月の裏側〜幸せの続き〜

第5章 bay the Moon -ミゼラブル-
1.RE-A

 良哉は夜が明ける頃、十日まえに無理やり快楽を与えたときとは違う感覚で目が覚めた。
 その日は、抱きしめられるのが嫌いと云った鈴亜が眠ってしまうのを待ち、背中から腕をまわしていた。今日は鈴亜のほうが良哉にすり寄るように躰をゆだねていて、寝入ったときと変わらずぴたりと寄り添ったままだった。
 伴走は愚か、並んでスタートラインに立つにもまだ時間はかかるのかもしれない。ただ、逃げまわるのをあきらめた、欲を云えば、逃げないと決めた――昨夜、鈴亜からそんなことを感じとった。そうして良哉は、すかすかだった空洞がしっかりした土台になっていくような変化を自分のなかに見いだしていた。

 鈴亜を置いていった男は月の裏側にいる。手の届かない場所、会いにいくことの不可能な場所、地球からは見ることもかなわない場所、即ち、彼はおそらくはこの世にいない。
 彼の死はいつだ? そんな疑問を抱いている。
 忘れることが怖い。云い換えれば、思い出にできないほどの何かがあるということだ。
 昂月もそうだった。ふと、そんなことを思いつけば、自ずと鈴亜がかたくなでいる理由も同じかもしれないという答えが浮かぶ。

 昂月は、祐真との恋がうまくいかず、祐真に置いていかれたまま、死という離別に遭った。祐真が当時、荒れていたことは、仲間内ではだれの目にも明らかだった。昂月はそれが自分のせいだと察していたし、あまつさえ結論を出さないままの別れは彼女に罪悪感を背負わせた。
 同じように、根源は自分だという自責を、鈴亜の言葉のなかに感じた。

 鈴亜は、だれでもいいというそんな相手よりも、良哉が与えようとした快楽を拒んだ。それは、歪んでいるが、鈴亜にとっては月の裏側にいる彼に対する献身だろう。
 ただ、歪んでしまったのにもきっかけがあると思えた。かといって、それを突きとめようという気はない。寛容でいるには限界がある。鈴亜に云ったとおりだ。
 許容できることとは思えず、鈴亜がそれに怯えるのなら、 きっかけに対して自分をセーヴできるかという不安も付き纏う。

 さっき、鈴亜、とそう呼んで起こしたとき、伸びをした彼女はまるで気まぐれな猫そのもので、そして気まぐれに見せた笑顔は良哉をイチコロにした。
 そうだからこそ、二度と手放してたまるか、そんな気持ちが理性を蹴飛ばしそうになっている。こうやって会ったいま焦ることはないはずが、教師と生徒、その立場を守れなかったことがそれを証明していた。

「先生」
 鈴亜はバスルームで自分の服を着て戻ってくると、キッチンに入ってきた。
「なんだ」
「あたし、就職したいけど何をしたいとか考えたことないから……どうしたらいい? もう就活、始まるんだよね」
 鈴亜はフライパンのなかのベーコンエッグを覗き、それから良哉を見上げて首をかしげた。
「なら、大学を考えてみたらどうだ? そしたら考える時間はあるだろ。転入試験を見たかぎり、おまえの成績なら青南は一般じゃなく進級試験でオーケーだし、受かる」
 鈴亜は気に喰わなそうに顔をしかめた。良哉のアドバイスはよけいだと云わんばかりだ。
「あたしは家から出たいの。あと四年以上なんて無理」
「なんで急ぐ?」
「急いでるわけじゃない。転校ばっかりしてると、そこで友だちはできるけどすぐ離れる。小学時代の友だちの名前なんてもう憶えてないし。だから独りでいいって、あたしはたぶんいじけてた。妹はお母さんに黙って、高校受験を青南にして寮生活するって決められたのに、あたしは何もしてなくて拗ねてる。そういうの、やめたい」
「妹みたいに大学で寮生活もできるだろ」
「あたしは自立したいんじゃなくて、自活したいの」
 鈴亜は云い張り、良哉を敵対した者同士のように見つめてくる。そうするだけの傷みがあるという裏返しだ。
 良哉はかすかに首を横に振ってうなずいた。

「わかった。まずは、ものを売りこむ営業か、不特定多数を相手にする接客業か、机に向かう仕事か、流れ作業か、そこから考えてみればいい」
「うん、わかっ……」
 スマホから音が流れ、いったん口を噤んだ鈴亜は、「目覚ましだから」とソファに向かった。
 鈴亜がほのかにためらったことに気づかないほど、良哉が受けた衝撃は、鈴亜の歪んだ行為を知ったときよりもひどかった。
 音がやみ、そのあとの静けさが気になるのは良哉だけなのか。
「聴いたことのない曲だな」
 普通に云えたのか、鈴亜は一瞬だけ躊躇したように見えた。
「だと思う。オリジナルの曲、お父さんに頼んで入れてもらったから」
「いい曲だ」
「うん」
「食べるぞ」
「あたし、運ぶ」
 鈴亜は駆けるようにしてキッチンに戻ると、まるでここでそうするのが習慣であるかのように、ごく自然に棚を開けてお皿を出した。

「鈴亜、話しておいたほうがいいと思うことはちゃんと云ってくれ」
「どんなことでも寛容になれる?」
「保証はない」
 正直に答えると、鈴亜は怒るかと思いきや、笑った。
「なんだ?」
「できないことをできるって云わないからうれしくなっただけ」
 そんなことが、と、怪訝さと疑問混じりに思ったが、笑わせるだけの力が自分にあるのならそれでいい、とも思う。

 朝食の間はそう喋ることもなく食べ終え、鈴亜が志願して食器を片づけているうちに、良哉はベッドルームに行った。
 書棚の引出から、保管していた楽譜(スコア)を取りだす。確認したメロディはやはり鈴亜の目覚まし音と同じだった。

 このスコアは祐真が死んで一年後、昂月と一緒に祐真が倒れたというホテルの一室を片づけているときに探し当てた。
 祐真が死ぬ直前、良哉に伴奏制作を二曲、依頼してきたことはだれにも打ち明けていない。
 その後、少なくとも一曲に、祐真はボーカルを入れて録音していた。そう知ったのは一年後だ。
 ボーカルをつけたその一曲は、遺作としてその一年後に祐真の意図によって公開された。もう一曲は眠ったままだ。
 それが何を意味するのか。
 昂月にそういったことを伝えないまま形見として譲ってもらった。

 タイトルは“Cry for you,RE−A”。

 良哉は勘違いしていた。REという返信に使う語と、昂月のイニシャルを結びつけ、昂月への曲だと漠然と考えていた。昂月は当初、祐真の意図かどうかに関係なく、家族に知らされないまま遺作が公開決定されていたことに傷ついていた。もう一曲――この曲が封印されているのなら、それも祐真の意思だろう。その二つの要因があって良哉は持ち帰ったのだが。

“RE−A”は、リ・エーではなく、レ・アだ。

 ピアノ伴奏を録音したあと、祐真がMDを引き取りにきたとき、同行していたカノジョはちらりとしか覗けなかった。カノジョが振り向く寸前でエレベーターの扉が閉まったのだ。それが、鈴亜、か。
 偶然なのかそうでないのか、判断がつかない。
 判断がつかないのは、もう一つの偶然のせいでもあった。
 鈴亜がまえに東京にいた当時、通っていた中学は、田辺がかつて勤めていた中学だった。そのうえ、ふたりがいた時期は重なっている。
 鈴亜が寮の手伝いをやってくれた日、帰る途中の車のなかでそれに気づいた。
 寮で会ったふたりは初対面を装っていた。いや、何クラスもある学校で、なお且つ、鈴亜が半年しかいなかったことを考えると、例えば、担任だとか近い距離にいなければ互いに憶えていないというのもおかしくはない。
 もやもやしたわだかまりが心底に淀み始めた。

 振り払うように首をひねったとき、リビングから短い音が流れる。良哉は時計をちらりと見やって、バッグを手に取るとベッドルームを出た。
「鈴亜、行くぞ」
 急に話しかけたせいか、鈴亜はびくっとしてスマホから目を上げた。
「あ、うん。片づけ終わったから大丈夫」
 だんだんと殻を破っていく鈴亜を感じながら、焦ることはない、と、良哉は自分に云い聞かせた。
 どんなに相手を想っても、どうにもならないすれ違いはある。そのすれ違いを祐真はどうにもできず、片方で高弥は回避した。叶う恋と叶わない恋、その差をどんな言葉で区別できるだろうか。

「鈴亜」
 傍に来た鈴亜に呼びかけると、良哉を振り仰いだ。そのくちびるをふさぐ。
 抗議することなく、ただためらったようだが、まもなく鈴亜は目を閉じてかすかにくちびるを開ける。
 それだけのことに良哉はなだめられた。

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