月の裏側〜幸せの続き〜

第5章 bay the Moon -ミゼラブル-
4.シックスセンス

 ちづるはテーブルを拭き終わったあと、明日の朝食の下ごしらえをし始めた田辺の妻に挨拶をすると、弘亮と一緒に寮を出た。

「鈴亜と日高先生って本当のところ、どうなんだろう。鈴亜は違うって云ったけど、弘亮、どう思う?」
 駅まで歩いて送られながら、ちづるは訊いてみた。
 いままでのふたりのシーンを振り返ってみても、特別に何かを感じたことはない。ただ、五月に入ってから鈴亜が急にのどかな気配を纏い始めたのは感じていた。
「気にかけてることはなんとなくわかるけど、おまえに対する接し方と比べても露骨に差を感じるほどじゃない。まあ、ふたりともクールだし。けど……」
 ちづるは、途中で話すのをやめてしまった弘亮を覗きこむ。
「どうかした?」
 なんとなく寮を出るときから弘亮は考えこむようにしている。気にかかることがあるけれど、云うかどうか迷っている、そんな雰囲気だ。

「んー……監督と鈴亜って知り合いだったか?」
「……え?」
「奥さんに云われてケーキ持ってっただろ。そんとき、ふたりでなんか話してたけど、その雰囲気が、んーなんていうか……穏やかじゃないんだ。お互いまえから知ってて、おまけになんかあったって感じだ。鈴亜は、日高先生がどうこう云ってたし。日高もなんか関係あんのかな」
「知り合いだったら、ふたりともが黙ってる必要ないでしょ」
 云いながら、ちづるは以前の鈴亜との会話を思いだした。
 最初に田辺の話をしたとき、鈴亜は何か気にかかったふうで、ちづるは知っている人かと訊ねたが鈴亜はわからないと答えた。寮のことを手伝ってくれた日もふたりが話すようなシーンはなかった。
 弘亮の見聞きした話と相まって、ちづるは、たったいまの自分の発言になんとなく不安を抱いてしまう。
 なんらかの黙っている理由があるとしたら。

「鈴亜がわざわざ云わないのはわかるけど……。弘亮、日高先生のケータイ番号知ってるよね。呼びだして……」

 云いかけたとき、弘亮のスマホから着信音が鳴り始めた。



 青南本校の高等部で行われた定例の研修会のあと、惰性で続く会食を終えて、良哉は駐車場に向かった。
 上着のポケットからスマホを取りだしてみたが、良哉が鈴亜に送った短い問いかけに対する返事はない。問いかけは挨拶言葉のようなもので、べつに返事が要るというわけではないが、なんらかの返事はあってもいい。送ったのは七時をすぎたところで、風呂に入っていれば出られないなどの理由はある。それからおよそ三十分が立つ。
 試しに電話をしてみた。が、呼びだし音は鳴るものの一向に通じない。

 家出したいなら来てもいいと云ってから二度めの週末になるが、鈴亜が来ると云いだすことはない。それは些細なことだがどこか不自然だった。
 本質的に心を許した相手なら、鈴亜は少し捻(ひね)くれていながらも素直さを見せる。鈴亜が冷めているのはポーズであり、独りでいるのも本当にそうしたいからではない。奥見と一緒にいるところを見ればわかる。自分で云っていたように、度重なった転校でなんらかを失い、もしくは悟り、いまに至るに違いなかった。
 そして、良哉に対しても素直さを見せている。勘違いではないはずだ。

 耳に当てた受話口から、期待した声とは違う女性の声が聞こえた。
「夜分にすみません。鈴亜さんの担任の日高ですが」
『あ、先生ですか。こんばんは』
「こんばんは、鈴亜さんは?」
『……あの……先生は一緒じゃなかったんですか。陸上部の寮でちづるさんと一緒にごちそうになると云って、まだ帰ってませんけど……』
 良哉はすっと息を呑んだ。頭がフル回転し出す。心底がひやりとしてざわつくのは考えすぎか直感か。
「わかりました。私が今日は出張中だったもので。またかけ直します」
 良哉は電話を切るなり、弘亮の番号を呼びだした。

 再びスマホを耳に当てると、電話はすぐに取られた。が――
『日高先生?』
 と応じたのは弘亮ではない。
「ああ」
『わたし、奥見ちづるです。鈴亜から返事ありました?』
 一瞬なんのことかと思ったが、どういう経緯でちづるが知っているのか、すぐに良哉が送ったメッセージのことだろうと察した。

「いや、電話しても出ないから家に電話したら、寮にいると云われた」
『奥さんが手伝ったお礼でごちそうしてくれたんです。鈴亜はいま監督と一緒だと思います。監督が送っていくって』
「何時に出た?」
『先生からメッセージがあって十分くらいだと思う。先生、弘亮が、鈴亜と監督は知り合いだったんじゃないかって云うの――』
『先生』
 ちづるからスマホを取り返したのか、弘亮が呼びかける。
「なんだ」

『鈴亜が、日高先生には何もしないかっていうようなことを監督に訊いてた。さっきのメッセージでおれははじめて先生と鈴亜のことに気づいたけど、なんか、やばいとこ見られたんじゃないんですか?』
『先生! わたし、ほんというと監督のことが少し苦手。それはどうでもいい話かもしれないけど、知り合いなのにそういう話をしないってヘンですよね? 嫌な予感するんですけど!』
 ちづるの遠くから叫ぶような声は、良哉の懸念をリアルに変えていく気がした。そもそも弘亮にかけたはずがちづるがさきに出たこと、自分がいつものポーズで応えられていないことが不安ではなく予知だと教える。

「弘亮、ほかに何か云ってなかったか?」
『どこに行くかって監督が聞いて、あの場所って云ってた気がする』
「わかった。あとで連絡する」
 そう云いながら実際は思考がまったく働かず、つかの間、脳は躰にも命令を下せなかった。

 田辺に直接、掛け合うのはためらわれた。何もなければ何もなくすむだろうが。あれから田辺のことは教師同士の伝手を頼り、調査してみた。
 すると、受け持った生徒が不登校になり、それに関連して暴力沙汰を起こし、そして両親の訴えにより退職に追いこまれたという事情が出てきた。
 “あの場所”というのがどこなのか、良哉は再び柏木家の番号を呼びだした。

 二度めの電話に応じた母親の声は、良哉の懸念を反映したように不安そうに聞こえた。
「中学三年のとき、こっちで鈴亜さんの担任だった田辺先生のことを憶えてますか」
『……ええ』
 かまえたような気配で鈴亜の母親は答えた。
「そのとき、何があったか教えていただけませんか。陸上部の監督は、その田辺先生なんです」
 良哉と同じように、驚きのあまり母親は電話の向こうですっと音を立てて息を呑んだ。

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