眠れないほど好き

大人の純情◆少年のように

 このダイニングバーで彼女を見かけるようになったのは一年半前だ。
 一見すれば美人聡明。よく見ていると、幼さ――いや、無邪気さが見え隠れする。
 そうだ。おれは、見かけるというよりはよく見ているに違いない。
 彼女はいつも男連れだ。
 男は彼女をもて(はや)しぎみなのに比べ、彼女はどこか上の空で、男を見ているようで見ていない。
 ただ一人、彼女が“見ている”男がいる。
 そして、“見ている男”と“見ていない男”が鉢合わせする。見ていない男が去り、見ている男もまたそのあと去る。
 残った彼女はゆっくりとワインを口にしながらそこに留まって、泣きそうな顔で独り笑みを浮かべている。
 そう見えるのはおれの気のせいかもしれない。なぜなら、そのうち彼女はまた別の見ていない男を連れてくる。彼女を見るようになってから三回、同じことの繰り返し。
 それがパタリと止んだのは半年前くらいだろうか。彼女は来なくなった。

 どうしたんだろうか。望みは、あたりまえだが、おれの知らないところで(つい)えたのかもしれない。
 バカだな。
 何をそう思ったのか、望み自体もよくわからないまま、折り合いをつけようとしていた。それが今日、彼女が現れた。おまけに連れは男じゃなく女だ。

「いま独り?」
 何をやってるんだ? と気づいたときは遅く、彼女が傍に立ったおれを見上げた。
「え……二人ですよ。いまお化粧室に行ってるんですけど」
 彼女は驚いたように応え、そして表情は怪訝そうに変わった。当然の反応だ。驚いているといえば、おれ自身もそうだ。それよりは呆れているかもしれない。
「いや、そういう意味じゃなくて。カレとかご主人とか」
 そう訊ねたとたんに、可笑しそうな、もしくは余裕たっぷりの艶やかな笑みがくちびるに宿る。彼女のこんなふうに自然に感じる笑い方ははじめて目にしたかもしれない。しかも目の前のことであり。
 だめだ。
 内心でつぶやき、まるでガキに還ったかのように焦った躰が冷や汗を吹く。
「そう云う……えっと?」
 彼女は曖昧に云って首をかしげる。
「田辺(ゆずる)、三十三才」
「わたしは立花(たちばな)美里、二十八才。そう云う田辺さんのほうが『独り』じゃおかしい気がしますけど」
 彼女はおれを真似て名乗ると、さっきの続きを云い足した。

 自惚(うぬぼ)れているわけではないが、彼女がほのめかしたとおり、寄ってくる女はいる。が、寄ってほしい“彼女”は寄ってこない。それどころか眼中にさえ入っていなかった。
「あー、()り好みしてるってよく云われる。けど、選るまえに好む人に巡り合っていないことのほうがおれにとっては問題だ」
 彼女はくすくすと笑いだした。それから、どうぞ、と空いた椅子を指差す。
「連れがいるようだし、邪魔しちゃ悪い。けど今度……」
 おれは胸ポケットから名刺入れを取りだし、同時にポケットに差したペンを手に取って名刺の裏に携帯番号を書いた。
「表は仕事用。信用できないなら会社に電話をくれてもかまわない。それで、教えてくれるかな」
 名刺を渡しながらそれとなく催促してみると、彼女はおもしろがった様子であっさり教えてくれた。
 簡単に、それも初対面の人間に携帯番号を教えるとは危なっかしい。その小言は、自分が訊いた手前、矛盾している。内心でしかめつつも、一方では連絡手段を得たことが単純にうれしいと思う。
 それが、嘘でなければ、の話だが。


 そしてそれは嘘ではなかった。
 家に帰ってまもなく――。
「田辺だ」
 相手が彼女だと信じて、電話が通じると同時に名乗ると、間違いなく今日、目の前にしたのと同じ笑い方がおれの耳に響いた。


 * * * *


『譲、明日は大丈夫なんだよね?』
 木曜日の夜、美里から電話が入った。
「ああ、問題ない。急ぎの仕事は入ってないから」
『そう……よかった。譲……』
 なぜか美里の呼びかけはためらった気配だ。
「どうした?」
『ううん。わたしのこと、嫌になってない?』
「なんでそんなこと訊くんだ?」
「なんとなく」
 そう答えた美里はいつものとおり、おもしろがった声で笑った。
 それから、じゃあね、と電話は切れた。

 美里とは付き合ってから半年を過ぎた。
 おれから声をかけたのははじめてのことで、嫌になる、とかそういう気持ちはまるで次元の違う発想だ。
 美里はどこかちぐはぐで、自信に溢れているかと思えば、時折、不安そうにおれの顔を窺う。
 彼女はおれをよく見ている。
 それさえあれば問題ない。
 だが、この怖れはなんだ?
 二カ月前、三月の終わりから美里の様子が微妙に落ち着かなくなった。
 それは前兆のように思えた。
 なんの?
 決まっている。同じこと、の繰り返し。
 それでも美里がおれを“見ている”かぎり、“同じこと”とは違うはずだ。
 その確信とは裏腹に、信じている、というよりは、信じたい、という本音は嘆かわしい。

 翌日、ぐずぐずした自分にちょっとイラつきを覚えながら、ダイニングバーに入った。
 とたん、あの“見ている男”が目につく。おれは入り口に立ち尽くした。
 斜め向かいという位置に座った男を見上げて何やら話しこんでいるが、そこには美里がその男にしか見せない表情がある。普通に話していても、いまのように笑って話していてもその表情は消えない。

 なんだ?
 苛立ちのままに席に向かった。
 見ていない男たちが立ち去る理由、それがやっとわかった。
 約束しているのに別の男といる。“男と女”に進展しない状況下、大人ならそれを別れと受けとる。
 対峙(たいじ)すべき相手が極上なら尚更。
 おれを甘く見るな。
 ガキじみたプライドがつぶやいた。

「ここ、いいんだよな」
 返事を聞くまえにおれは男と向かい側の椅子を引いて、これ見よがしにドサリと座った。
 遠くから見ても見栄(みば)えのする男だが、近くで見るとさらに雰囲気に圧倒された。おそらく美里とかわらないくらいの年だろうが、冷たさと相俟(あいま)って毅然(きぜん)とした眼差しには、このおれですらためらいを覚える。
 男はおれから美里に目を移した。険しく眉をひそめ、首をひねったあと、その声を聞く間もなく男は立ちあがって出ていった。

 美里は独り笑う。斜めに位置しているせいで、美里のうつむけた顔がこれまでのように泣きそうにしているのかは読み取れないが、口もとは笑うように両端を上げているのが見て取れた。
 口を開く気にもなれず、美里が何か云うのを待っているわけでもなく、喋ったほうが負けだという、まるで我慢比べのようにおれたちのテーブルは沈黙に満ちた。

「美里、おまえと結婚したい」

 結局はその我慢比べに負けたのはおれだ。しかも、潰れたプライドを直視できず、おれは席を立った。勘定票を持ってレジに行き、投げるようにお金を置きながら、釣りはいらない、と腹立ち紛れに云って店を出た。
 くそっ。バカやろうっ。
 しばらく歩いて、店に沿った花壇の煉瓦(れんが)に蹴りを入れた。が、痛んだのはおれの靴と足の指先で、煉瓦はびくともしない。
 通りすがりのカップルが可笑しそうにおれを見ていく。酔っぱらいだと思われたに違いない。

 何、ガキみたいなことやってんだ。
 内心で吐き捨てると、その言葉が節度のなさをおれ自身に悟らせ、イライラが収束していった。
 苛立ち紛れに結婚を申しこむなど大人気ない。
 頭が冷えていくにつれ、おれは気づく。
 立ちあがる寸前、顔を上げた美里の表情。それは心許(こころもと)なく、あの見ている男に対して消えることのない表情だと気づいた。そう、時折おれを窺う表情と同じだ。
 バカヤロー。
 おれは情けなくつぶやく。
 そこにはなんらかの美里の傷みがあるはずだ。

「譲」
 おれが引き返そうと振り返ったのとほぼ同時に、店を出てきた美里がおれの名を呼んだ。
「あの人は高校のときの一つ上の先輩で、いまは同じ会社にいるの。それで相談とかよく乗ってもらってる。先輩は一年間、中国行ってて三月に帰ってきたばっかり」
 なるほど。それで“同じこと”がパタリと止んだわけだ。だが、そもそもそうする理由はどこにある?
「それだけじゃないよな?」
「……ホント云うと、高校のときに付き合ったことがあって、でもふられちゃった」
 おれが促すと、美里は肩をすぼめておどけたように打ち明けた。そうやって傷ついたことを大したことないと思わせなければならないほど、美里が傷ついているということだけはわかった。
「だからなのか?」
「なんのこと?」
「近づこうとすると避けるから。手も握れないし……キスもできない」
 露骨に付け加えると、美里は苦笑いをした。
「ちょっと……怖いかもしれない」
 美里の答えは意外なものでおれは顔をしかめた。それを見た美里が慌てたように告白を継ぐ。
「あ、乱暴されたとかそういうことじゃないんだよ。そういうのとは全然別の意味で、わたしが勝手に怖がってるだけ」
「だから、付き合いが深くなるまえに今日みたいなことやって男を切るのか?」
「……見てた?」
「おれがナンパしたのは、あの日に限って偶然一目惚れしたってわけじゃない」
 遠回しに云うと、ばつが悪そうにしていた美里は可笑しそうにして、店先から近づいてきた。
「これまでの人と譲は全然違うの。でも譲もわたしのこと呆れちゃ――」
「“でも”から、その先はいらない」

 おれは美里が見ていない男じゃない。あの見ている男を含め、彼女が男を追うなんてことがこれまであったか。おれはプライドを組み立て直した。
 おそらく、美里はどこか自信をなくしている。いつか、美里の自信も立ち直ることがあれば――いや、おれがいることでそれが成立するのか。
「来週は六月だし、結婚するにはちょうどいい。月曜日は遅刻だ」
 おれの独断に、美里は返事をしないでただ笑う。それはまるで無邪気で。
 それから美里の手がおれに向かって伸びてきた。
 その意味に気持ちも躰も(はや)る。
 傲慢と云われようが、どれだけだっておれは訴える。
 おれを見てろ。
 つかみとるように握りしめた手はおれの手にすっぽりと納まり、そしてその頼りない小ささに心底(しんてい)が震えた。
 それをごまかすようにおれは笑う――少年のように。

− The End. − Many thanks for reading.

★ ブログ仲間さんのお題「バカヤロー」よりできた作品 2010.05.月企画(ブログ先行公開分に加筆)

DOOR最後の恋(美里編)

Published in 06 Jun. 2010. Material by ミントblue.