月の裏側〜幸せの続き〜
第5章 bay the Moon -ミゼラブル-
3.付き纏う小雨
待っていたのではなく、覚悟していたメールが来たのは一週間後の夜だった。
添付された二枚の写真には鈴亜だけでなく、日高が一緒に写っていた。
ミザロヂーから帰る途中、駐車場で向かい合うふたり。日高の手が鈴亜の頬に添っている。どう見ても、教師と生徒の姿ではない。
もう一枚は、日高のマンションの駐車場で撮られていた。日高の服装がスーツであることを考えると、夜帰ったときではなく、朝出かけるときの写真だ。日高が車のドアを支え、鈴亜が乗りこむ寸前で、鮮明にふたりの顔を捉えられる一瞬を狙ったものだ。
これでは、少なくとも田辺に云い訳はきかない。
ただし、脅迫に使うとしても、それはなんのために?
いくら考えても鈴亜には見当さえつけられない。
変わらず写真を添付しただけのメールで、呼びだすわけでもない。だから、プレッシャーばかりが鈴亜のなかに募っていき、今回はろくに眠れないまま朝になった。
学校に来てみれば、日高は青南本校に出張して不在だったことを思いだした。忘れてしまっているのは頭が働いていないことの証明だ。
もともと、日高に相談する気はなかったけれど、顔を見れば最後だという決心がつきそうな気がした。何が最後なのか、自分でも漠然としているけれど、日高にはもう近づいちゃいけないことははっきりしている。
考えてみれば、なぜメールが昨夜だったのかというのは、日高が傍にいないという今日のためだったとわかる。
昼休み、お弁当を食べたあと、日課どおりに弘亮と出ていたちづるは、戻ってくるなり鈴亜のところに来た。
「鈴亜、今日の帰り、時間ある?」
「べつに予定はないけど」
「寮に来てほしいんだって。まえに手伝ってくれたでしょ。監督の奥さんがお礼にごちそうしたいって」
それが今日だというのはけっして偶然ではないのだろう。
「……お礼って云われるほど大したことやってないし、奥さんは具合悪いんでしょ?」
そう訊ねると、ちづるは鈴亜へと顔を寄せた。
「おめでた」
「え?」
耳もとから離れたちづるは、自分のおなかを軽く叩いた。
「そうなの?」
「うん。だから、具合が悪いっていっても深刻じゃないし、最近は慣れてきて調子がいいんだって」
一瞬、予定があると云えばよかったと思ったものの、いつまでもそれが通じるはずない。
今日のような気分が続くのも嫌だった。
「ちづるも行くんだよね?」
「もちろん」
「わかった、行くよ」
「よかった。今日は雨が降ってるし、明日は試合が入ってるから、練習は軽めなの。六時には始められると思うから」
田辺に子供ができるのなら、もしかしたらそうおかしなことにはならないかもしれない。楽観視しながらも、やはり鈴亜は落ち着かなかった。
*
「奥さん、元気そうでしょ」
調理室からダイニングへの戻りかけ、ちづるが問いかけた。
食器を片づけようとふたりで持っていったが、今日はお客さんだからと云ってあっさり手伝いは拒否された。
「うん。寮母さんそのものって感じ」
「奥さんのお母さんが同じように寮母さんやってたから見てきたんだろうし、自然とそういう雰囲気になっちゃうんだろうね」
田辺の妻は、容姿はこれといって難点はなく飛び抜けたところもなく、言動を見ればきびきびとしていながら大らかという、しっかりした人だった。田辺の指示で動くような人だろうという、鈴亜が想像していたイメージとは違った。前監督の娘だから、もしかしたら田辺のほうが気を遣うのかもしれない。そういう関係性にうんざりしていて、だから、妻のことを『好きでもない相手』と云い切ってしまうのか。
ダイニングに戻ると、部員たちはまばらで、田辺の姿も見えない。鈴亜はほっと息を吐いた。
何事もなく終わるのか、田辺は挨拶を交わしたときも特別な反応を見せずに、いまに至っている。
「鈴亜、これ」
弘亮が手にしたスマホを掲げ、もう片方で手招く。
スマホは鈴亜のものだ。受け取りながら、首をひねった。
「メッセージ入ってる。ちょっとやばいんじゃないかと思って預かってた」
「弘亮、やばいってなんのこと?」
ちづるが問いかけている間に、鈴亜はスマホを受けとった。画面を起ちあげて見てみると、メッセージは日高からだった。
「見たの?」
「ちづるのかと思ったんだ。ふたりとも着信音、オフ設定にしてるだろ。電話なら声かけようと思っただけで覗くつもりじゃなかった。同じスマホだし、見たら、鈴亜のほうだったってわけだ。悪い」
メッセージを見てみると、『何してる?』というひと言だけだった。それだけを見れば、人に見られようがなんの問題にもならないはずが、鈴亜と日高の立場になると親密すぎる。
今日に限って、ということが多すぎる気がした。普段、日高がこんなメッセージをくれることはない。出張しているからこそ送られてきたのだろう。
「大げさなことじゃないから。あたしがこんなだから気を遣ってくれてるだけ。出張中だし」
「べつに責める気はねぇよ。おもしろいっては思うけど。日高が生徒とって考えてもピンと来ないだろ」
「え?」
ちづるは、鈴亜と弘亮の会話で正解を出したようだ。目を丸くして鈴亜を見つめる。
「もしかして鈴亜と先生? そうなの?」
「違うよ。いま弘亮くんに云ったとおり。あり得ないよ」
「あり得ないことはないと思うけど……でも、やっぱり連絡係は、鈴亜ありきで決められたのかもね」
眉をひそめた鈴亜を見て、ちづるはくすっと笑う。
「転校生の鈴亜に、しかも友だち不要宣言してるっぽい鈴亜に、わたしをくっつけたかったのかなって。わたしは弘亮中心でまわってるし、特別親しいって子をつくってこなかったから。よけいなお世話って日高先生には云いたいところだけど、結果的にわたしはよかったから」
「あたしも操られるのは嫌いだけど……」
「柏木さん」
ふいに話はさえぎられた。
呼んだのがだれか、見なくても田辺だとわかった。
鈴亜が振り向くと、ちょうど一メートルほどの距離を置いて田辺は立ち止まった。
「はい」
田辺は穏やかな面持ちだが、以前、ちづるが云ったように、鈴亜を見る目にはその穏やかさがない。逆らう余地はない、そんな警告を含んで見えた。
「帰りは送ろう。明日の買い足しのついでだから気は遣わなくていい」
田辺は断りにくい口実を付け加えた。もとより、鈴亜が断るとは思っていないだろうし、ちづるたちへのけん制だろう。
「……ありがとうございます」
「帰るときに声をかけてほしい」
「もう帰ります」
「それならすぐ準備をしてくる。風間、奥見はおまえが送っていくんだろう?」
「はい」
「気をつけていけよ」
弘亮の返事を聞いた田辺は、射るような様であらためて鈴亜を視界に入れ、それからダイニングを出ていった。
「じゃあ奥さんに挨拶してから帰るね」
緊張と焦燥の入り混じったため息を押し殺し、鈴亜はちづるに向かった。
「うん……あ、鈴亜、日高先生にちゃんと返信してやらないとだめだよ」
ちづるの冷やかしが周りに聞こえないかと、鈴亜は思わず見回した。幸い、だれも近くにはいないし、ダイニングではそれぞれのグループに分かれてにぎやかにしている。
「ちづる……弘亮くんも、あたしのことで先生に迷惑かけたくないから、勘違いされるようなこと云わないで」
「それくらい、わたしたちも気をつけるって。鈴亜が監督に送られたって知ったら先生がどんな反応するか楽しみ」
「だから、先生はそんなこと何も思わないよ」
「いんや、だれだろうと男がちづるを送るって云ってきたら、即行おれがやるからいいって阻止するけどな」
「弘亮くん、だからそれは付き合ってるからでしょ。日高先生にとってあたしはただの生徒」
「ただの生徒なら、日高の場合、『何してる?』みたいな砕けた云い方はしないと思うけどな」
弘亮はよく見ている。弁解するよりは無視することに決めて、鈴亜は小さくため息をつくと、じゃあね、と調理室に向かった。
「あ、わたしも行く。テーブル拭きくらい手伝って帰るよ」
鈴亜はちづると再び調理室に向かった。
「ちづる、そういえば監督のこと、考え変わった? 目が笑ってない、だっけ?」
何気なさを装って訊ねてみた。
「んーあんまり。女子含めて選手部員たちは冗談を云い合ったりしてるけど、わたしは無理。フィーリングの問題かもね」
最初はいい先生だと思っていた鈴亜よりもちづるは勘が働くのかもしれない。
「鈴亜はどう思う?」
自分が話を振られるとは思わなくて、鈴亜は一瞬、答えに詰まった。
「……あたしはわからないよ。まだ何回かしか会ったことないし」
「だよね。でも、わたしは鈴亜のことは一回め話したときにわかったよ。気が合うって。だから日高のお節介は無駄じゃなかったっぽい」
「あたしは一回めっては云えないけど」
「ぷ。鈴亜らしい返事」
「あ、でも、いまはありがとうって感じだから」
「わかってるって」
ちづるはずうずうしく云ってのけ、鈴亜をからかうように覗きこみながら笑った。
調理室に行くと、田辺の妻はてきぱきと食器を洗いながら、効率よく乾燥機のなかに並べていた。鈴亜たちに気づいて顔を上げた彼女は、愛想笑いでもなんでもなく、自然と微笑を浮かべた。美人というには何かが足りない平凡な顔立ちでも、いまの笑顔を向けられたら悪い気はしない。田辺よりも三つ年上らしいが、それが問題だとは思えないし、そんなに何が不満なのか、やはり明確なことはわからなかった。
「今日はごちそうさまでした。送りまで監督にはお世話になります」
「いいのよ。このまえのお礼だから。また遊びにきてね」
「はい。失礼します。じゃあ、ちづる、またね」
「うん、ばいばい」
調理室を出て玄関に向かうと、車から降りかけた田辺がガラス戸の向こうに見えた。夜、ガラス越しのせいか、亡霊のようにも映る。
観音開きの戸を押して外に出ると田辺と対面し、鈴亜の足がすくんだ。
「来るのか来ないのか」
鈴亜に決断をゆだねながら、やはり田辺は、選択肢はないと暗に含めている。
同じ口を歪めるのでも、日高のからかうような様と違い、田辺の面相は薄ら寒く映った。
「どこに行くんですか?」
「どこがいい?」
「……あの場所」
「いいだろう」
「一つ確かめておきたいんです。あたしがいま一緒に行けば、日高先生には何もしないんですよね」
「あくまでおれとおまえの問題だ」
田辺は云いきった。それを疑ったところで、解決の役に立つわけでもない。
玄関の屋根の下から出ると、六月も中旬に入って、うっとうしい梅雨の小雨が鈴亜に注ぐ。厚い雲の下、月の裏側から鈴亜の居場所はわからないはずが、あの日と同じように、小雨は祐真の涙なのか躰に付き纏う。
おいで、といざなわれているのか、生きて、と突き放されているのか、鈴亜には判断がつかなかった。
短い階段をおりかけたとき、水を踏む音が聞こえた。見ると、調理室の勝手口から来たらしい弘亮が近づいてくる。
「奥さんからデザートだって。忘れてたらしい」
「ありがとう。お礼、云っといて」
「ああ……じゃあな」
「うん、ばいばい」
ドアを開けて乗るのを待つ日高と違い、田辺はさっさと運転席に乗りこみ、鈴亜は自分で後部のドアを開けた。
「後ろに荷物置いてまえに来い」
すぐさま田辺の命令が下る。
鈴亜はバッグの外ポケットから取りだしたものをスカートのポケットに忍ばせた。助手席に乗っても何も警戒する様子はなく、田辺は無言で車を出した。