月の裏側〜幸せの続き〜
第5章 bay the Moon -ミゼラブル-
5.あの場所で
車中、口を開けば不要なことを触発しそうで、鈴亜は一切、自分からは喋らなかった。
田辺も喋らない。
ラジオも音楽も鳴らない沈黙を破ったのは、鈴亜の後ろから聞こえるスマホの振動音だった。
「出ないのか」
田辺は正面を向いたまま、平坦な声で促した。その質問にどう答えれば何事もなくすむのかわからない。
「……出ていいんですか」
問い返したとたん、田辺の手が動いて鈴亜の膝に触れた。スカートの下にくぐり、手のひらが腿へと這ってくる。鈴亜はぞっとするような不快感に襲われた。けれど、それを表に出せば、田辺を刺激してしまう。そう自分に云い聞かせて、こわばる躰からなんとか力を抜いた。
それをいいことに、田辺は無遠慮に手を侵入させてくる。脚の付け根に到達したかと思うと、さらに脇腹に這いあがってショーツに指が引っかかる。それをおろすようなしぐさを見せた。
思わず運転席を振り向くと、田辺がちらりと流し目をして薄気味悪く嗤う。
「脱げよ。制服は着たまま下着を脱げ。上もだ。裸よりだいぶマシだと思わないか」
逆らえば、制服すらも奪うというのか。平坦な声だからこそ、その激情が内部に抑制されているようで怖い気がした。
シートベルトをしたまま、制服のフロントのボタンを外して袖から腕を抜き、鈴亜はキャミソールとブラジャーをどうにか脱いだ。そして、躰をよじりながらショーツを脱いで座席の下にまとめて落とす。
逆らわなかったのは、スカートのポケットに入れたものが見つからないようにするためでもあった。
あの場所――祐真と出会った場所にたどり着くまで、何も起きてはならない。
それはせめてもの希望だった。
いつの間にか、スマホの振動はやんでいた。鈴亜に電話をかけてくる人は限られている。いまいちばん可能性としてある人は日高だ。メッセージの返事をまだしていない。
助けが必要なのかそうでないのか、鈴亜は自分でもまだ判断がつかない。ただ、優先すべきなのは日高のことだった。
田辺は再び鈴亜の脚に触れる。スカートが捲れあがろうがかまわず、手は腿を這いまわった。それ以上を仕掛けてこなかったのは、着いてからのお楽しみということなのか。
触れられることが、“違う”と思う以上に、こんなに嫌悪感を催すことを鈴亜は忘れていた。気を緩めれば身ぶるいを起こしそうになる。懸命に堪えながら、外の景色に意識を集中して到着するまでの時間をやりすごした。
小雨は、その場所で天気が違うのか、降ったりやんだりを繰り返している。
やがて車は三年まえに見慣れていた景色のなかに紛れこむ。住んでいた団地を越え、そして、ヘッドライトのなかに堤防が見える。田辺は、そのすぐ手前にある、祐真の車が止まっていた駐車場へと入った。
当然、祐真の車はもうない。
「スマホを持って降りろ」
車を降り、鈴亜は後ろのバッグからスマホを取ってドアを閉める。田辺が待っている車のフロント側に行くと、すぐさまスマホは取りあげられた。
「さっきのは日高からの電話だな」
鈴亜のスマホを弄っていた田辺は薄らと嗤った。スマホの明かりを下から受けた顔は、やはり亡霊のように不気味に浮かびあがる。
そのとおり、あの日から田辺は亡霊のように鈴亜にずっと付き纏っていたのかもしれない。
防波堤に押し寄せる波がいざなうような音を繰り返している。
「あたしに何がしたいんですか。何をしてほしいんですか」
「まさにそれだよ。おれがしたいようにする、してほしいようにする。それがおまえの義務だ。おれから将来を奪ったおまえが、ほかの男と幸せになろうって虫がよすぎるだろ」
「幸せになろうなんて思ってない」
「なら、云い換える。ほかの男に可愛がられていい気になってる。おれがそれを許すと思うか」
「いい気になってなんか――」
「これを送ってやる。幸せになる気もない、いい気にもなっていない。それなら、日高に見られても平気だろ」
スマホが鈴亜に向けられた。それは最初に田辺が送ってきた写真だ。
嫌っ。拒絶の言葉はすんでのところで呑み下した。いまはもう、かまって助けに来てくれるよりも、嫌われて放っておかれるほうがいいのだ。
田辺は再びスマホを弄ったあと、鈴亜に画面を見せた。
『好きな人と一緒。だから邪魔しないで』
日高からのメッセージに答える形で、送った画像には鈴亜を装うそんなメッセージが付随していた。
嫌われてもいいけれど、見られて平気でいられるはずがない。
「いま東高の監督になって、奥さんは妊娠してるんですよね。将来は奪われてない。ちゃんとあるのに……」
「監督と妻と子供と、そのどこに満足できると思うんだ。おれは、何かあればすぐに首が切られるような監督業に満足はしていない。妻は父親をバックにつけて、おれを見下している」
「見下してなんかいない。そんなふうには見えませんでした」
「一度見たくらいで何がわかる。常に妻の父親から監視されてるんだ。つくりたくもない子供を押しつけられた」
「だったら、別れればいい」
「ああ、そうしようか。そして、おまえと結婚するんだ。いいだろ? 一生かけて償ってもらう」
本気でそう云っているのか、ただ鈴亜の言葉に乗っただけなのか、暗がりのなか薄気味悪いだけで田辺の表情は覗けない。本気だったら、という考えは怖れを生み、鈴亜は無自覚に一歩下がった。田辺はそれに対して二歩詰めてくる。
「あたしは地位も名誉もあげられません」
「そのかわり、おまえは金づるを持ってるだろ」
にやりとした田辺の顔は不吉さを醸しだす。
「……なんのことですか」
「昨日送った写真はベストショットだろ。高い金を払って探偵を雇った甲斐があった。おまえと実習生が話してるのを聞いて十四日はずっと見張らせてたんだ。日高はFATEってバンドの作詞やってるらしいな。FATEといえば、このまえ活動休止したみたいだが、売れてるバンドだ。作曲家なら金は相当に持ってるはずだ。あのマンションを見ればわかる。生徒のおまえに手を出したとなれば、教師業だけじゃない、芸能人としても痛手だ」
「……先生を脅迫するの?」
「何が悪い? おまえを横取りしたんだ。慰謝料は請求して当然だろう」
「先生には何もしないって――!」
「ああ。あいつにしたみたいに殴ったりはしない」
あいつ、とそれは祐真のことに違いなかった。鈴亜のせいで祐真は死に、日高は一生脅迫され続ける。
鈴亜は一歩退いたと同時に、スカートの左のポケットに手を入れた。
「日高先生を巻きこむなんて許さない!」
鈴亜は柄(え)を持って鞘(さや)を取ると、果物ナイフを右手に持ち替えた。左手をそれに重ねながら田辺に向ける。
田辺は一瞬後には事態を理解し、驚愕した面持ちに一変した。
「お、おい、待てよ」
「待たない!」
叫んだ直後、鈴亜は田辺との距離を詰めた。
「あたしのスマホ、返して」
「わ、わかった。返すから刺すな」
「下に置いて下がって……ずっと下がって!」
田辺は、待てといったしぐさで片手を鈴亜に向け、スマホをアスファルトの上に置いた。鈴亜に目を据えたままじりじりと後ずさる。
外灯がわずかしかなく、距離を置いたことで田辺の表情が見づらくなっていく。
この道のさきは港があるだけで、そこを通り抜ければぐるりとまわって街中に戻る。夜になるとドライブの目的以外でそう通る車はない。ましてや今日は、時折、小雨がちらつき、いつにも増して静かだ。田辺の息遣いが聞こえるような気がした。田辺のことだ、きっと挽回のチャンスをいまかいまかと待っている。それは疑わなかった。
そうして、鈴亜もまた、田辺に視線を置いたまま、腰を落とすと半ば手探りしながらスマホを取りあげた。つかんだスマホをちらりと見て、素早く操作する。
鈴亜が立ちあがりかけるのと足音がしだしたのはほぼ同時だった。鈴亜はスマホを取り落としたふりをしてアスファルトの上に放置し、立ちあがった。
ナイフを差し向けた直後に田辺が鈴亜の手首をつかむ。ナイフを奪おうとする田辺の力に敵うはずがない。けれどすんなりとはあきらめず、鈴亜はナイフにしがみついた。
「手を放せっ。抵抗するんなら日高との写真、ばらまくぞ」
「お金、もらえなくてもいいの? 写真で脅すんでしょ!」
「柏木、落ち着け。おまえがおれのものになればいいんだ。日高には何もしない。それでいいだろ」
「信じない。田辺先生はもともと先生の資格なんてなかった。自分が卑怯だったくせに、あたしが責めてるって勝手に解釈して怯えてる。責めてなんかないよ。上の人に逆らえない臆病者だってわかって、がっかりして、先生のことなんてどうでもよかった」
「なんだと」
「ケンカだって、弱いあたしのことは怒鳴り散らして殴れるくせに、相手が強いとわかったら、泣いてやめてくれって云ってたよね。そういう先生を尊敬なんてできるわけないでしょ」
「それ以上云ったら――」
「云ったら何? 本当のことじゃない。自分で自分の将来潰してるってわからないの? 先生は自分じゃなんにもできない臆病者だし、ずっとあたしのせいにしてればいいよ。あの公園で会ったときだって、田辺先生は最初からあたしだってわかってたみたいだけど、あたしは終わるまで全然わからなかった。その程度なんだよ、田辺先生って。あのとき、先生が媚びてた子もとっくに先生のこと忘れてるよ。将来を潰したって云うけど、将来なんて先生にあったの? 弱いモノを暴力でしか従えられないくせに」
「黙って聞いてりゃ……」
田辺の眼差しはこれまでになくどす黒く色を変え、鈴亜の手首をつかんだ手はひねるように動いた。締めつけられてうっ血し、折れてしまいそうな気すらした。手のひらが痛みに負けて開く。ナイフが落ちて、アスファルトと衝突して軽い金属音を鳴らした。
不意打ちで肩を激しく突かれて上体がのけぞる。鈴亜は車のバンパーに膝の裏をすくわれてボンネットの上に倒れた。後頭部と背中をしたたかに打ち、鈴亜の口から呻き声が飛びだす。
「ふざけんなよ」
吐き捨てながら田辺はトレーナーパンツを引きおろした。
そのとき、鈴亜のスマホから着信音が流れだした。田辺はつと手を止めて、鈴亜のスマホを拾った。
「日高か。ああいう写真を見ても懲りないらしいな。柏木、おまえはどれだけ男をクズに堕とすんだ?」
田辺は云いながら下半身を晒し、もがきながら起きあがりかけた鈴亜の脚をすくう。バランスを崩して鈴亜はまたボンネットに倒れる。そこをすかさず、田辺は嘲笑いながら鈴亜の腰を引き寄せた。ショーツを脱がされていて、じかに躰の中心に田辺のそれが当たった。
“違う”ことを求めていたときは何も感じなかったのに、いま全身が総毛立つのは日高を知ったからだ。日高が躰をきれいに戻してくれた。そんな気になっていたのだと、いまになって鈴亜は悟る。
「嫌っ」
「まえはそう云ってなかったな」
着信音はまだ鳴り続けている。日高がすぐそこにいるようで、だったらなおさら、田辺に犯されたくない。
「嫌っ放してっ」
「聞かせてやれ」
卑しく嗤ったような声だ。
なんのことか、考える余裕はなく、足をばたつかせ、精いっぱいで叫んでもやはり鈴亜の望みは届かない。田辺が体内を抉ってくる。引きつった痛みに喘いだ。
「聞こえたか、日高。こいつはおれのもんだ。邪魔すんなよ」
果たして本当に日高と通じているのか、はったりか。田辺は名乗ることなく云い放ったあと、スマホを放った。
「や、めて……ぅくっ……痛い、うっ……」
「このまえは黙ってやられてたくせにいまさら痛いもないだろ。きついが、おまえはそれがいいんだろ。どうなんだ?」
痛みがあっても、確かにそれでよかった。自分が痛みを受けるのは当然だと思っていた。
けれど、いまは違う。
鈴亜は痺れていた手を上げ、田辺の腕に爪を立てた。皮膚に喰いこませ、引きずるように動かすと田辺が獣のようにわめいた。次の瞬間、軋むような音が鳴り響いたのは、頬が叩(はた)かれた音か。その衝撃は脳内まで響き、思考をぼんやりとさせる。
「何をやってる!?」
鈴亜は目を見開いた。
割りこんだ怒鳴り声は日高かもしれない。けれど、日高のはずがない。この場所を知るはずがないのだから。
ただ、鈴亜の躰のなかから死に神が離れていく。
「どうしてここが……」
「鈴亜から離れろ」
田辺をさえぎった声は心底から唸るように聞こえた。核が動く、そんな地鳴りのような不吉さが漂っている。
「はっ。ずいぶんな入れ込みようだな。おれは誘惑されたんだ。しかも二度めだ。こいつは男を堕落させる。おまえを使っておれに嫉妬させるんだよ。手を引いたが身のため……ぐわっ」
鈍い音とともに田辺の呻き声、そしてどさりと落ちた音がした。
「あんたを信じるか、鈴亜を信じるか。おれは、疑うことも迷うこともない。警察を呼んでる。逃げるならいまのうちだ。ただし、いまは逃げられても、これですむと思うなよ。二度とあんたを鈴亜には近づけさせない」
闇という実態のない空間に染みていくような声音だった。
「鈴亜……大丈夫だ」
その声の主が鈴亜の躰をすくう。
「日高先生……?」
「ああ。云いたいことも話したいことも山ほどある」
日高は鈴亜を抱えたまま歩きだした。
「でも……ダメなの」
「だめじゃない。いまはまともに話せる状況じゃない。あとだ。覚悟しておけ」
日高は鈴亜が何をされていたか見ていたはずだ。あの画像も見ていないはずがない。それなのに背を向けることがない。穢された躰を厭わず、むしろ、日高は立ち止まると、鈴亜の躰を労るようにおろした。すぐ傍に日高の車が止まっていて、助手席のドアが開けられる。
合わせられなかった目を上げていくと、日高の瞳が鈴亜を捕らえた。そこには侮蔑も批難もない。あるのは渇望。そんな気がした。
「乗って――」
「柏木っ、おれを認めないかぎり、おまえから大事なものは奪ってやる!」
わめき散らしながら、声は近づいてくる。日高の斜め後ろにナイフを握りしめた手が迫っていた。
日高が振り向いた瞬間に鈴亜は間に入って日高に抱きついた。背中に鋭い痛みが走る。
痛みを呑みこんだ鈴亜とは逆に――
「鈴亜っ!」
日高の腕が躰を縛り、うるさいほど大きな声が鈴亜の名を呼んだ。
熱く爛れていくような感触のなか、背後では死に神が嗤っている。
レア。
祐真の歌うように呼ぶ声が聞こえた気がした。
レアを守れた。それだけでいいんだ。
もっと大きな愛をつかめるよ。
そう云った祐真が笑っていたように鈴亜もいま笑っていた。
「せんせ……を……守れたかな……」
「違うだろっ」
「せんせ……守りたい……それだけでいい……そういう、気持ち……いま、やっと、わかった……ありが――」
「そのさきは、助かってからだ」
振りしぼるような声で日高がさえぎった。
「助かった、ほうが……いいの……? せんせーに、めーわく……」
「それがよけいな心配なんだ! おれの覚悟はだれも邪魔できない。いいか!?」
ずっとほしいと思っていたもの。それはいまの日高の言葉かもしれなかった。心配しなくていいことも覚悟も、即ち、揺るがない在処だ。それでも――
「助かる、かな……」
助かりたい気持ちが自分にあるのかどうか、よくわからない。
「そうじゃなければ、おれは自分を許せない。その意味がわかるな」
「……」
「鈴亜!」
鈴亜は億劫な様で催促にうなずいた。
遠くからサイレン音が近づいてくる。それとも耳鳴りか。
「せんせ、でも……やっぱり、云って、おく……ありがとう」
日高の腕がさらにきつくなった。まるで遠のく鈴亜の意識を手放すまいとするかのようだ。それはかなわず――鈴亜の意識は心底に沈んでいった。それが完全に消え入る刹那。
「祐真、連れていかないでくれっ」