眠れないほど好き

何度でも恋をする -first-


 教会で犯した罪。
 天使にキスをした。


 * * * *


 夕食のちょっとまえ、こっそり家を出ると、沈んでしまった太陽を追いかけるように、五〇メートル走よりちょっと長い距離を歩いた。雪がちらつくなか、自分の息が目のまえで白く変わる。そんな寒さも忘れるくらいに、緊張とわくわくした気分とごちゃまぜになって、わたしの足は(はや)った。
 目指す教会はそびえるようというよりはひっそりとしていて、遠目から見ても古びている。クリスマスの一週間まえになると、不用心にも二十四時間、なかまで開放されている。
 ステンドグラスがはめられた扉を開け、なかに入ってチャーチチェアを見渡す。誰もいなくて、ささやかにうれしくなった。チャーチチェアは、わたしみたいな子供だったら五人くらい座れるだろう。二列並んだその間の通路を迷いなく進んだ。
 チャーチチェアの後ろの部分にある聖書台の下には棚がついていて、本の――たぶん聖書なのだろうけれど、その上にペンケースなどの私物が載って置きっぱなしにされている。それはまるで自分の家みたいで、何度か入ったことはあるけれど、教会と無縁のわたしにはやっぱり不思議な光景に映った。

 そんな教会で何よりわたしを誘惑するのはパイプオルガンだ。
 感情を込めて強弱をつけるピアノと違い、ただ音を張りあげるオルガンは、それでもうるさいとは感じることなく、体内に光が降り注ぐように心地よく沈みこんでくる。
 いま、壁にかけられたランプの灯りが、オルガンケースの木、ホワイトオークを鈍く輝かせていた。わたしは生まれてからまだ十二年だけれど、ずっとずっと昔の温かさを教えてくれる。そんな輝きだ。

 惹かれるように近づくと椅子に座った。そして、六段もある鍵盤のどこにしようかと思いながら、そっと下から二段めの鍵盤に手を置いた。
 足鍵盤はうまく届かないから無視をして、試しに指をおろしてみる――と、パイプオルガンは眠りから飛び起きたかのように大きく息づいた。わたしまで跳びあがる。
 “ミ”の余韻は幻聴なのか、どうしよう、と怖々として息を潜めた。
 後ろを振り返ってしばらく待ってみる。なんの音沙汰もない。
 割れたステンドグラスは紙でふさがれているけれど、またそこも破れていて――もしかしたらわたしみたいな子供の悪戯かもしれない――そのすき間から冷たい風が舞いこんで、一緒に雪を連れてくる。それがランプに照らされて、まるで星が散るようだ。

 神様、ちょっとだけ。

 パイプオルガンに向き直って心のなかで慣れない祈りを捧げ、指はオルガンに息を吹きかける。
 奏でるのはいま習っている“アメージンググレイス”。教会にぴったりの賛美歌だ。
 強弱の調整ができなくて一遍調子なうえ、少し(つか)えるという出来ながらも、わたしはうっとりしてしまう。
 そして、フレーズを二回繰り返したそのとき。

 パチ。パチ。パチ。

 背後から弾くような音が三回、パイプオルガンみたいに派手で緩慢に響いた。
 びくっと酷く肩が揺れて、その拍子に指が頓珍漢なキーを押してしまい、わたしは慌てて鍵盤から手を離してバンザイをした。
 残響のなか、今度は別の音――ハァーックションッ、という明らかにくしゃみが盛大に鳴る。
 だれかいたっけ……!?
 びっくりして転げそうになりながら椅子から飛びおりた。心臓をばくばくさせながらぱっと後ろを振り向く。
 パイプオルガンを離れ、おそるおそるチャーチチェアが並列している間を進んだ。
 一列め、二列め、三列め、そして四列め……に、いた!

 お父さんが会社に着ていくような黒っぽいスーツ姿で、男の人が目を閉じて寝そべっていた。

 寒くないんだろうか……じゃなくて、寒いからくしゃみが出たのかもしれない。コートはボタンが留められていなくて、だらしなくはだけている。
 知らない人には気をつけなさい。そんなお母さんの言葉を思いだしたけれど、怖いもの見たさという子供っぽい好奇心のほうが強い。何より、わたしのアメージンググレイスに立派な拍手をくれたのだ。暖色の照明のなか、じっと顔を見下ろすと、幼心にも作り物みたいに顔立ちがきれいだと思った。
 目を開けたらどうなのだろう。
 そう思いながら上から覗くと、気配を感じとったように瞼が上がった。
 普段はなんてことのない睫毛が意外にも瞳に影を落として、やさしいのか怖いのか、どんな感じなのかさっぱりわからない。

「……しだ」

 くちびるが開くことなくただ動いて、何かつぶやいたけれど聞きとれなかった。無意識に問うように首をかしげた。すると。覗きこんだわたしの頭がつかまれる。驚いて顔を上げようとしたのに、男の人の力は強くてかなわなかった。
 やだっ――と叫ぼうと口を開きかけた刹那。口が柔らかいものに触れた。同時にお酒とわかる香り。
 何!?
 パニックになったすえ、頭の後ろをつかむ手を引っかいた。呻き声がわたしのくちびるに被さる。さらに指先に力を込めた。
「ィテっ」
 その声と同時に頭を解放されたことと躰を引いたことが重なって、わたしは勢いよく後ろによろけてしまう。
「あっ」
 後ろにあった聖書台に躰の脇がぶつかって、がたがたと音が立った。それから、ちょうど椅子と椅子の間に尻もちをつくようにして倒れた。
 椅子にぶつかった左肘がじんと痺れて、うずくまるように左腕を抱えた。すると、通路の向こうで、寝そべっていた男の人が転げ落ちるようにして床に起きあがった。
 わたしの目と男の人の目とどっちが大きいのだろう。怖いと思うより早く、そんなことを考えてしまった。それくらいわたしはびっくりしていて、男の人もそうらしい。

「……子供……?」
 十二才のわたしから見ると、男の人はすごく大人に見えた。だから、男の人にとってわたしは当然子供に映るだろう……小学生は立派な子供だけれど。そんなばかげたことを思う一方で、男の人のくちびるを見てしまった。
「……ごめんな」
 そのくちびるが喋った一言が、さっき何が起こったのかを漠然とわたしに知らせた。それはあまりに衝撃的で、寒さと相まって躰が固まってしまう。
「やけ酒飲んでて……いや云い訳はだめだよな。それよりケガしてないか」
 やけ酒っていうお酒がどんなお酒かは知らないけれど、男の人が近づいてくる、と察したとたん、本能が躰に指令した。チャーチチェアがずれるのもかまわず、立ちあがって壁側の通路に出た。
「おいっ、悪かったって。何もしないから慌てるなよっ。転ぶ……っ」
 忠告どおり、出口寸前で転んだ。膝をしたたかに打ったけれど、わたしのじゃない足音が聞こえて痛みを感じないくらい、逃げなくちゃという気持ちが逸る。

「大丈――おれっ、加藤業仁(かとうなりひと)っていうんだ。業平(なりひら)商事って会社に来たらわかるよ。責任取るからっ」

 パイプオルガンよりも大きな叫び声は慌てふためいて追いかけてきた。
 業平商事という会社も責任を取るというのも意味がわからない。

 ただ、それから。
 触れたくちびるを思いだすだけで――怖くもなく、()むわけでもなく、なんだろう……鼓動が締めつけられるように痛んだ。

 *

 当時は、鍵盤が六段もあるという特別な価値がわからなければ、ずっと(くすぶ)ることになった、胸の痛みの理由もわからなかった。
 それがわかるようになって、そして、わたしは今年の春、業平商事にやってきた。

 三十二歳。女性の影がないという噂のもと、独身。クールなくらい落ち着いていて、やり手の上司。
 そんな情報は、“わたしの見る目”という点ではほっとさせた。
 見ず知らずの、しかも小学生にキスするなんていう不届き者に恋をしたなんて、わたしはわたしを疑っていたから。
 けれど。

大道(おおみち)さん、これ、総務部に頼む」

 わたしを指名した加藤課長は憶えていない。
 何より、あの男の人が、日本だけじゃなく世界的に活躍しているこの業平商事の次期社長と期待されているということは、わたしにとって最大のショックだった。
 かなわない。でも、せめて気づいてほしいのに。
 そんな気持ちが交差して、わたしはつい挑むように自己主張をしてしまう。

「はい、加藤課長」
 書類を受けとりながら、その手の甲にあるひっかき傷が目につく。
 その痕は消えることがなくて、それがだれだったかは憶えていなくても何があったかは忘れることなんてないはずだ。
 ささやかな喜びがわたしを笑顔にした。
 その繰り返し。
 そうすると、あの頃よりずいぶんと意思のはっきりして見える、整った顔が奇妙に崩れる。その何かを追うような眼差しは、少しもおかしくはない。何か云いたそうなくちびるにキスしたくなる。
「預かります」
 誘惑を振りきるように一礼した。

 三階の営業部から十一階の総務部へとエレベーターで上る。
 新人研修のあと希望した営業部に配属されて以来、加藤課長の依頼はわたしに委ねられることが多くて、総務部に行くのもお馴染みになった。四つある、それぞれの課のお局さまたちとも親しく話せるほどだ。
「お疲れさまです」
「あら、礼維(れい)ちゃん、お疲れさま。また加藤課長? すっかり“ご指名”ね」
 どこか意味深に云われた。
「はい」
 書類を渡したあと、ためらうように留まっていると。
「どうかした?」
「あの……お願いがあります」
「何かしら」
 OLという職業を飛び抜けた優雅さで、経理課のお局さまが首をかしげた。

NEXTDOOR