月の裏側〜幸せの続き〜
終章 farside-The Moon Love-
――ナイフはあたしが寮から持ちだしました。
――あたしが殺されるためです。
それ以外のことは語らなかった。鈴亜を守ってくれた祐真を、今度は鈴亜が守るばんだ。こんなことにいまさら祐真を巻きこみたくなかった。
鈴亜が語るかわりに、あのときスマホを録画モードにして記録した会話が代弁している。いつの間にか撮られていた公園での写真も、証拠の一部になっているかもしれなかった。
鈴亜が田辺を殺そうと見せかけたのは、逆にそうさせるための手段にすぎない。ただ、ナイフを向けたのは事実で、どんな罰が下るのか。
身構えていたけれど、事情聴取は無理強いされずにすんでいて、審判不開始、つまり罰としては何事もなく終わるだろうと云われた。
よかった、とそうは心から云えない。
「日高先生からよ。三十分後に家にいらっしゃるって」
電話を置いた佳乃はダイニングテーブルに戻って座った。鈴亜がうなずくのを見て続ける。
「今日はせっかくだし、食事に誘ってはいたんだけど断られたのよ。日高先生、けじめはしっかりわきまえられてるんだわ」
佳乃は安心したように微笑み、多一朗は隣で二度うなずいた。
せっかくという退院祝いの食事は、テーブルが窮屈なくらい料理が並べ立てられている。
鈴亜は、三週間の入院を経て今日、退院した。果物ナイフは肺にまで達して出血もひどかったが、処置が早かったために生死をさまようというほどひどくはならなかった。入院している間に、季節はもう梅雨を抜けだして夏に変わろうとしている。
「今時、あの若さであの落ち着き方はめずらしい。こうなってみると……違いがわかる」
多一朗は途中、自分がまずいことを口にしていると気づいたように云い淀み、そしてためらいつつ付け加えた。
比べたのは、日高と田辺という二人の教師のことに違いなく、両親はすっかり日高を信頼している。鈴亜と日高が本当はどんな関係にあるのか、少し意地悪な気分になって、それを知ったときの両親の反応を見てみたい気もしたが、日高のことも守っていくと決めている。
「日高先生ってカッコいいよね。先生にしとくのもったいない」
当たり障りのない、ごく一般的な女子高生の反応を示しながら、香奈はその実、日高の正体も鈴亜との関係も見抜いているんじゃないかと思う。祐真のこともそうだった。
病室では、慧と昂月がお見舞いに来ることもあって、一度だけ、ちょうど香奈は同席した。ふたりの会話を聞いていたのなら、思い当たってもおかしくはない。
昂月は事件直後も、両親に続いて病院に駆けつけてくれた。日高は警察の事情聴取に立ち会わなければならず、彼女は入れ替わりで鈴亜の容体を見守ってくれたという。大学生の友人たちと勉強会のさなか日高に呼びだされ、慌てたすえにテキストをタクシーのなかに忘れたんだと教えて鈴亜を笑わせてくれた。
「先生は先生の仕事が好きなんだよ」
鈴亜は遠回りで口外無用だと釘を刺した。
「鈴亜、もし今度のことで日高先生に迷惑かけているようなことがあったら云ってちょうだい。嘆願書でもなんでも、できる限りのことはするから」
「うん」
食事をすませたとき、合わせたようにちづるから電話が入って鈴亜は部屋に行った。
『鈴亜、退院おめでとう!』
受話口を遠ざけたくなるほど、ちづるは声を張りあげた。
「ちょっとうるさいけど、ありがとう」
『学校、鈴亜がいないとさみしいんだよ。明日から学校で会えるんだし、はしゃいであたりまえ』
「うん」
『それだけ?』
「それだけ」
ちづるはおもしろがって笑う。
『傷は大丈夫?』
「躰は問題ないよ。感覚的にヘンていう感じはまだあるけど」
『ホントよかった』
ちづるからもう何度聞いただろうという言葉を、再び彼女はしみじみと口にした。
ちづるは最初にお見舞いに来た日、半泣きのような様で現れた。田辺のことをちゃんと日高に云っておけばよかったと、責任を感じる必要などないのに後悔までしていたから鈴亜はなだめなければならなかった。
「心配かけてごめんね。ありがとう。もう大丈夫だから」
『そりゃあ大丈夫だよね。期末、受けなくってよかったんだから』
ちづるは焦点を変えて、災難を思いだしては沈みがちな気分を払拭する。
「そだね。そこはラッキーかも。ちづる、もうすぐ部活も引退でしょ? 夏休み、いろいろ付き合ってくれたらうれしいかも」
『いろいろって?』
「仕事見学。いろいろ見てまわりたいの。就活しなくちゃ」
『え、大学じゃないの?』
ちづるは悲劇に遭ったような声で問う。
「うん」
『ショック! っていうか、それなら堂々と日高先生と出かける口実になりそうだけど?』
「いまの状況でそんなのできるわけないよ」
『そっかぁ。まあ卒業するまで我慢すればあとは自由だしね。わかった、鈴亜に付き合う。ちょっと楽しそうだし』
また明日ね! と、ちづるは電話を切った。
鈴亜は出窓の天板に腰をひっかけ、窓ガラスにこめかみを当てる。外を見ると三日月がずいぶんと傾いている。
月の裏側で見届けると云った祐真は、いま鈴亜の姿に何を見ているだろう。それとも、もうそこにはいないのだろうか。
『……Cry for you,RE-A 心がきみを求めて泣き叫ぶ……』
祐真の歌声を聴くのは、見知らぬ男によって夜が恐怖と化し、祐真との時間を邪魔された日以来だった。
祐真の夢が詰まったMDは、月の裏側に逝った日にもらった。引っ越していく鈴亜のために作ってくれたものだったけれど、グラスグリーンのジャケットとともに形見となってしまった。
いま見ている月は、小雨の舞う別れの日に見た、幸せを呼ぶブルームーンではない。けれど、目に映る三日月はあの日のブルームーンと同じように、海に溺れて見上げているかのように滲んでいく。
ピアノ一つの伴奏がまもなく終わり、リピートしたとき、部屋のなかに空気の流れとかすかな振動を感じた。瞬きをして滲んだ視界を払い、顔を起こすとドアが開いていて、佳乃とその背後に日高がいた。
佳乃は持っていたトレイをわずかに上げてみせ、首をかしげた。鈴亜がうなずくと、部屋に入った佳乃はそれを机に置いてからドアへと向かう。出ていく寸前、日高が佳乃になんらかの声をかけ、それからドアは閉まった。
近づいてきた日高は目を細め、そして手もとのMDプレイヤーを見下ろすと、ヘッドホンを取りあげた。日高は首を傾け、鈴亜がうなずくとそれを耳に当てた。
歌をどう受けとめているのか、日高はしばらく聴き入ったあと、ヘッドホンは鈴亜の頭に戻した。
『……この歌はレアにしか歌わない……』
ヘッドホンからは歌のあとに録られた祐真のメッセージが流れてくる。
日高が祐真のメッセージを聞かなかったのは、祐真の気持ちを尊重したのか、聞きたくなかったのか、どっちだろう。そんなことを思いながら、鈴亜はヘッドホンを外した。
「祐真の領域だ」
鈴亜の首がかしぐと、その無言の質問を察して日高は答える。
「聞きたくないのかと思った」
「それもある。祐真とはどうしたってもう勝負にならない」
その発言に目を丸くすると、日高は口を歪めた。そのしぐさは鈴亜を笑わせる。
日高の手が顔に伸びてきた。
「退院、おめでとう。どうだ?」
日高の長くきれいな指先が、鈴亜の目もとを拭っていく。
「ひきつってるような感覚はあるけど、痛くはない。あたしは見られないけど、背中、傷だらけになってるみたい」
日高は顔をしかめて何かを振り払うように首をひねった。
「お母さんとはいつもさっきみたいな感じか?」
「さっきみたいって?」
「喋らないしヘッドホンも外さない」
「まえよりもマシ。まえは部屋に通さなかったし、だから気にしないで。心配してくれてるのはわかってるから」
手術をしてICUにいる間、完全看護だからと云われても佳乃が帰らなかったことは知っている。鈴亜の訴えを信じていないとなじったけれど、鈴亜だって、田辺の正体は青学東で会うまで本当のところはわかっていなかった。
入院中、佳乃は毎日通ってきた。食事を一緒に取りながら、必要なものはないかとか他愛ない会話を交わすことから始まって、香奈の高校受験など過ぎたことの愚痴を聞かされたりもして、だんだんと話す時間が長くなった。家を離れたからこそなのかもしれないが、少しずつ、変わっていけるような気もしている。
「先生、学校は大丈夫?」
「陸上部はまだたいへんだ。後任の監督が慣れてくれたら、おれもラクになるけど」
「ただでさえ忙しいのに……」
「おまえのせいじゃない。学校はちゃんと来るだろ?」
顔を曇らせた鈴亜をさえぎり、日高はずっと後回しにしてきた質問をした。
入院中ちょくちょく来てくれた日高と、事件に関する表面的なことは話せていたが、互いの感情に係わってくることまでは話せていない。まともに話せる状況じゃないと云った日高は、鈴亜が退院したことでやっとその気になれたのだろうか。
「……ホントいうと迷ってる」
「おまえは繊細かもしれないけど弱虫じゃない。おれを守っただろ」
「あたしが繊細?」
おもしろがって問い返すと、日高は呆れた素振りで肩をそびやかす。
「ごまかすな」
「あと半年だよね。期末テスト、受けてないけど」
遠回しに返事をすると、日高はあからさまにほっとしたように肩の力を抜いた。
「出てきたら受けられるようになってる」
「受けなくていいかと思ったのに」
「はっ、そんなわけないだろ」
「じゃあ、あたしもちゃんと受けるんだってちづるに云っといて。さっき電話があって、いいなって云ってたから」
「わかった」
日高は女子高生の単純思考に呆れた様で笑った。
決めてしまうと、鈴亜もきっと大丈夫と根拠のない安堵を覚えた。
こうなってスキャンダルを避けるため、入院中でも手続きは取れたのにすっぱりと高校を変えられなかったのは、ちづるのせいでもある。日高のお節介を結果的によかったと思っているちづるを、自分の都合だけで裏切るようなことをしたくなかった。その気持ちを後押ししたのはやはり日高だ。
「あたし、ホントに先生を守れてる?」
「ああ。あのスマホに録ってたぶんで充分だったし、隠し撮りされたときのことは、田辺との問題でおまえから相談を受けていたことにしてる。ほかに写真があるとしても、おれと一緒にいた理由はそれでおさまるだろ。FATEのパーティに連れていったことだって励ますためだと云えばすむ。あとは卒業まで、奥見たちに云わせると『クールでいればいい』そうだ」
「うん」
「簡単そうだな」
そう云った日高は若干不満そうだ。
「……なんのこと?」
「クールでいることが、だ。おれは、できれば隠したくなんかなかった。覚悟はあると云ってきただろ。けど、おまえが東高に居づらくならないように現状維持するには当面ごまかす必要がある」
「裁判でもごまかせるの?」
「田辺はいま精神的に問題を抱えている。おまえが死んだと云ってるらしい。弁護士は精神鑑定に持っていくだろうな。長期になるかもしれない。いずれにしろ、学校側はもう蒸し返したくないと思っている。押し通せば問題ない」
「でも……」
「なんだ」
「あの人とまた会うことになったら同じことになるかもしれない」
おれを認めないかぎり、そう云った田辺を鈴亜が認めることはない。
「そのときは、今度はおれに守らせてくれ」
日高の声は深刻で切実だった。じっと見つめてくる眼差しに、鈴亜はそうしなければという気になってこくっとうなずいた。
「先生、ケンカ、ホントにできるんだね。一発だった。先生をケンカに巻きこんでたのって祐真のこと?」
わざと軽い調子で訊いた。
「それと航だ。ふたりの道連れにされてたな」
鈴亜は笑う。日高は釣られたようにふっと笑みを漏らした。
「祐真、強かったよ。……というより、容赦なかった。あ……あの人、強い人だと逃げるから、先生が傍にいたらそれでいいのかも」
「ああ、そうしてやる」
うなずいた鈴亜を見つめたあと、日高はほかに目を向ける余裕ができたようで、部屋を見回した。そうしているうちに一点に目を留めた。鈴亜はそれを追う。
「あれは祐真のだ」
「うん、雨に濡れた日に貸してくれたジャケット。お気に入りだけどやるって」
「ああ。祐真が借りていたホテルの部屋を片づけているとき、昂月がないって云ってたな」
「……返したほうがいい?」
「祐真がおまえにやったんなら、おまえのものだ。鈴亜、高弥が四人でいつか会いたいと云ってる」
日高は思いだしたように付け加えた。
「……もしかして高弥さん、あたしのこと知ってる?」
「ああ。ホテルの支配人からおまえの名前を聞いていたらしい」
日高はそれが気に入らないようで、眉間にしわを寄せて答えた。
「わかってるんじゃないかと思ってた。昂月さんは?」
「昂月はまだ知らない。けど、できれば教えてやってほしいそうだ。昂月は、おまえの――祐真と一緒にいたカノジョの幸せを見届けないと、本当に幸せになる気はない。高弥はそう云う。おまえが幸せだと思うときがきたら、来てほしいと云ってる」
すぐに応じるにはやはり迷ってしまう。鈴亜は首をかしげて曖昧に濁した。
「先生は祐真とあたしのこと、いつ気づいたの?」
「目覚まし音だ」
「やっぱりそうなんだ。気づかないってあたし、間抜け。先生がピアノの伴奏してくれたんだからこの曲知っててあたりまえなのに」
「鈴亜、祐真が死んでからどうしてたか教えてくれ」
日高は出窓の反対の端に腰を引っかけて鈴亜と向き合った。鈴亜の表情を見逃さないためだろうか。瞳はまっすぐに鈴亜を見つめてくる。
「……祐真は、月の裏側であたしが幸せになるまで見てるって。だから、月が見える夜は出かけてた。祐真から頼まれていた、昂月さんの幸せを見届けることは一年後にそうできて、それから何したらいいんだろうってわからなくなって、でも月を見るのはやめられなかった。そしたら……一年まえ、襲われたの。怖くて痛くて……それからしばらく出かけられなくなった」
「お母さんは? 警察には?」
「お母さんは知ってる。服は破けてたし、妊娠したらって怖かったし……でも、警察には行ってない。その男からおまえが悪いんだって云われて……夜、独りでぼんやりしてたあたしが悪いんだって思ったから」
それまで、表情を動かさずに聞いていた日高が険しく眉をひそめた。
「背中の傷はそのときの?」
「うん。ざらざらしたコンクリートの上だったからすり傷だらけで、ひどい傷だけ痕が残ってる」
「そいつを憶えてて、もし見かけることがあったら教えろ」
日高の眼差しも声音も真剣だ。憶えているとしても会うことなどないだろうに、その要望とは逆に、教えるわけにはいかない、そんな気配を感じた。
「憶えてない。顔なんてどうでもいいから」
日高は何かを堪えるようにしばらく黙っていた。
「確かにおまえは無用心だ。だからといって、襲う口実にはならない。怖がってたままでよかったのに、なんであんなことをするようになったんだ」
「祐真とは違うって思って……だから祐真に愛されてたって思いだせるの」
「祐真がそんなことを望むはずがないだろ」
日高は吐き捨て、鈴亜を責めた。
「そんなこと、わかってる。だからあたしは、祐真に当てつけてたのかもしれない。いい子でいたくなかったのかもしれない。連れていってくれなかったから」
「いまもそうだな。いまも月の裏側に行きたがってる」
それは傷ついたような声だった。
「違うの」
「何が違う。殺されるつもりだったと云っただろ」
「生きてても先生の負担になるだけだと思ったから」
「脅迫のことか? おれは、田辺みたいに地位や名誉にこだわってない。それよりも大事なものがあるから。教師でいるよりもFATEでいるよりも、おれは、選択しなければならないのなら迷わずおまえを選ぶ」
「……先生?」
「音楽から離れてリセットしたかったって話したのを憶えてるか」
「うん。祐真のことだけが理由じゃないって先生は云った」
日高はうなずき、そして深呼吸、ためらうように視線を逸らしてまた戻して、それから話しだした。
「中学のときの話だ。ピアノコンクールでいつも競い合ってたライバルがいた。漠然とピアニストを目指していたおれと違って――かといって適当にやってたわけじゃないけど、そいつははっきり世界に出るピアニストを目指していた。勉強よりもピアノっていう奴だったんだ。三年になってすぐ、横断歩道で自動車事故に遭った。イヤホンをしていて気づかなかったらしい。そのときに手首を骨折して神経をだめにしたんだ。そう云っても通常の生活なら問題ない程度に動かせる。けど、ピアニストとしては致命傷だ。おれは、作曲ならできるとか、そんなことを云ってそいつを傷つけた。それ以来、会えなくなった」
「それから?」
「立ち直れないまま、いまも家に引きこもりがちだ。福岡に帰ったときは会いにいくけど、いまだに会えてない。おれは、だからピアノを弾くことよりも作曲することにこだわってきたんだろうな。あいつに自分が云ったことの証明をしなきゃならない。そんなふうに勝手に思ってる。祐真もそいつのことは知ってたし、たぶん、ふとしたことでおれが音楽をやめてしまうと考えていた。実際、そのとおりだ。祐真がいなくなって離れたから。大学からこっちに来たとき、祐真から半ば強引にFATEのメンバーに駆りだされた。おれは祐真にそうやって助けられてきたんだ。それなのにおれは何もできなかった。昂月とのことで精神的に参ってるのは知っていたのに、だ。おれは親友のために何もできていない。あの日、精神的に最悪な状態でおまえに声をかけた。おまえは祐真に似てた。おまえを助けたいって、何も知らないくせにそう思った。けど、実際はおれのほうがそう思うことで救われてる」
「ちゃんと助けられてるよ。先生は、あたしに在処をつくってくれたから」
「在処?」
「うん。いつも戻れる場所。転校ばっかりしてきて、同じ場所に帰るってことを知らないから。中心がないの。でもいまは先生が中心にいる。そう思っていい?」
「ずっとそう思ってろ」
「先生の話を聞いて、あたし、いま祐真が望んでること、わかる気がしてる」
「何を望んでる?」
「先生がFATEに戻ること。あたし、それを祐真に託されてるんだと思う。先生が祐真のためにできるのはそうすることじゃない? あたしはその見届け人」
しばらく喰い入るように鈴亜を見つめ、それからため息をつくように笑った。
「一生見ていないといつまた離れるかわからないぞ」
「だから、見届けるって云ってる」
「鈴亜、おれは何があろうとおまえをだれかに譲る気はない。たとえ、祐真にでも」
「連れていかないでくれって聞こえてた」
日高は力なく笑い、うなだれた。
鈴亜は出窓からおりて、日高のすぐまえに立った。
「先生」
日高が顔を上げるまで待った。鈴亜のケガのせいで、日高がひどく慌てていたことは慧と昂月から聞かされている。警察との話をひととおり終えてから病院にやってきた日高が、佳乃と同じく、ICUを出るまでずっと病院にいたことも聞いている。
やがて日高は鈴亜を見上げ、促すようにわずかに顎をしゃくった。
「あたし、そのときを待ってきた。何があるかわからなかったけれど、それは先生に巡り会うことだったかもしれない。最初に会った日、先生を選びかけてたけど、先生じゃダメだって思った。でも違う、“先生は”ダメだってことだったんだと思う。祐真と出会ったとき怖かった。離れられなくなりそうで……。それと同じことを先生にも感じてたんだって……いまはそんな気がしてる」
「おれを選べばよかったんだ」
日高は吐き捨てるように云った。写真を見ているのに、鈴亜が犯されているのを実際に見ているのに、日高はそこにこだわっていない。
「あたしがやってきたこと……犯されたことも、なんともないの?」
「なんともないわけないだろ。腹が立つ、そいつらにも、おまえにも」
云いたくないことを云わされている。日高はそんな様で、喰い縛った歯の隙間から唸るように吐いた。しばらく黙したのち、けど、と続ける。
「それよりも、あのとき引きとめなかった――何もしなかった自分にもっと腹が立ってる」
「あのときって……三年まえのこと?」
日高は答えず、即ちそれが答えであり、答えられないほど自分への激情に駆られていることは察せられた。
「いま、日高先生を選んでる。祐真は、いつかもっと大きな愛がつかめるって云ったの。でも、祐真は間違ってる」
「何を?」
「祐真とは勝負にならないってさっき先生は云ったよね。そのとおりで、日高先生は祐真には勝てない。でも、祐真も日高先生には勝てない。祐真は全部教えてくれたって思ってたけど、一つだけ抜けてた。守りたいっていう気持ち」
「そういう気持ちを三年まえ、おまえはおれに持たせてくれたんだ」
「うん。あたしは幸せになっていいの?」
その言葉に潜めた複雑な真意を日高なりにわかったようで、下らないといったふうに首を横に振った。それから手を上げて鈴亜の頬に触れる。
「鈴亜、おまえが抱えてるものまでまるごと、拒まないで愛させてくれ」
愛している、そんな言葉よりもずっと切実な告白を拒めるわけがない。守りたいと思った、唯一の日高がそう云うのなら。鈴亜のくちびるは笑みを堪えきれなかった。
「あたしも、愛してるって云わせて」
日高は喘ぐように呻いたかと思うと、鈴亜を引き寄せた。
「卒業したらおれのとこに来るだろ」
「いいの?」
「そうしろ」
「そうする」
愛してる。
その気持ちだけはだれにも負ける気がしない。
覗くことのかなわない月の裏側に誓う――
幸せの続きはおれが引き受ける。
− The Conclusion. − Many thanks for reading.
あとがき
2015.6.30.【月の裏側〜幸せの続き〜】完結
【Cry for the moon〜届かぬ祈り〜】に続いて鈴亜のセカンドラブ物語
祐真との結末に独りで耐えきれなかった鈴亜に、冷めた10代半ばの不安定さを交えて描いてみました。
ある意味ハードな面もありましたが、ふたりなりの恋愛模様。
楽しんでいただけたら幸です。
奏井れゆな 深謝