眠れないほど好き
何度でも恋をする -second-
「大道さん、これ、総務部に頼む」
昼休み間際、電力インフラ課の課長室を出て声をかけると、情報処理班に所属する大道礼維が席を立った。
「はい、加藤課長」
即座に引き受けながらも、彼女はどこか反抗心を感じさせる雰囲気で応じた。
書類を取りにきた彼女は正面に止まると、おれの顎の下までしかない背をぴんと伸ばし、かすかに尖った顎をつんと上げた。いつもこうだ。おれが勘繰りすぎているのだろうか。
彼女は大学卒業したこの春、入社してきたばかりだ。ふわりと波打った長い髪を二つに分けて耳の下で結んでいる姿はまだ学生っぽい。それなのに態度だけはでかい。業平に入ってくるだけあって、仕事の覚えも早く優秀ではある。だが、ここにいる彼女にとって、班長というワンクッションがあるとはいえ、おれは直属の上司であり、年齢にしろ、おれのほうが九才も年上であり、あまつさえ、この業平商事では次期後継者としてあることは承知のはずだ。
なんでだ?
と思っていると、きれいに伸びた指を見せびらかすように彼女は封筒を受けとった。それから――顔を上げると出し抜けに笑顔になった。
……なんなんだ。
この当惑の循環もいつものことだ。
「預かります」
大きな瞳にふっくら気味のくちびるという、あどけない顔に似合った、たんぽぽの綿毛みたいな声だ。
「ああ」
何気なさを装って端的に返事をすると、彼女はかすかに頭を下げて踵を返した。その背中を見送りながらため息をつく。
呼びつけるのはほかの人間でもかまわないものを、あの笑顔が待っているから、つい呼んでしまう。
だめだな。
意味もわからずつぶやいて、自分の手の甲を見下ろす。筋になって残ってしまった傷が罰を与えるかのように疼く。なぜそうなるのか、やっぱり訳がわからず、おれはまたため息をついた。
課長室に戻ってまもなく正午になると、秘書は社員食堂へと昼食を調達しにいった。課長代理である水辺が一区切りついて伸びをする。
「加藤課長、身持ちが堅いのもけっこうですが、もうそろそろ身を固められてはいかがです?」
斜め向かいのデスクにいる水辺は、いきなりプライヴェイトなことに触れた。
現社長でありおれの父親である、加藤業弘のまわし者かという発言は、いま気の利いたふうに云った水辺に限らない。三十二歳になっても一向にその気がないと思っている創業者一族は、おれの結婚についてやきもきしているのだ。
なぜいまそんな話題になるのかといえば、おそらく今日がクリスマスイヴだからだろう。今朝、予定がないと云ったばかりだ。
「よく云われる。まだ考えられない」
「ですが、課長のお子さんはいずれ我が社を継がなくてはなりませんし」
水辺は生まれてもいない子供の話を持ちだし、おれは苦笑いを浮かべた。
「余計なお世話だ。将来に子供がいるとしても、おれは後継を強制するつもりはない。世襲が当然といった時代じゃないだろう」
「ですが……」
またもや『ですが』を口にした水辺は、やはり父の手下だろう。有能なゆえに一目置かれているのはさておいて、おれより年下とはいえ、自分が二十九歳という適齢期でありながら独り身であるということを棚上げしている。
「ふーん、だれでもいいのか?」
「こうなれば」
おれの言葉を前向き発言と取ったらしく、水辺は無責任にも深くうなずいた。
あいにくと、おれにとって『だれでもいい』とはけっしてならない。その気がないわけではけっしてなく、できない理由がある。
父に反抗して進めていた就職活動をことごとく妨害されていた大学三年の冬。いまとなっては、なぜあのときに女の子を探さなかったのか、後悔している。ただ、おれが追うことで怖がらせたくなかった。
もう探そうとしたところで、あの頃の面影は消えているかもしれない。もし見つかったとしても、変人扱いされるのが落ちだ。一歩間違えればストーカー容疑で逮捕に及ぶ。自分でも律儀すぎる気がしている。半ば……いや、百パーセントに近く、もう会うことはないとあきらめた。
あきらめた、という気持ちのもとがなんなのか。それは自分が異常者のような気がしてあんまり認めたいものではない。
「そのうち、な」
曖昧に答えたはずが、水辺は目を見開く。
「結婚なさるんですね!」
明らかに勘違いした発言が云い終わるや否やのうちに小さなノックの音が立ち、「失礼します」とあの声が侵入してきた。
責めるような眼差しで見られていると思うのはおれの錯覚か。
「これを預かってきました」
その声はいつになく堅苦しい。
「ああ。ありがとう」
手渡しで受けとった――つもりが、抵抗するように彼女の指に力が入ってすんなりは受けとれなかった。問うように見上げたとたん、彼女は封書から手を離す。出ていくかと思いきや、今度は不自然に留まっておれを見下ろしてきた。
どうかしたのか。そう訊こうと口を開きかけると、彼女はそれをさえぎるように一礼をして課長室を出ていった。
なんだったんだ?
そう思いながら閉まったドアを見つめ、それから手もとの封書に目を落とした。
『親展』
そう書かれた封を開けると、入っていたのは明らかに仕事ではない“招待状”だった。
*
夜の八時まえ五分。
招待どおり、ビジネス街から裏へと入った通りをずっと奥に歩いて、目当ての店を見つけた。店に入ると、ドア鈴の音と一緒にピアノ曲が聞こえてくる。
二歩なかに進むと、はじめて入ったおれを見て、マスターと思しき、五〇歳くらいのスマートな男が手招きする。
「コートはそこだ。何を飲む?」
年中、そうなのか、カウンターの向こうに渋面でいるマスターは、出入り口の傍にあるコートかけを指差して訊ねた。
「ノンアルコールならなんでもいい」
マスターは鼻で笑い、背を向けて勝手によそい始めた。
コートをかけてから空席のカウンターに戻ると、スツールに腰を引っかけた。それから、ゆっくりと店内を見渡した。
いかにも常連が多そうな感じで、ピアノを囲むように配置したテーブルが六つしかなく、こぢんまりとしたピアノバーだ。そのテーブルもいまは一つしか空いていない。逆に、テーブルが空いているというのに、グラスを手に持ち、壁にもたれて立ったまま話している奴もいる。クリスマスイヴのせいか男女のカップルだらけだ。
中央にあるグランドピアノはぴかぴかしていて、異質なくらいの存在感がある。弾いているのはほっそりした女性だ。ふわふわと長い髪をおろしているせいで、角度的にここから見えるはずの横顔もわからない。
「どうぞ」
飲み物が出されるのはわかっていたはずが、勧められた声はとうとつに感じた。思いのほか自分がピアニストの指先に見入っていたと気づかされる。
向き直ると、でこぼことカッティングの洒落たグラスが目のまえにあって、気泡が立っている。なんの炭酸水かと一口飲んでみれば、胃が焼けるようにかっとした。
酒が嫌いなわけではない。飲まなくなっただけのことだ。付き合いの必要上は飲むものの、口をつける程度で、それだけにいま酒の効力は増す。
「マスター、なんの酒だ。飲まないって云ってる」
「やけ酒だ」
「……」
にやりとしながら訳のわからない返事が来て、おれは怪訝に眉をひそめる。
それから口をつけずに意味のない抵抗をして待った。
何を待っているのか。それは招待した人物だ。だれだかはわからない。
名無しの招待状を持って、大道礼維のところに行けば、総務部から預かりました、とつっけんどんに返され、総務部に行けば、とある方からの依頼です、としか云わない。そのうえ、行け、の一点張りだ。社運がかかっているという脅しまでかけられた。
暇潰しが必要なほど暇ではないが、総務部が仲介しているとあれば怪しいこともないだろう。取引先か何かの接待か、そう考えつつやってきたものの、約束の八時をすぎてもなんの音沙汰もない。
帰るか。
十分を待ってそう決め、躰ごとスツールをまわした。
「マスター、いくら――」
つと、口を噤んだ。
どこかで聴いた曲が流れてきた。ジャズ調にアレンジされているせいだろう、なんの曲かとっさには思いだせない。けれど、やけに気になる。
「マスター、彼女、話しかけていいかな」
考えるよりさきに訊ねていた。マスターは渋面を崩し、おもしろがった表情で肩をすくめた。つまり、どうぞということだろう。
スツールをおりると、奥のピアノに向かった。演奏の邪魔にならないよう、彼女の斜め後ろで待つ。と、その姿勢はだれかと似ていると思った。
だれだ?
そう思いながらピアノを奏でる指先へと目を落としたとたん、“もしかして”と“まさか”という言葉が交差した。
動悸がするのは気のせいか。彼女の指がふわりとピアノから離れ、ゆっくりその脚に止まると。
「大道さん?」
ここでも考えるよりさきに口をついて出た。
椅子をおり、二〇センチほど段差があるステージをおりた彼女は目のまえに来て立った。おろした髪に、ステージ衣装なのか、躰に若干フィットしたミニワンピースという姿が昼間より大人っぽく見せている。
「加藤課長、わたし、クビですか」
「なぜ?」
「大学からの名残で、たまにここでバイトしてます」
「さっきの曲、何?」
答えるかわりに疑問を投げかけると、彼女はちょっとおれを見つめたあと、ためらうように首をかしげた。
「“アメージンググレイス”っていう賛美歌です。……知ってますか」
「いや、聞いたことはあるけど曲名まで知らなかった」
すると、まずいことを云ったあとのような、どことなく不自然な沈黙が漂う。その緊張を緩和させるように、店内のスピーカーからピアノ曲が鳴りだした。
彼女を見ていると奇妙な感覚に襲われる。忘れたくない、いや、忘れられなかった面影を忘れてしまいそうになる。
「加藤課長、来て」
彼女は部下らしからぬ言葉遣いで誘い、おれが座っていたカウンターへと行く。
爪先立って腰をひょいとあげ、やっとスツールに届いた彼女は、中身が少しも減っていないグラスを見て顔をしかめた。――というよりは、かげらせた、か?
それから顔を上げた彼女は、あの挑むようなしぐさで顎をしゃくった。
「飲んで」
「飲まないんだ」
「……これじゃなかった?」
「何が」
「やけ酒」
マスターと同じことを云う。
「意味がわからない」
今度こそ彼女はあからさまに顔をかげらせた。
「大道さん」
「今日は、礼維って呼んでくれたら嬉しいかも。クリスマスプレゼントはそれでいいから。お返しも欲しいならあげる」
彼女は砕けた云い方で強引だ。気分がころころ変わるのは彼女らしいといえば彼女らしいのだろう。
「招待状は大道さんが?」
そう訊ねると、拗ねたように彼女はそっぽを向く。何を見ているのか、そのまま横顔を見せていた彼女は、不意におれのグラスを取って口をつけた。そして、ごくごくと喉を鳴らして味わうもへったくれもなく飲み干した。呆気に取られていると。
「マスター、おかわり!」
その様子はまさに、彼女が口にしたやけ酒だ。
「礼維ちゃん、あんまり強くないんだからむちゃやるな。それに、お酒はやけじゃなく、味わって飲むもんだ。お酒に失礼だろう」
「じゃあいい、帰る。マスター、お酒はバイト代から引いてて。加藤課長もわざわざ来ていただいてありがとうございました」
慇懃無礼に云い、彼女はスツールから飛びおりて出入り口へと向かう。ドアの横にあるコートかけから、もこもこしたジャケットを取って袖を通し始めた。
「送るよ」
「はい、礼維ちゃん」
おれが傍に寄ったのと、マスターが彼女のものらしいバッグを持ってきたのは同時だった。
「ありがとう」
マスターへとお礼を口にした彼女は、おれのほうを向いた。
「平気です。いつも独りで帰ってますから」
彼女はおれを突っぱねて、背中を向けるとドアを開いた。冷たい風が店内に入る。おれはマスターの手に一万円札を押しつけると、「楽しいクリスマスを」という、にやついたふうの呼びかけに見送られながら外に出た。
「平気だろうが送っていく」
背後から声をかけると彼女は足を止めた。それから、くるりとこっちを向いて、下からまっすぐにおれを臨んでくる。
「“業仁”さんの家に連れてってくれるなら、そのあと送られてもいい」
時が止まった。
そんなはずはないが、そう思う空気感がふたりの間にはびこる。
あれが見られるなら。
そんな誘惑に駆られる。刹那。
「わかった」
無意識に答えていた。
取り消そうかという一瞬の迷いは、直後の、待っていた笑顔に消えた。
「じゃあ、連れてって」
*
タクシーに乗っている間、まるで緊張しているように彼女の口数は少なかった。おれが話しかけ、相づちを打つといった感じだ。おれにしろ、自分の決断がどういうことになるのか落ち着かなく、気を遣う努力を途中で放棄した。よって、車中はタクシーの無線音だけが耳障りに響いていた。
「女の人の気配ないけど……噂どおり?」
やっと口を開いたかと思えば不躾な質問だ。独り暮らしのマンションに連れてくるなり、彼女は詮索するように部屋を眺めていたが、そういうことをチェックしていたらしい。
「家は聖域だ。それで、どんな噂だ?」
「女嫌いだって」
おれは吹くように笑った。
「挙げ句の果てに男好きっては云われてないよな?」
「それはないけど。でも……」
彼女はまたそっぽを向く。
「“でも”、何?」
「結婚、しちゃうんですね。それなのにイヴが空いてるとか、わたしを家のなかに入れるとか、やっぱり無関心で冷たい」
結婚という噂までがあるのかと驚き、そして、不当な云いがかりに呆れたが、それよりは『やっぱり』という彼女の云い方と、それに繋がる『無関心で冷たい』が妙に引っかかる。自分に淡々としたところがあるのは否めないが、冷たいと断言されるほど人当たりが刺々しいはずはない。
「やっぱり?」
「……せっかくがんばって業平目指してきたのに……。社長になるの?」
彼女ががんばって業平に就職できたことと、おれが社長になることの繋がりがわからない。
「そのつもりだ」
「……そうなんだ」
彼女は心底から気落ちした様子で、もしや泣くのではないかと思った。
「昔は逆らってたな。後を継ぐってのはきついんだ。特に三代めとなると、苦労を経験していなくて潤った時代しか知らないから厳しい目が向くし、親からの期待はプレッシャーでしかない。なんとかレールをずらそうってして荒れてた頃があった」
何をばかみたいに告白しているんだ? そう思いつつも、彼女から泣きそうな表情が消えると、打ち明けてよかったとほっとする。
「大学のときも?」
どこか納得した声音で、しかも、なぜ大学と限定されるのかはわからないが、おれはうなずいた。
「ああ。けど、その大学のときに覚悟を決めたんだ。贖罪だな」
「贖罪?」
「神様のまえで罪を犯したから。業平にいないと罪滅ぼしは叶わないし」
そう云うとせっかく和らいだ表情が一転、彼女は責めるように睨みつけてきた。そうされる理由はまったく見当がつかない。
「贖罪とか罪滅ぼしとか、くそ喰らえ」
彼女はつぶやくように暴言を吐いた。
それらの言葉が彼女となんの関係がある?
戸惑ったとたん。ぽろりと彼女の目から水滴が落ちた。
なんだ?
疑問に思うのと同時に躰が疼いた。
手が勝手に動いて水滴をすくい、濡れた頬をくちびるが拭う。
触れてしまった――と、また罪を犯した気分になるのはなぜだ。
が、そのためらいも衝動を止めることはかなわず、それどころか彼女をさらった。
逆らうこともなく、彼女は反対にしがみついてくる。
あれ以来のキスはぎこちなかったかもしれない。
欲求が迸り、性急で乱暴になってしまったかもしれない。
ただ、寒い夜にもかかわらず、おれは触れた体温に満ち足りた。
漠然とそう感じる眠りだった。
それなのに、朝になると彼女は消えていた。
夢じゃなかったと教えたのは、広いベッドの真ん中に残った、昨夜、おれが察したとおりの、一滴の赤いしるし、だった。