眠れないほど好き

大人の純情◆最後の恋 -4-

 一カ月前、わたしはやっちゃいけないことをやった。
 妊娠がはっきりするまえのことで、でもそれを情緒不安定の理由にするには生まれてくる子に対して卑劣すぎる。
 それ以前もわたしは意地悪だったから。
 匠って退屈じゃない?
 匠と優歌ちゃんがわたしたちと同じ六月に結婚して――もちろん先に決まっていたのは匠たちであり、わたしと譲の入籍は周りを驚かせるくらいとうとつだったけれど、その半年後、レストランでばったり会ったときに云ってしまった。
 わたしのことはどれだけ頑張っても認めなかったくせに、匠は優歌ちゃんをすんなりと受け入れた。それはふたりを見ていればわかる。なんの(わだかま)りもなくて、まっすぐに匠を見ている優歌ちゃんをうらやましいと思った。

 譲と結婚して幸せじゃないなんてことはない。そう云ったらきっと天罰ものだ。それよりはむしろ、幸せと感じることが、わたしにとっては天罰のように感じ始めた。
 それに伴って、いつ壊れるのかと不安で不安でどうしようもなくなった。意地悪できれいじゃなくて。
 譲ももし優歌ちゃんみたいな子と会ったら、わたしがきれいじゃないことを知ったら、匠みたいに背中を向けるんだろうか。
 そう思いたくなくて、理由が欲しくなった。

 仕事のことで相談があるの。そう云って、レストランで会った日以来、はじめて呼びだした。
 匠もまたいつもまっすぐで裏切ることをしない。その実直さを退屈と侮辱したにもかかわらず、なんの(こだわ)りもないかのように、仕事という口実だけで応じてくれた。
 その挙句、わたしが云いだしたこと。
 匠、お願いがあるの。一度でいいから。
 そこから先の意味は自分の手に託した。その腕に手をかけたとたん、匠の目が嫌悪に満ちた。
 匠はすぐに帰って、それでもやめられなくて、今度は電話した。
 わたしはずっと匠を――。
 そう、ずっと云えなかった一言を云いたくて。
 場違いな発言は匠の舌打ちにさえぎられた。それから口を挟む間もなく匠が云ったこと。
『旦那はやり手のコンサルタントだって聞いてる。でたらめな奴じゃないらしいし、なんの不足がある? そういう奴に惚れられるんだ。おまえはもっと賢明にやっていける。おれはそう思ってきた。幻滅させないでくれ』

 そのときになってはじめてわたしは知った。
 相談を口実にした誘いをずっと断っていた匠が、どうしてあの日、わたしの呼びだしに応じたのかも。
 譲のことをどこから聞いたのか、匠はそれできっと安心していた。
 都合よく考えれば、ずっとわたしのことを気にかけていたのかもしれない。
 匠が昔のわたしの愚かさには少しも拘っていなかったこと、わたしが頑張ってきたことを認めていること。それは、何度わたしが愚かなことをやろうと、匠がずっと付き合ってきてくれたことで証明されていた。
 わたしはいままで何を拘ってきたんだろう。
――おれにはいま大事にしたいものがある。美里、おまえがいま本当に大事にしたいのはなんだ?
 そう訊かれて、わたしはわたしを嫌悪した。
 ずっと匠を。
 それ以上、わたしに喋らせないように匠がさえぎってくれたことは最悪の中の唯一の救いかもしれない。
 匠の口から結婚という言葉を聞いても、理由が欲しいと願っただけで、優歌ちゃんから奪おうとか、嫉妬を感じたわけじゃなかった。そのことが、匠への気持ちがわたしの中ではとっくに整理できていたことを示しているのに。
 いいかげんにやっていた頃の自分を否定したくなくて、匠に認められたいというよりは、ただ認めさせたかった。
 その呪縛はいつまでたっても解けなくて、譲に打ち明けられないでいる自分のずるさも嫌になって、呆れられてしまうことが怖くなって、その果てにどうでもいいと自暴自棄になってバカなことをした。あの店で、壊したくないと思い直したことはなんにもなっていなかった。
 譲は譲であり、不審なんて似合わない人。
 そう知っているのに、わたしは譲までも侮辱している。


「譲、ちょっと歩きたい」
 歓迎会からの帰り道、タクシーの窓から見えるマンションはだんだんと視野を占めていく。
 このモヤモヤを抱えたままで、いつまでも平気ではいられない。このまま家に帰りたくない。ふたりの住処(すみか)(けが)している気がした。
「わかった」
 譲はすぐに応じてタクシーの運転手に指示をした。タクシーはマンションまで続いている歩道脇で止まり、わたしは先に降りた。
 風が通り抜けて、ワンピースがふわりと浮いたけれど寒くはない。高くそびえるマンションは、まもなく十時というのにまだどこもカーテンは開けっぱなしのようで、部屋の灯りが数えきれないほど溢れている。

 この場所は、近くに高さを競合するビルがなくて、見晴らしは申し分ない。
 プロポーズされた日、このマンションに連れてこられて、譲が十五階という最上階で暮らしていると知ったのだけれど、本当に高いところが苦手なのかと疑いつつ、窓の鍵、動くよ、と指摘すると、すかさず、美里のためにリムーバーで()がした、という、間に合わせの返事が返ってきた。
 ふざけているのは明々白々で、怒る気になれないくらい笑ってしまった。
 まるっきりあのビルでの言葉が嘘だったという証拠が取れたのはそのあと。
 ベランダに出て夜景を眺めていると、背後から譲の手が伸びてきてわたしの手の外側でそれぞれ手すりをつかんだ。背中にぴったりとくっついた譲の躰は怖さに震えるでもなく、ただしっかりした鼓動を感じた。
 それからのことは、高校生以来のことにものすごく緊張して、あまり覚えていない。
 強いていえば、ヴァージンでもないのに譲をきつく感じたこと、経験のない感覚にさらわれたことを覚えている。抱きしめられたまま眠る、なんていうのははじめてのことで、寝つくまでに時間がかかったことも覚えている。
 胸を(くる)んだ手のひらに、わたしの鼓動が伝わっていたんだろう。
 大丈夫。眠って。
 背後からのこもった声に安心してわたしは笑った。
 何?
 気持ちいいなって思って。
 わたしが答えたら、今度は、光栄だ、と譲が笑った。
 あんなに、とてつもなく、素直に幸せだと感じたことはない。

「寒くないか? 気分悪くなった?」
「ううん。どっちも大丈夫」
「じゃ、行こう」
 促すと同時に譲の手が伸びてきて、わたしはかすかに首を振った。
「先に行って。ついてくから」
 譲はほんのわずか、じっとわたしを見て、それから小さく肩をすくめ、マンションのほうへと歩きだした。タクシーが脇を通りすぎる。譲の歩調はゆっくりとしていて、わたしは広い背中を追っていった。
 話を切りだすのには勇気と時間がかかる。何から云えばいいか思いつかないまま歩いているだけで、ともすれば立ち止まりそうになる。黙ったままでいるうちに、めずらしく譲も一言も口を開かないことに気づいて、わたしは足をふと止めた。
 あとから来るヒールの音を気にしていたのか、譲もまた足を止めて振り向いた。それでも何も云わなくて、ただ譲はわたしを待っている。
「譲」
「何?」
「わたし……譲を裏切ってる」
 つぶやくようなかぼそい声しか出ない。三歩先にいる譲は、居酒屋で質問に答えながらわたしに向けたときと同じ眼差しで見つめてくる。
「どういうこと?」
「みんな、わたしのことをきれいだって云うけど、わたしはきれいじゃないの!」
 半ば叫ぶように云うと、譲は目を細めた。それからちょっと目を逸らして、またわたしに戻ってきた。
「話したいこと、もしくは話すべきと思ってること、全部云えばいい。まずは聞くよ」
 低い声は穏やかでかえって云いづらくさせる。声の裏に潜んでいるのはなんだろう。
 それがなんにしろ、ここで云わなかったら、不安は終わらなくて、平凡に笑える時間さえも始まらなくて。もしかしたら始まるのはゼロ未満から。それでもまた、譲に向かえるのなら頑張れる。


――匠のこと。ふられたって云ったけど、正しく云えばわたしが裏切ったの。付き合ったのは匠がはじめてじゃなくて、中学の頃から、告白されたら付き合うってこと繰り返してた。
 最初の人と……やることやって……怖かったけど、好きならあたりまえだって云われてそうなんだって思って、だからそれから男と女が付き合えば普通のことだって思うようになったの。
 でも匠は半年くらい一緒にいてもそういうこと全然しなくて不思議だった。そういうときに別の子に告白されて、匠はわたしのこと好きじゃないのかなって疑問に思って不安になった。匠は好きとかそういうこと云わないし、告白されたって話しても反応しないし、じゃあ、わたしがほかの子とデートしたら何か云ってくれたりするのかなって思って。
 そうしてみたら、匠は呆れちゃって、それで終わり。おまえの好きってなんだ、って匠に訊かれたの。そのときにはじめて気づいた。好きっていうのは“気持ち”だってこと。
 自分が汚いって思った。
 それまでのこと全部が否定された気がして、それを取り戻そうとした。自分で云うことじゃないけど頑張ってきたつもり。とにかく匠に認めてもらいたかったし、やり直せたらって思った。業平まで追いかけたの。
 でも、好きってこともやり直したいってことも云えなかった。云ってもダメだっていうのがわかったから。
 それで惨めになって、認めてもらえるって場所が欲しくなった。だからまた告白されるたびに付き合うようになった。そのときしてたことは、譲が知ってるとおり。
 匠は堅物で、好きな人がいたこともなくて、出世のために中国に行って。わたしにはあんなこと云ったくせに、匠自身が好きっていうのがわからない人なんだって結論が出たの。
 そういうとき、譲と会った。それで匠のことは乗りきれたんだって自分では思ってたのに、匠は中国から帰ってきたらいきなりで結婚するって。それで、また混乱したんだと思う。だって、好きがわからないのに結婚て理解できないし、相手が優歌ちゃんで、優歌ちゃんはきれいで、きれいじゃないわたしだから、匠は受け入れてくれなかったのかなって。
 譲もいつか、って思った。それであの店で、譲にも同じこと……。
 結婚してもそういう不安は消えなくて。
 半年まえに匠たちとレストランで会ったよね。あのとき、ふたりがすごく普通に幸せそうで、不安が一気にふくらんだ気がする。その不安を消したくて、匠に保証を求めた。匠が結婚した理由が、きれいということじゃなくて、優歌ちゃんに肩書きがあるからということなら納得できるから。
 一カ月まえ、わたし……匠を誘ってしまったの――。

 曖昧な云い方をしたけれど、譲はその意味を()み取ってくれるだろう。
 わたしはやっぱりずるくて、そのあとの解釈は譲に任せた。
 息の詰まるような沈黙が満ちる。通る車のライトが譲の顔を照らし、見つめられていることに耐えられなくて顔をうつむけた。
「バカバカしい」
 吐き捨てたと同時に譲は(きびす)を返して歩いていく。その足音も怒っているように聞こえた。殴られなかったことが不思議なくらい、怒るのは当然のことだ。
 でもまだ云っていないことがある。云いたいことを云えなかったことの後悔。そんなものはいらない。(やま)しさを(さら)すことで譲から軽蔑されることは仕方ないとあきらめたけれど、譲自身のことをあきらめたくない。
 顔を上げると、いつものようにわたしの意思が見えているのか、十歩くらい離れた場所で譲の足が止まる。振り向いた譲の表情は、すぐ背後にある街灯のせいで影になってわからない。
「早く帰るべきだ。風邪ひいたらだめだろう」
 譲。譲ってどうしてこんなふうに……わたしを認めてくれるの?

「譲! 匠のことがずっと好きだった。でも、譲と会って、いまは譲が好き。“好き”じゃ足りないくらいずっと好きだから! またいまから、譲に追いつけるように頑張らせてほしいの! きっと、どこまでだって頑張れるから。それくらい好きだから!」
 いまじゃなきゃ云えないこと。いまだから云っておくべきこと。高校生みたいに幼稚な告白でも。
 だれよりも譲に、何よりずっと伝えたかったことを本心から云えたいま、このまま世界が終わってもいいと思った。きっと目に見えるものがすべて消えても、この気持ちは続いていくと思えたから。

 譲が漏らしたのは、呆れたため息なのか笑い声なのかわからない。
 立ち尽くしているうちに譲が戻ってくる。
「美里、おれに追いつくために頑張る必要はない。おれは、ついてきてないと思ったら戻ってくるから。もしも、美里が上戸さんとさっきほのめかしたような関係を持っていたとしても、おれは別れる気はない。逆に縛りつけることはあっても。たぶん、逃げたくなるのは美里のほうだ」
 譲は誤解もしていなくて、ただ生真面目に身に余るような言葉を吐いた。きっとわたしは、これまでにないくらい驚いた顔をしている。
「譲……わたしにそんな価値ないよ」
「美里にどんな価値をつけるかはおれの勝手だ。プロポーズした日にマンションに連れてきて、美里がはじめてみたいにドキドキしてたのも、不安か、もしくは怖がっていたのもわかってる。おれがせっかちに進んで美里にちょっときつい思いさせたことも知ってる。おれにはそれで充分すぎるよ。あんまり云いたくないけど、美里が汚いっていうんなら、おれのほうがもっと汚い。付き合うこと以前に“やることやってた”から。つまり、美里が拘ってきたことは、さっき云った『バカバカしい』に尽きる。おれなら、それだけ美里は素直だって解釈する」
「どうして……そんなふうに考えられるの?」
「どうしてなんだろうな。ここ最近、美里が何かに拘っていたのはわかってたし、それ以前から抱えているものがあることもわかってた。終わりだとか云うんなら、とことん問い詰めてやるって思ってたけど」
 譲は中途半端に言葉を切ると、口を歪めた。笑っているように見えて、けっして笑っているわけじゃない。むしろ逆に――苦しそうに見える。
「譲、誤解しないでほしいの。譲を信頼してないわけじゃなくて、わたしが自信なくて、勝手に不安になってただけ」
「当然だ。念のために云っておくと、怒ってないとは嘘でも云えないほど腹が立ってる。けど、それに目をつむらなくちゃならないほど、おれは美里に拘ってるんだろう。つまり、惚れた弱みってやつ。因みに、好きなら抱きたいってのはあたりまえだっておれも思う」
 すました譲はやっぱりわたしを笑わせた。
「わたしもその意味、いまなら断言できる」
 そう返したら譲は笑った。そしてつと目を逸らし、額にかかった髪をかき上げると、またわたしに視線を戻した。

「家に着くまでちょっと余裕を補給しないと。さっきの告白、効きすぎだ」
 苦笑いした譲は直後、背中に回した腕で押しつぶしそうなほどにわたしの肩を引き寄せた。
「おれも云ってなかった。云ってたら不安にさせることもなかったのかもな」
 頭上でつぶやいたあと。
「美里、愛してる」

 譲――。
 告白されてうれしいことはあっても、泣くことがあるとは思わなかった。
 はじめての恋には戸惑って迷って終わりが来ても。
 譲には終わりのない、続いていく恋(ラスト・ラヴ)を捧げたい。
 わたしからの、最後の恋、を。

− The Conclusion. − Many thanks for reading.

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あとがき
2010.08.11.【最後の恋】完結
最後の恋、英語にするなら『Last Love』
『last』は「最後」という意味のみならず、「続く」という意味もあり、そこから、最後とはつまり、終わらないということ。そんな解釈のもと、最後の恋ができたらという憧憬を込めて。
この主人公たちは、知る人ぞ知るふたり。
あのふたりの裏ではこんなふたりのラヴストーリーもあったわけで…というところも楽しんでいただけたら幸に思います。  奏井れゆな 深謝