眠れないほど好き

大人の純情◆最後の恋 -1-


 手に持った携帯電話を鏡台の上に置くと、椅子に座って立花美里(たちばなみさと)という自分の顔と向き合った。
 いくつになっても、独りでいると不安そうな、ともすればおどおどしたような表情は消えてくれない。全部、自分のせいだとわかっている。だれかに消してほしいと頼るのは子供すぎるのだろうか。
 わたしはいったん置いた携帯電話を手にして、呼びだしボタンを押した。
「わたし、美里」
『ああ。ごはん、食べた?』
 答えた声はいつものとおり、からかうような口調だ。低音で特別な周波を出しているらしく、わたしは特に電話の声には眩暈(めまい)がしそうになる。
 電話の相手、田辺譲(たなべゆずる)とは付き合って半年になる。わたしと譲の年ではどうかと思うような、ナンパから始まった。
「もう十時よ。いまから食べたら太っちゃう。譲は仕事終わった?」
『もう十時だ。仕事を持ち帰るほど熱心じゃない』
 譲は云い方を似せて返し、わたしは緊張しているにもかかわらず笑えた。譲はわたしをリラックスさせるのがうまい。
 それに、仕事に熱心じゃないわけない。譲は年配のパートナーと一緒にコンサルティングの会社を経営していて、企業家の間では評判もいいのだ。職業柄、熱心でなければそういう評判は立たない。
「譲、明日は大丈夫なんだよね?」
 そう訊ねたとたん、少し緊張が戻った。
『ああ、問題ない。急ぎの仕事は入ってないから』
「そう……よかった。譲……」
『どうした?』
「ううん。わたしのこと、嫌になってない?」
『なんでそんなこと訊くんだ?』
「なんとなく」
 譲の声は硬く、怪訝(けげん)そうで、わたしは声のトーンを上げて笑った。
『惰性で人に付き合うほど暇じゃないんだけどな』
「仕事に熱心じゃないって云ったくせに、何が忙しいのか気になるところだけど」
 突っこんでみると、譲の低い笑い声が電話越しに届いて耳がくすぐったい。
『とにかく明日は大丈夫だ』
「うん、じゃあね」
 電話を切ると、何も考えられないくらいドキドキした。
 バカなことやってる。
 わかっているけれど止められない。二十八にもなって、今年は年度も変わって二十代最後の年なのに何やってるんだろう。大人には程遠い。いつまでたっても、あの頃の自分を認められない。


 *


 ずっとずっとまえ――あまり数えたくはないけれど、十三年もまえ、わたしはそれとわからずに、たぶん、な本気の恋をした。
 都会でも田舎でもない地元で、それなりに中堅の高校に入学してからまもなくのことだ。友だちと一緒に、校内のいろんな場所を探検じみて回っているときに見かけた。それから見ているわけでも探しているわけでもないのに、その姿が目に入ってくる。
 上戸匠(うえとたくみ)
 一つ上の先輩で、顔見知りになった先輩に何気なく訊いたら、すぐに名前が出てきた。県内でも名の通った上戸病院の息子だという。そのせいなのか、いかにも高貴な異質さがあって、簡単には近づけない感じがした。
 匠は男八人女四人というグループで行動していて、その隣にはいつも決まった彼女がいる。ただの彼女ではなくて、きっと“カノジョ”だと思った。
 わたしはわたしで付き合っているカレがいた。
 付き合おうぜ? そんなお決まりのセリフは中学二年の頃から何度となく聞いて、そのたびに嫌にも思わなくて応じた。そのほとんどは、なんとなくながらも、いいなぁと思っている人で、以心伝心かも、と単純にうれしくなる。
 学校の廊下ではしゃいだり、帰り道を一緒に歩いたり、休みの日に会うようになって。それからカレの部屋で……というお決まりのコース。
 男と女の“やること”については、知識としては知っていても、最初はびっくりした。迷った。怖かった。不安だった。
 好きならこういう気持ちってあたりまえだろ。
 はじめて付き合った人、一つ上の先輩の言葉に、そうなんだと納得してわたしは安心した。
 好きという気持ちが先輩の中で壊れたときはショックだったけれど、そのうち、わたしはまた、いいなぁと思う人ができた。その人から好きだと打ち明けられて、成り行きを踏んでまた壊れる。
 好きってそんなものなんだ、と思った。多少、さみしいと感じないわけでもなかったけれど。
 匠のことは気になってもカノジョがいるならだめだろうとあきらめて、ただ、その気持ちは消えなくて、いいなぁと思う次の人が現れなかった。そういうなかでも変わらず告白はあって、その都度、付き合ってみた。
 いまになって思うと、この頃のわたしの中には意思というものが存在していない。いちばん大事なことを“なんとなく”任せですませていた。
 美里は美人だからね。
 そんな友だちの誉め言葉を鵜呑(うの)みにした。両親でさえ、小さい頃から“可愛い娘”とあからさまに自慢してたから。付き合ってほしいという告白が多いのはそのせいだと思っていたのに、そのうち、カルい女だと噂されていることがわかった。傷つくよりは、つまらない人のやっかみだと思った。

 どうかしてる。
 わたしは鏡に映る自分を見つめてため息をついた。
 やっかんだ人ではなくて、わたしのほうが丸っきりの馬鹿で、ただ恥ずかしい。
 気づかせてくれたのは匠だ。


 * * * *


 二年生に進級すると、匠の傍にいたのは、匠のお兄さんのカノジョだとわかって、わたしは告白に走った。
 匠たちは体育館の入口にある階段のところにいつも(たむろ)している。校舎から体育館に通じる、渡り廊下へと曲がる寸前で匠を捕まえた。
「上戸さん、好きなんだけど、わたしと付き合ってくれない?」
 先輩ということを無視した不躾(ぶしつけ)な告白をどう思ったのか、匠は興味ないと云わんばかりで背を向けた。
「上戸さん!」
「そんな気ない」
 振り向いた匠は、一言でわたしの告白を退けた。
 自分から誘ったこともはじめてであれば、もちろん断られたのもはじめてで、わたしは戸惑った。そのすえ、断られても()退()けられても付き(まと)った。
 わたしの噂は匠の友だちが聞きつけたようで、いつか立ち去る間もなく、背後から告げ口が耳に入った。
「噂、だろ」
 匠が友だちに返した一言はうれしくもあり、そして、モヤモヤしたものをわたしの中に生んだ。
 それが何かはっきりしないまま、その一言に頼って押しかけていたら、いつの間にか追い払う言葉はなくなって、話しかけてくることはなくても仲間内のなかで一緒にいられるようになった。

「匠、明日、一緒にグリーンランド行きたいんだけど?」
 告白から二カ月が過ぎた七月に入ってすぐ、匠を隣町の遊園地に誘ってみた。匠は受験生だし、夏休みまえになんとかしないと、長い時間、会えなくなってふりだしに戻りそうな気がする。
 そしていま、わたしはずうずうしくも、『匠』と呼び捨てるようになった。当の匠は(とが)めるでもなく聞き流しているようだ。
「お母さんが会社から入場券もらって、それをくれたの。ゲートの前に十時。待ってるから!」
 考えこむように黙った匠を覗きこみ、断られるまえに急いで時間を指定すると、返事を聞かないでわたしは教室へと駆けた。
 待ちぼうけのすえ、すっぽかされるということも覚悟していたのに、わたしが着いたのとほぼ同時に匠はやって来た。
「匠、ありがと!」
「何乗るんだ?」
 お礼は無視されて、ぶっきらぼうな質問が返ってくる。
「匠はどういうのが好き? 男のほうがジェットコースター苦手って人、多いけど、匠もそういうの怖い?」
「大抵のは怖いとかない」
「大抵?」
「乗ったことないのもあるからな」
 的確すぎる返事にわたしは笑ってしまう。
「あ、なあんだ、そういうこと! じゃ、匠が乗ったことないのに乗りたい」
 匠はいかにも無理強いされているというため息を吐いたけれど、わたしの気のすむまで初デートに付き合ってくれた。残念だったのは、どんな乗り物でもお化け屋敷でも、匠から動揺を引きだせなかったことだ。
 それから休みが来るたびに誘ってみると、渋々ながらも付き合ってくれる。夏休みになると、頻繁(ひんぱん)にではなくても思いだしたように、匠から誘ってくるようになった。
「受験、大丈夫?」
「息抜き」
 誘われるのも三回目になって、いちおう気遣ってみると、匠からは端的な返事が返ってきた。息抜きが友だちとわたしとでどれくらいの割合になっているのか気になるところだけれど、進展はしている感じだ。
「どこ行く?」
「また考えてないの?」
 いつもの問いかけにわたしはちょっと笑ってしまい、匠は首をすくめた。
「美里が好きそうなのがまだわかってない」
 率直で簡単な答えにわたしは声を出して笑った。

 それからは誘われることを考えて、わたしは行きたいところのリストを作った。考えるだけで楽しくて、その楽しさはこれまでと全然違った。
 でもなんだろう。どこかヘンだ。
 告白した時季から季節が逆転した頃、わたしはそう思い始めた。

「おれさ、立花のこと好きなんだ」
 十一月も終わりの昼休み、同級生の男の子に教室を出たところで呼び止められ、いきなり告白された。
 匠と付き合っていることは、少なくとも二年と三年の間では周知の事実のはずだ。
「あ、でも、わたし」
「いいじゃん。今度の日曜日、空けといてな」
 カレがいるのに、という状況下の告白ははじめてのことで、断る間もなく、ただ困惑して、廊下を走っていく男の子を見送った。
 告白を受けた瞬間に感じたこの不安はなんだろう。
「匠、いまね、同級生の子に告白されたんだよ」
 なんとはなしに報告してみると、匠は首を少し傾けたくらいで無反応だ。
 その瞬間に気づいた。
 不安は、匠から好きと云われたことがないこと。匠がそういうことを云う人とは思わないけれど、云わなくても……。どこかヘンに感じていたのは、男と女の“やること”まで進まないこと。それどころか、手を握ることもなくて。
 匠はわたしのこと、好きじゃないの?
 最近は受験間近で、匠からの誘いはなくなって、わたしも誘えなくなった。学校で会うことしかできない。遠く離れた東京の大学を目指しているのに、匠からはなんの約束の言葉もない。
 そんな不安が重なって、試してみたい気持ちが湧いた。
 わたしが別の人といたら、怒ったりして何か反応が見られるかも。
 けれど迷いはあって、いざ同級生の子と待ち合わせた場所の近くまで行くとためらった。
「立花、こっち」
 Uターンしようとした矢先、声をかけられた。モヤモヤした気持ちが広がる。
 でも会ってしまったら、ここで帰っても帰らなくても一緒だし、遊ぶだけだし、女の子でも男の子でも一緒。匠から確かなものが引きだせたら、“なんとなく”ということもなくなって、こんなこともちゃんと断れるようになりそう。
 考えを切り替えてしまうと、わたしのためらいは消えてしまった。
 匠とは来たことのないアミューズメント館で、女の子同士ではやらないゲームをしたりして、男の子と単純に楽しめた。
 次の日、驚いたのは、学校へ行くなり、上戸先輩とは別れちゃったの?! と、寄ってたかって同級生たちに問い詰められたことだ。見られたのか、それとも男の子が喋ったのかはわからない。ただ、男の子と会っていたことが知られている。
 違うよ、ちょっと遊んだだけ、と否定したら、女の子たちから奇妙な目で見られた。あらためて匠が憧れの的であることに気づき、噂が触れ回されていることを知って後悔したかもしれない。
 匠に話す手間は省けたんだから。わたしは楽観的に思うことにした。

「匠!」
 いつもの場所に友だちと固まっていた匠を見つけて、叫ぶように名を呼んだ。わたしを振り向くと、めずらしく匠から近寄ってきた。
 その表情は普段からあまり変化することはないけれど、それでもこれまでと違う何かを感じた。
 匠はやっぱり知っている。直感的にわかった。でも、怒っているのでも、哀しんでいるでもない。
 何?
「おまえの“好き”ってなんだ?」
 声にも怒りは見えなくて、ただ淡々としていた。わたしはただ戸惑う。
 だって、好きは好きってことで、何って訊かれてもそれ以上に答えられることなんてない。
 じゃあ、匠の好きって何? 好きだから付き合ってるんでしょ? それなのに好きとも云わなくて、“やること”もやらないのは匠のほうだ。
「女と付き合うのははじめてだし、おれなりにやってたつもりでいた。けど、おれは向いてない。美里、もう来るな。終わりだ」
 匠が何を云ったのか理解できるまえにわたしは見捨てられた。

 あとから思えば、匠は呆れただけで、そう仕向けてしまったのはわたし自身にほかならない。
 好きがダメになって、こんなにさみしくて、悲しくなったことはない。
 だって、好きなんだから!  そう叫びたいくらいの、本当の“好き”がやっとわかった気がした。
 わかったら、今度はいままで“なんとなく”やってきたことを直視できないくらい後悔して、匠にはもう近づけなかった。たまに感じていたモヤモヤはこの後悔という気持ちに似ている。
 そして、流れた噂は二重の打撃だった。“やること”をやっているという尾ひれまでついて収拾がつかない。そんななか、お節介な友だちがこっそり教えてくれた。匠のことをやっかんでいた子が、男の子を(けしか)けたらしいこと。
 匠が女の子の間で人気があるというのは公然だったけれど、あんな雰囲気では告白したくてもできない。それをできたわたしには、必然的に風当たりが強かった。だから、そういう子がいてもおかしくない。
 けれど。そもそも悪いのは、安易に男の子と遊んでしまったわたしだ。匠と付き合う以前のわたしは尾ひれも何も、そのとおりで。
 わたしが苦しかったのは、匠が敗者呼ばわりされたこと。わたしが弁解しても、それはだれにとっても薄っぺらにしか聞こえない。

 わたしはずっと考えている。いままでのこと。
 おれなりに。
 そのとおり、匠は匠なりにわたしのことを考えていた。
 好きだったのはわたしで、匠はわたしの“付き合って”に付き合うことから始めたわけで、好きはあとからついてくるものだったのだ。
 美里の好きそうなのがまだわかっていない――まだ、ということはわかろうとしていたということ。それはきっと、追い払わなくなったときから始まっていて、少しずつ少しずつ匠は応えていた。
 わたしにとって匠がいままでと違ったのは、そういう、だれにもなかった実直さがあるからだ。
 ヘンに感じていたことも、触れることのない物足りなさなんかじゃなくて、わたしのただの欲張り。好き、を疑うよりも匠の気持ちを待っていればよかったのに。

 卒業していく匠の背中を見送りながら、わたしは漠然と誓った。
 匠にたどり着けるように頑張るから。だからそのときは――。

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