑問を抱えて無駄ともいえる時間だけが過ぎていく。
それに決着をつけられたのは、再び会ってから五年がたち、匠が栄進をかけて中国への異動を決めてからだった。
中国支社の規模拡大というプレッシャーを背負い、成功すれば昇進が待っているけれど、逆に、頓挫すれば不名誉が残るだけ。そこにあえて手を挙げるという、匠は本当に怖いもの知らずだ。
同時に考えついた。わたしは普通で、匠のほうがおかしいということ。
いまも、派手だったという大学時代も、特定のカノジョがいたことがないというのは人を好きになったことがないということで、そんなのは絶対におかしい。感情が欠けている。
匠が中国に立ったあと、気づいたこともある。
自分を否定したくないために頑張ってきたけれど、それをまったく無意味にするほど、わたしがしていたことは、匠にとって自分のときと同じことをやっているように見えただろう。
*
匠が春に中国へ行って半年、付き合う人もいなくて、出かけるといえば会社の女性たちがほとんどだ。
今日は、今期入社してきた後輩の子からお洒落な店を教えてほしいと頼まれて、このダイニングバーに連れてきた。
ここは鉢合わせに使っていた店で、わたしにとってはあまり好きな場所ではないけれど、そう店を知っているわけでもない。ただ、後輩に対して、見かけ倒しと思われたくなかったという、まったくもって不必要なプライドによって来てしまった。後輩が無性に喜んでくれたのが救いだ。
「立花さん、お化粧室はどこですか」
「カウンターの奥。ここ、お化粧室もお洒落だから」
「うわぁ。じゃ、いってきます!」
後輩は張りきってカウンターのほうへと向かった。業平への入社を機に、広島から上京してきた彼女はいちいち反応が無邪気だ。わたしはうらやましさ半分、独り笑った。
「いま独り?」
ワインを一口飲んで、グラスをテーブルに置いたと同時に、すぐ頭上から低い声がした。
顔を上向けると、三十代半ばだろうか、顔立ちは整ってすっきりしていながら、どこか不屈な精神力を感じさせる男の人がわたしを見下ろしている。声のかけ方がナンパ的で、けれど、ナンパする人とは思えないくらい上品な印象を受けて、その落差にちょっと戸惑った。
「え……二人ですよ。いまお化粧室に行ってるんですけど」
「いや、そういう意味じゃなくて。カレとかご主人とか」
なんとなく滑稽な様子で、尚且つ率直な言葉は、わたしを自然と笑わせた。
ただ、初対面で声をかけられることははじめてで、そのうえ、見かけと違って気取ったところがなく、戸惑いの度合いが増した。それをごまかすためになんとか切り返そうと試みる。
「そう云う……えっと?」
「田辺譲、三十三才」
「わたしは立花美里、二十八才。そう云う田辺さんのほうが『独り』じゃおかしい気がしますけど」
「あー、選り好みしてるってよく云われる。けど、選るまえに好む人に巡り合っていないことのほうがおれにとっては問題だ」
おどけた返事が返ってきて、思わず声に出して笑った。
匠のことが整理ついてから、余程のことがないかぎり男の人には近づかない――違う、近づけないと思っていたのに、立たせたままなのは悪い気になって空いた席を勧めた。
「田辺さん、どうぞ」
「連れがいるようだし、邪魔しちゃ悪い。けど今度……」
田辺さんの場を弁えた礼儀正しさは――こういうナンパでこの言葉がふさわしいのかは疑問だけれど、とにかく押しつけがましくない。胸ポケットから名刺入れを取りだした田辺さんは、同時にポケットに差したペンを手にして名刺の裏に何か書きだした。
「表は仕事用。信用できないなら会社に電話をくれてもかまわない。それで、教えてくれるかな」
さりげない催促はわたしをおもしろくさせて警戒心を奪い、気づいたときは携帯番号を口にしていた。
「ありがとう。電話させてもらうよ」
田辺さんはあっさりと立ち去り、入れ替わりに戻ってきた後輩の相手をしているうちに、いつの間にか店内からいなくなっていた。
よくわからない人。
家に帰りついて、そうつぶやいたとたんの電話。
『田辺だ』
携帯電話を耳に当てたと同時に低い声が耳に響いてきた。
田辺さんのせっかちさはまたわたしを笑わせる。
声は好きだ、と思った。
*
匠がいないということ、譲がいるということ。その二つがちょうどよくて、気分的に落ち着いた気がする。
ただ、やっぱり譲が先に進もうとすると、わたしはためらってしまう。
「階段、怖くないか」
ビルの屋上へと先を行く譲が、下からついてくるわたしに手を伸ばした。展望台に上る階段は下が丸見えで、わざと頼りない造りになっている。
「大丈夫。キャアキャア云って怖がるような年じゃないから」
わたしはさり気なく断った。けれど、ごまかしは役に立たなかったようで、薄明かりのなか、譲は顔をしかめたように見える。
「残念だな。カップルが遠慮なく手を繋げる場所を提供したつもりだけど」
譲は何かを思ったとしても、追求はせずに逆にからかった。
展望台まで上がると、色取り取りの光を散りばめた絶景が広がる。
譲はこの商業ビルの建設に当たって設計案に関わったという。プレオープンは明日で、一足先にコンサルタントの特権でわたしを連れてきてくれた。
二月の終わり、春をまえにまだ風は冷たいけれど爽やかにも感じる。胸の高さまである手すりから少し顔を出して一望した。
「寒くないか」
「平気よ。それより譲、すごくきれい。うっとりしちゃう」
「だろう。ワインでもあったら最高ってとこだな。寒さも凌げるし」
「ほんと。そういうサービスは考えなかった?」
「手すりだけだし、酔っぱらって乗り越えて、挙句の果てに落ちてもらったら困る。ガラス越しじゃなくて、風を感じながらってとこが自然ぽくていいだろう?」
「そうね。ちょっと山登りした感覚はあるかも」
「山登り? 美里を見てると想像つかないけど」
その言葉にふと考えた。わたしは手すりから手を放して、斜め後ろにいる譲を振り返った。
「わたしのこと、どんな想像してる?」
「想像してない。希望はあるけど」
譲は肩をすくめた。首をかしげて覗きこんでも、薄暗くて表情まではよく読み取れない。
「希望?」
「おれの部屋からもこういう景色は見られる。寒くないし、それに、酔っ払っても落ちることはないよ。飛びこんでも弾き飛ばされるくらい頑丈な窓があるから」
そのほのめかしがどういう意味なのか見当つけられないほど幼稚じゃない。微妙に困惑した気配が広がる。
「高所恐怖症だからさ、ベランダにも出られなくて、窓の鍵は接着付けだ」
しばらくして譲が付け加えると、わたしは困惑そっちのけで吹きだした。
「信じられない!」
「んー、大げさすぎたのは認める。けど、苦手だってことは確かだ」
どうしてだろう。
譲はいまままでの人と違う。
わたしが避けても無理強いしなくて、ぎくしゃくもしない。安心できて、それでいて怖さを感じている。この相反した気持ちは何?
安心と怖さが不安をつくって、この半年のことがふりだしに――違う、それ以下になってしまいそうなほど、また揺れ始めた。
それは三月の半ばを過ぎて、匠が中国から帰ってきたせいもある。ううん、ただ帰ってきたからじゃなくて、わたしの結論を覆すようなことを聞かされたからに違いない。
譲のことを匠に報告したくて、そうすれば何が怖いのかわかるような気がしていた。
それなのに先手を打たれて、匠から結婚するという報告を聞かされた。
どうして? 感情に欠けた匠が結婚?
結婚するカノジョは、営業部本部長の娘という肩書きを持っていても、これといって目立つような子じゃない。
ただ、きれい、ということはわかった。
わたしが何よりも欲しくて、絶対に手に入らないもの。
それがなければ認められないの?