眠れないほど好き
何度でも恋をする -latter-
加藤業仁の聖域で抱かれた夜。
“礼維”とは呼んでくれなかったけれど。
抱いてくれた腕はがむしゃらに感じた。
もうそれだけでいい。
――というのは、強がりと云えなくもない。
そっと抜けだした腕は、意思が不在でもわたしを引きとめる力を持っている。
でも、『結婚なされるんですね』とその水辺課長代理の言葉が、わたしと加藤課長の間を決定的に引き離した。
総務部のお局さまたちにごくプライヴェートなことを――それが次期社長に関することである以上、首になるかもしれないと覚悟して――打ち明けて、引き受けてもらった招待状は役に立たないかもしれない。そう思ったけれど、反対にラストチャンスだった。一縷の希望を持って、全部めちゃくちゃにしても――仕事を失うことになっても、気づいてほしいという気持ちだけは叶えたいと思った。
加藤課長は、男性としての条件はこれ以上になく、特別な女性がいてもおかしくなくて、それでもいないのは、“わたし”に対する誠実さだと思った。それを裏づけるように、これまで、お酒の席でもふざけた加藤課長なんて見たことがない。
そのうえで、結婚する相手がいるということがどういうことかと思っていたら――誠実さが、贖罪とか罪滅ぼしとか、そんな言葉で片づけられているとは思っていなかった。
考えてみれば、大の大人が小学生に恋するわけはない。そんな肝心なことがわかっていなかったわたしは、まだ子供で愚かしい。
眠る加藤課長の切れ長な目は、閉じられていてもきれいに目尻へと弧を描いている。絶妙の角度で高く伸びた鼻、上下のバランスがいい薄めのくちびる。
どんなときでも思いだせるように、わたしは自分の目に焼きつけた。
*
朝になっても、躰の中心にはちょっとした違和感が残っている。
加藤課長は避妊していたから赤ちゃんが宿っているはずはないけれど、わたしは気づくとそんな大切な気分でおなかをそっとかばう。
会社のエントランスが見えると、バッグを抱え直して腹を据える。なんに対してそうするのか、自分でもよくわかっていない。
いちばん怖いのは謝罪が見えること。
そんなものは後悔よりも欲しくない。
一つ深呼吸をすると同時に会社のエントランスを潜った。業平商事は他人の集まりなのにファミリーという言葉が似合う。会う人、追いつく人と挨拶を交わしながら、人の流れに沿って正面にあるエスカレーターへと向かった。十歩くらい進んだそのとき。
「話がある」
云い終わるより早く横から腕をつかまれて、息が止まるくらいびっくりした。人通りをさえぎるように立ち止まったわたしを無理やり引っぱって、その手は、受付とは反対にある待合ブースに連れていった。
加藤課長は腕を離して、対峙したわたしをじっと見下ろす。その眼差しは語りかけるようで――もしくは疑問を投げかけるようで、批難しているふうには見えない。
「加藤課長……やっぱりクビですか」
沈黙に痺れを切らして――それよりは耐えられなくて、わたしから口火を切った。
「呼び方が違ってるな」
それがどんな意味を持つのか、わたしは曖昧に首をかしげる。
「もういいです。がっかりしたけどうれしかったから」
加藤課長は酷く眉をひそめた。いつもと違って表情が筒抜けだ。その気分と同じく、次に向かってきた声は険しい。
「なんなんだ? 云いたいことがあるなら云ってくれ」
その云い分にかちんときた。怒っているのはこっちのほう。いったん、くちびるを尖らせるという自己主張に出たわたしは、捨て鉢になって口を開いた。
「がっかりっていうのは、責任取るって云ったのにわたしをわかってくれないから。加藤課長なんて大嫌い」
わたしはろくに加藤課長の反応も見ないで、「じゃあ」と身をひるがえす。清々した気分と焦った鼓動がわたしのなかで闘っている。どっちつかずの意思に、足がもつれそうになったそのとき、また腕をつかまれて引き戻された。
「どういうことだ」
ぴんとこないなんて頭が悪すぎる。
「贖罪とか罪滅ぼしとか時効にしてあげます。加藤課長の聖域で抱いてくれたから」
加藤課長の表情が静止した。
タイミングを計ったように、常時エントランスに流されているオルゴールの曲がアメージンググレイスに変わる。そう気づいて、ふと視線を横に向けると、観葉植物のすき間を通して、受付のカウンターにお局さまがそろって待機している。
打ち明けてしまった以上、好奇心が湧くだろうことは覚悟していたけれど、露骨すぎてちょっと不安になった。
そのうえ。
「この曲だ」
そう云って、加藤課長はいきなりで笑いだした。
呆気に取られて、直後には腹が立つ。
笑うことじゃないのに!
くちびるを咬んで、精いっぱいで睨めつけた。
「怒ることじゃないはずだ。ヴァージン捧げてくれるほどの気持ちがあるんだろう?」
それと笑うことがどう繋がるのかさっぱりだ。
「見られてますよ。どうぞ、お幸せに!」
そう云い捨てて、腕を引こうとしても放してくれない。
「それは、礼維がおれに云うことじゃない。ふたりで云われることだ」
名まえで呼ばれたことより、その発言に目が丸くなる。
「結婚する人がいるって……」
「何を誤解してるか知らないけど、そうする相手は十一年まえに決めている」
「……わからなかったくせに」
「けど忘れてない」
「でも、昨日はわたしと……。十一年まえのわたしを忘れてた」
「入れ替わってしまうんだ」
「……入れ替わる?」
「記憶にある彼女が、礼維と。無意識にそうなるってある意味、わかってたってことにならないか。おれは、礼維からそう聞けるのをずっと待っていたんだろう」
しばらく、睨み合いとまがうような様で見つめ合った。
「加藤課長ってやっぱり営業マン」
「どういう意味だ」
「口が上手いから」
加藤課長は笑った。心なしか、その面持ちはほっとしているようにも見えた。
「異説として、十一年まえの彼女に恋してきて、いままた礼維に恋してる。結局、おれにはそれしかないということになる」
込みあげてくる熱い塊を飲み下しているうちに、加藤課長は続けて口を開いた。
「礼維、責任を取らせてほしい」
ふたりだけに通じる合言葉だった。
「わたしが云わなかったら……?」
「女の子のことを打ち明けるつもりだった。そしたら白状してくれるはずだ。我慢できる性格じゃないだろ? 結果は一緒だ」
加藤課長にはからかう余裕があっても、わたしには逆に不安が押し寄せてくる。その気持ちそのままにうつむいた。
「わかってくれてもだめだって思ってた」
「どうして」
「身分が全然違ってたから」
「おれをこういう身分に持ちあげたのは礼維だ。ここで待ってた。トップに立つ決心にしても結婚に関しても、おれの家族が礼維に感謝することはあっても、異を唱えることはない」
そう云われても心細さは残る。
「大丈夫……かな」
そのままを吐露して顔を上げると、加藤課長は顔を斜めにしてわたしのすぐ正面にまでおろしてきた。
「重要なのは、責任取られたいかってことだろう?」
ほんの間近で返事を迫られる。
ずっと習っているピアノ。小学生最後の年。もし見つかっても叱られるだけですむ。そんな無謀な打算のもと。
一度でいいから。弾いてみたくて忍びこんだ。
その夜に。
誓いを立てた。神様のまえで。
誘惑と闘ったすえ、わたしはまえのめりになる。
そしてまた。
誓いのキス。
立会人から歓声が湧いた。
− The Conclusion. − Many thanks for reading.
Published in 25 Dec. 2011. Photo owned by 純愛ジュール.
* 他の物語でちょっとだけ出演する加藤社長の若かりし頃の話