月の裏側〜幸せの続き〜

第5章 bay the Moon -ミゼラブル-
2.終わりの確定

「めずらしいね、鈴亜が寄り道したがるなんて」
 ちづると一緒にグラウンドに向かいながら、鈴亜は肩をすくめた。
「学校を出るのは早くても、いつもまっすぐ家に帰ってるわけじゃないよ。図書館とか、ぶらぶらしたりとか、時間潰してるの。今日は職員会議でいつもより一時間も早いし、だから、陸上部の練習を見ていこうかなって思っただけ」
「球技系だったらおもしろいかもしれないけど、ただ走ったり跳んだり跳ねたりっていうのはそう楽しくないよ」
「楽しそうって期待してるわけじゃないから」
 鈴亜が答えた直後、ちづるは吹くように笑った。

「何か可笑しい?」
「鈴亜のクールさって相変わらずだけど、それが可愛く見えるようになったなって思って」
 鈴亜は目を見開き、ちょっと思考停止したすえ呆れて首をひねった。
「そう感じるのはちづるだけでしょ」

「そうかなあ。最初に話しかけた日、サンドイッチのチーズ入りを大当たりだって云ったじゃない? それを云いすぎたかもって云ったときに鈴亜、笑ったんだよ。ちょっとだけど、それ見てうれしくなったんだよね。なんていうか、冷たいわけじゃないんだーみたいな。ツンデレっぽい。普段がクールだから、笑顔は効果てき面だよ。いまはね、お喋りするようになったぶん、効果てき面のちょい出しになってるけど、それがまたいい感じなの」

 ひとしきりちづるの独り善がりな演説は続いてようやく終わる。
「あたしにはわからないけど」
「そう? わたしね、鈴亜の最初の素っ気なさにめげない人が現れるのを密かな楽しみにしてるんだけど。簡単に云えば、鈴亜のカレシを見てみたい!」
「勝手にしてて」
 投げやりに放ちながら、鈴亜は自ずと日高のことを思い浮かべた。

 日高はめげなかった。その気持ちに自分は甘えているのだろうと鈴亜は思う。もう、甘えていた、といったほうがいいのか。うまくいきそうになると、いつも何かに挫かれる。いや、何かに、ではなく、それが何かは一つしか当てはまるものはない。
 一日もたたないうちに、壊れそうな予感は現実になった。それでも希望を持っていることは否めない。

「着替えてくるね」
「じゃあ、さきに監督に挨拶してるから」
 ちづるは「了解」と、グラウンドからするとわずかに丘になった更衣室へ小走りで行った。
 鈴亜は独りさきにグラウンドへ向かう。
 ちらほらと見える部員たちはストレッチ体操を中心に躰を動かしている。少し外れたところに監督はいた。

 ちづるから聞いていたとおり、田辺は石ころや障害物がないかつぶさに点検しているのだろう。時折、躰をかがめては拾うように地面に手を伸ばして、それから背中を伸ばす。
 こんなふうに指導者として熱心になれる田辺は、なぜ、どこで、歯車を狂わせたのだろう。
 ――と、ふと考えてしまってから、その引き金を引いてしまったのは鈴亜だと思い至った。
 だったら、すべての怖れは、鈴亜自身が生成していることになる。笑いたい気分になった。その実、本当に笑ってしまえば、効果てき面の笑顔には程遠く、歪んでしまうのはわかりきっている。

「メール、どういう意味ですか」
 田辺は気づいていたのか否か、挨拶抜きで話しかけても驚くことなくゆっくりと鈴亜を振り返った。

 監督の顔をしている田辺は、果たして鈴亜に見せるような顔をほかのだれかに見せることがあるのか、そんなことが気になった。
 ただ、ゴミ置き場の裏であったような、あれほどの醜く異様な表情を見せることはなくても、ちづるは何かを感じとっていた。それがほんの少し鈴亜の力になった。

「意味? それはおまえが考えることだと思うけどな」
 脅迫罪にしないためか、田辺はしゃあしゃあとして鈴亜にゆだねてくる。
「あたしはべつにどうしてもらってもかまわない。勝手にしてください」
「待てよ」
 鈴亜の会釈が終わりきれないうちに、田辺は鋭く引き止めた。
「日高に見せてもいいのか」

 田辺は変わらず、鈴亜が日高をたらしこんだと――あるいは、落とそうとしていると思っているようだ。
 田辺の云い方があまりにも確信に満ちていて、一瞬、焦ってしまったけれど。
「関係ありません」
 鈴亜は退けた。
「関係ないことはないだろう。メールを送ったとき、日高のところでおまえと日高が一緒にいたことは知っている」
「なんのこと……」
「証拠はある」
 惚けようとした鈴亜の言葉を、田辺はぴしゃりと遮断した。
「どういうことですか?」
「また写真を送ってやるよ。柏木、邪魔されずにふたりで話すべきだと思わないか。あとは話し合い次第だ」
 田辺のくちびるを歪めた様はやはり、いまかいまかと鈴亜を待つ門番に見えた。
「いつですか」
「連絡する」
 鈴亜から約束を取りつけた田辺は鼻先で嗤い、鈴亜から離れてまた石を拾いだした。

 鈴亜、と呼ばれて起こされたときは、あまりにも居心地がよかった。起きて服を着たあと、進路の話をしたときは支えられているようで、ほっと安堵した。朝食を食べる準備をふたりでやっているときは、こういう日がたくさんあったらいいと願った。

 それらの気持ちを嘲笑うかのように、水をさしたのは一通のメールだった。
 タイトルも本文もなく、画像が添付されていた。
 それは本人だからこそだろう、鈴亜はひと目で写真に写っているのが自分だとわかった。
 膝を立て、しどけなく開脚した躰は、服を纏っているけれど隠すにはまったく役に立っていない。肌を晒した上体には点々としたものが見え、行為のあとだとすぐにわかる。
 薄明かりのなかでも、写真を加工していけばもしかしたら鈴亜の顔は区別できるのかもしれなかった。
 日高には鈴亜のやってきたことは知れている。それでも見せたくなかった。
 そして、写真を見た直後、再び、鈴亜、と呼ばれたあとのいきなりのキスは驚いたけれど、もっと、と日高にわがままを云いたくなった。
 どんな結着のしかたであれ、少なくとも鈴亜と日高、ふたりの“終わり”はもう確定されているのだ。



 戸をくりぬいた小さな窓から担任室を覗くと、なかにいるのは日高と弘亮のクラス担任の女教師だけで、ほかにはだれも見当たらない。鈴亜はノックをして戸を開いた。
「失礼します」
「こっちです」
 すかさず日高が応じて、奥の長テーブルを指差した。
 奥に行くと、テーブルにはすでにプリントと封筒が用意されている。
「奥見さんは?」
「監督の奥さんが具合悪いみたいで手伝わなきゃいけないって云ってたから、こっちはいいって云いました」
 テーブルの向こう側に立った日高は、思い当たったような面持ちになってうなずいた。
「ああ、そうでした」
「先生、これですか」
「はい、お願いします」

 鈴亜は、プリントを何枚か適当に取ってまとめて三つ折りをする。終える頃、いったんデスクに戻っていた日高が正面の席に座った。
 手を伸ばしてきて、日高は三つ折りしたプリントを取りあげた。束から一枚だけ取って、指を滑らせてきちんと折り目をつける。そうしたプリントがまわってきて、その都度、鈴亜は封筒に詰めていった。

「日高先生、よければ編曲のアドバイスがほしいんです。時間が空いたときにお願いしていいかしら」
 年配の女教師はスコアを掲げている。
「かまいませんよ。置いててください」
「助かるわ。じゃあ、部活に行きますので」
「ええ、お疲れさまです」
 女教師は小太りの躰を揺するようにしながら出ていった。
「編曲って?」
「十月にある文化発表会で演奏するクラシック曲をアレンジするらしい」
「もしかして……FATEのメンバーだってこと、知られてるの?」
 鈴亜はびっくり眼で日高を見やった。

「むしろ、学校側が知っておくべきことだろう。音楽活動で表に出ることはないけど、たまにライヴは参加してた。それでなくても収入を得ている以上、副業になるし。教師になってからはもちろんこっちを優先している。最初は音楽系の部活を任されそうになってたな」
「なあんだ、秘密かと思ってた」
「知れてるのは教師の間だけだ。生徒たちにはおれがFATEのメンバーだってことは禁句だからな」
「そんなお喋りじゃない」
 鈴亜がむっとして云い返すと、日高は口を歪めておもしろがった。
「中間もデータ化まで終わったし、出入り禁止は解く。家出したいんなら来ていい」
「そんなにずっと放浪してるわけじゃない」

 月を求めて出ていく理由は、日高が奪った。いまは逆に月に見つかりたくない。そう思ってしまうことがどういうことか、その答えは一つしかなかった。
 それを叶えるつもりはなくて、そうするまでもなく遮断機はどこかで必ず待ちかまえていて、鈴亜のまえでおりてしまう。
 ただ、わかっていても、きっぱりもう会わないとは云えない。
 中間テストの前後はモラル的に、生徒という立場以上には日高には近づけなかった。だから、こんなふうに飾らずに喋られるのは、日高のところに泊まった日以来だ。
 学校に来れば会えるし、顔を見たり、声を聞いたり、それだけでもずっとましだと思った。正確に云えば、思うようにしていたのかもしれない。

「監督の奥さん、ずっと具合悪いの? 今日、ちづるがそんなふうに云ってたけど」
 日曜日に来ればいいとか、そんな具体的な誘いを受けるまえに鈴亜は話題を変えた。とはいえ、鈴亜にとってどうでもいい話ではない。
 日高はそれを、鈴亜が意図したような社交上の話題とは捉えなかったのだろうか。鈴亜をじっと見て、不自然に時間が空く。
「ここのところそうみたいだ」
「そう、たいへんだね」

 妻の具合が悪いからだろうか。FATEのパーティに行ったあと、その週末にメールの写真のことで田辺を問いただした。そのときに田辺が連絡すると云ってから三週間がたっている。月も変わったのに、また送ると云った写真も来なければなんの音沙汰もなく、あのメールが残っていなかったら、現実だったかもわからないほど拍子抜けしている。田辺は思い立ったらすぐという気質に見えるのに。
 こうやってずるずると結着を引きずっていると、日高と離れることが難しくなっていくような気がした。だれも――それ以上に日高を巻きこみたくない。
 田辺の気が変わってくれていたら。鈴亜は儚い望みを抱く。

 整理がつくはずのないことを考えながらやっていた封筒詰めは、気づけば最後になっていた。すると、鈴亜が考え事をしていたように日高もそうしていたのだと気づく。
「先生、煙草吸ってる?」
「なるべく吸うようにしてる」
 唐突な鈴亜の質問に対する返事は、わざとそうしたのか、おかしな答えだった。無自覚に鈴亜のくちびるに笑みが浮かぶ。
 日高は薄く笑って、何かを振り払うように首を横に振った。
 ちづるは鈴亜の笑顔を効果てき面だと云うが、日高のそれも同じだ。教師としての微笑とは違って、生っぽさがうれしくさせる。

「連絡係の仕事はこれだけ?」
「ああ」
「じゃあ帰る。先生も部活でしょ」
 鈴亜は立ちあがると、バッグを持ちあげようとしてテーブルにぶつけた。すると、テーブルの横の方に積みあげていた封筒が雪崩を起こし、すくう間もなく一部が床に落ちた。
 かがんで集めていると日高も手伝いにきた。
「まえと同じ」
「おれは襲われたんだったな」
「じゃあ、そうする」

 鈴亜は最初のキスと同じように、ぶつかるようにして日高にキスを迫った。舌をくちびるの間に忍ばせてその裏側を撫でる。軽く開いた歯の間を這っていくと、舌がくすぐったくなった。
 担任室という場所が場所なだけに、いまさらで聖職に触れるとでも思っているのか、日高は鈴亜のなすがままだ。それなら、と鈴亜は床にひざまずいて、日高に躰を押しつける。反動で日高は床にお尻をついた。あぐらを掻くような恰好になって、鈴亜はすかさず腿をまたがると、下腹部を密着させた。腰を押しつけるようにくねらせると、日高は呻いて鈴亜のキスから逃れる。

「何やってるんだ」
「先生を襲ってる」
「襲われたいんじゃなくて?」
「あたしはどっちでもいい」
「おれもどっちでもいい。けど、だれかに邪魔されるのはごめんだ」
「邪魔された時点で、ここじゃあ大問題になるね。あたし、先生を困らせようと思ってやってるわけじゃなくて、FATEを続けてほしいだけ」
「どう繋がってるんだ」
 日高は可笑しそうにした。
「先生を辞めたら、お給料がなくなるし、そしたらFATEに戻る気になるかなって」
「乱暴なやり方だな」
「子供だから、ほかのやり方が思いつかないだけ」
 切り返すと、日高は少年ぽく声を出して笑った。
「教師をやるやらないは関係なく、FATEにはいま戻れる気になってる。そう云っただろ」
「うん」
「どっちも捨てがたいけど、どっちか選ばないといけないときが来るんだろうな」

 そのどっちにも鈴亜がいると迷惑をかけるのだ。それどころか、二つとも日高から奪ってしまうのかもしれなかった。

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