月の裏側〜幸せの続き〜
第4章 promise the Moon -果たせない約束-
5.最悪の侮辱
日高は、飲みそびれたジュースを鈴亜の手から奪った。通りがかったギャルソンに渡すと、鈴亜を連れてテーブルに戻り、挨拶もそこそこにミザロヂーをあとにした。
外に出ると、雨が降っているせいか店内よりも気温が低く、肌寒くも感じる。日高は持ってきた傘をさすことなく手にしたままで歩いていく。なんとなく、鈴亜もそうしてついていった。
雨は小雨という程度で、ずぶ濡れになるわけでもない。ただ、駐車場まで歩く間に髪も服も濡れていった。
店から少し離れた駐車場に入ると、日高は自分の車の傍でぴたりと止まった。
車のロックを解除するわけでもなく、日高は鈴亜と向き合う。すると。
「傘を貸そうか」
ひどく唐突な言葉が向けられる。それだけでなく、意味をまったくなさない。
「もう濡れてるし、車に乗るんでしょ? 傘なんて意味ないと思うけど……あたしも……持ってるし……」
鈴亜は云いながら、こんな小雨の降ったその日のことを思いだした。
忘れられない日は、祐真とすごした日々であって永遠の別れの日じゃない。
ファンの一人になって、笑顔の貼りついた大きな写真を眺めて、そう自分に云い聞かせなければならなかったほど、祐真を遠くに感じた日。今日のように、躰に纏わりつくような小雨が降っていた。
傘をさしている人のほうがまばらだった。それはもしかしたら涙を隠すためだったかもしれない。鈴亜は祐真のまえでそうしたことが一度あった。
もう語ることのない祐真を乗せた車は、見る見る間に距離を隔てていった。鈴亜を余所(よそ)者だと排他するように。小雨が視界を濁し、よけいに輪郭はぼやけ、やがて幻影だったかのように消えた。
そのとき、自分がどんな気持ちでいたか憶えていない。いや、あらゆる感情が麻痺していた気がする。なぜ自分がそこにいるのか、それさえも理解できていなかった。
祐真が完全に手の届かないところに逝ってから、長いこと動けず、歩道にうずくまった鈴亜の肩にだれかの手が触れた。
『傘を貸そうか』
その手の主を振り仰いで、いま日高が吐いたひと言と同じセリフを聞いた。そして、ふたりとも同じように濡れそぼっていた。
「あれは……先生?」
びっくり眼で見上げると、日高は少し呆れたような様で首をひねる。それから、広い肩を落としながらため息まがいの笑みを漏らした。
「人違いじゃなかったようだ。ただし、おまえはやっぱりまったく憶えてなかったな」
風に煽られて小雨が目に入るたびに瞬いて、それに、何もまともに受けとめられなかった鈴亜に憶えていろというほうがどうかしている。
転入した日、担任だと自分のことを紹介したあと、日高は何かを待っているように見えた。やっぱり、というのは、そのとき鈴亜が無反応だったことから出た言葉なのだろう。
「だからなの?」
「何が?」
「あたしが、ユーマが好きって知ってるから」
「ああ」
祐真のことを、いまはまだ打ち明けるべきなのかどうか判断がつかない。だから、日高の返事に鈴亜はほっとした。高弥はどうだかわからないが、日高は鈴亜と祐真の関係を知らないのだ。
「時乃先生が云ってた。先生、顔と名前を憶えるのが得意だって。あんなにちょっとの間で憶えてる人なんてあんまりいない」
日高の手のひらが鈴亜の頬に添い、頬に貼りついた髪を後ろへと払う。三年まえも似たようなことをされた。日高はそうやって鈴亜の記憶を開いていく。
あのときのようにすぐに手が離れることはなく、頬に手のひらを這わせたままで日高が口を開くまでには時間がかかった。
「おまえだって、顔は憶えていなくても記憶にはあったんだろ」
「声をかけられるとは思ってなかったから、たぶんびっくりしてた。そのせいで憶えてる」
秘密を守らなければならず、本当のことは打ち明けられなくても、だれかと語れたことで――とても語るとは云えない、日高のひと言と鈴亜が不要だと云うかわりに首を横に振るだけという、会話とも云えないコンタクトだったけれど、祐真との別れを共有できたような気になっていた。
だから、鈴亜は、ありがとう、とその人――日高に云った。
当然、日高は意味がわからなくて、何が? という顔をしていた。とっさに『ありがとう』は傘を貸そうという申し出へのお礼にすり替えてしまったけれど、それらのシーンがあったからこそ、あれから鈴亜は泣くことができたのだと思う。
そうしなければ、唯一祐真の願いを知る鈴亜がその願いを潰してしまっていた。
「おれは……」
日高は云いかけてすぐやめた。
「先生?」
「車に乗れ、風邪をひく」
日高は、自分がそうしたくせに、ばかなことをしでかした生徒をなだめるような云い方で鈴亜を促した。
云い返したいところでも、躰はひんやりしてきた。鈴亜は素直に命令を聞いて車に乗りこんだ。まもなく、車は駐車場から道路に出た。
「おれの家のほうが近い。躰をあっためて服も乾かしたほうがいいな」
鈴亜が寒そうにしているのを察したのか、日高は独り言のように云う。
「そんなに弱くないけど」
「濡れたまま帰らせていいはずないだろ。家に連絡入れておけ」
「まだ九時だし、連絡入れたらかえってびっくりして倒れる」
素っ気なく拒絶すると、車はちょうど赤信号で止まって日高の視線を横顔に感じる。
「あたし、喋りたくないことはあるけど、嘘は吐かない。あの夜、してたことは、あれが最初じゃない。云ったでしょ。一回、家を出たら当分帰らないっていうほうがあたりまえだから」
日高は首をひねって、呆れているのか叱りたいのか、そうするかわりにため息をついた。せっかちな吐息に聞こえ、もしかしたら苛立っているのかもしれない。
車が発進すると――
「どうだった?」
と、日高は漠然とした言葉で問いかけた。驚くほど早く気持ちを切り替えたらしく、その声に不機嫌さがないどころか、からかった様子だ。
質問がなんのことか考えたのは数秒、鈴亜はライブのことだと見当をつけた。
「うるさくなかった」
「それだけ?」
「CDで聴いたのよりよかった。ナマがいいっていうのはわかる。先生は高校生みたいに見えたし」
「高校生?」
日高はおもしろがった声で問い返す。
「楽しそうにやってたから。ハードだし、乗って弾かないとついていけなさそう。教師って感じじゃなかった。先生ってどうして教科は音楽じゃなくて数学? 部活も音楽系とは関係ないし」
「音楽から離れたかったのかもな。できればリセットしたいという気持ちがあった」
「みんな、先生のこと心配してた。リセットしたいのは祐真のせい?」
「違う。……って全面否定したら嘘になるな。一つだけが理由じゃない」
日高の云うとおり、感情が動くということは、いろんな気持ちがひしめいてせめぎ合っていて、理由が一つということはまずない。もしかしたら真逆の感情が常に相対している。祐真といられた時間を幸せだと感じる一方で、なんらかのけじめは必要でこのままじゃいられないという怖れも抱いていた。
「昂月さん、先生のこと、良くんて呼んでた」
「ああ。昂月はRYOの名付け親だな。祐真がこっちに来て、はじめて航と遊びにいったとき、昂月は小学生で、字が読めなかったんだ。それをそのままステージネームに使った」
「適当っぽい」
日高は笑う。それから日高のマンションに着くまで、FATEの結成時からどう係わってきたかということを話してくれた。
日高のマンションに着くとすぐ、鈴亜はバスルームに追い立てられた。
先週この日高の住み処に来たとき、鈴亜の家よりも広いと感じたが、バスルームもそうだ。バスタブは、日高でもゆっくり足が伸ばせるだろう。
土曜日、話を逸らすのに給料はいくらかと訊いてみて、日高は答えてくれなかった。よく考えれば、都心にあるマンションは教師という職業にしては贅沢すぎる。日高の実家は、父親が教師、母親はピアノ講師という特別な家庭ではない。FATEの収入があるからこその住み処なのだろう。
バスルームを出ると洗濯乾燥機から振動音がしていて、脱衣所はわずかに熱がこもっている。
おそらく鈴亜のために用意してくれたのだろう、棚に置かれた男物のTシャツを見て少しためらったのち、鈴亜は躰を拭いてバスルームを出た。
リビングに行くとココアの香りがした。キッチンの棚に箱をしまっていた日高が振り向く。その動作が止まったのは一瞬のこと、日高は呆れたように首を振った。
「せめてバスタオルで隠すくらいのことはできないのか」
「先生、ココアあるって甘いの好きなの? コーヒー派だと思ってた」
鈴亜はまったく接点のないことを返しながらキッチンに入った。
「どっちも好きだ」
「先生、こうしてると日高先生だったんだなって思う」
鈴亜はまた話を変え、日高の正面に立ってその額に手を伸ばした。いつもは自然な感じを装いながらきちんと整っている髪が、いまは濡れてルーズに顔を縁取っている。
「あのときはもっと濡れてたよね?」
「ああ」
「今日は泊まってく」
「明日、平日だぞ」
顔をしかめた日高の真意はなんだろう。単純に平日だからという意味なのか、迷惑だという遠回しの拒絶なのか。
「あたしの躰、きれい?」
そう問いかけたことに応じて、日高の目が鈴亜の顔から足の爪先までおりた。そして折り返し、ゆっくりと這いあがってくる。
「ああ」
「あたしを幸せにしてくれた人もそう云ってくれた」
出し抜けの告白は、それまでの咬み合わない会話に慣れつつあった日高をまた振り出しに戻したのかもしれない。その口が開くまで時間が要った。
「そいつはどうしてるんだ」
「いま月の裏側に行ってる」
日高は眉をひそめた。
「でもね、先生。その人に抱かれたときはホントにきれいだったんだよ。いまは全然きれいじゃない。わかってるよね? 今日、あたしがみんなにどんなふうに思われたか知らないけど、育成願望っていうのをあたしに期待しても無理。はじめては大好きな人にあげたから。そういう意味でしょ? すごく愛してもらった。でも、忘れそうで怖い。何もおかえしができてないから。乱暴でも、セックスの道具みたいに扱われても、そっちのほうがいいの。その人と違うってわかるから。ちゃんと愛されてたって思いだせるから」
「違うだろ」
日高は吐き捨て、顔を背けるようにしながら少しうつむいた。眉間にしわを寄せ、やるせなく目をつむる。
「……違う?」
「おまえのことを本当に真剣に想う奴だったら、おかえしなんて求めるはずない。そう考えているとしたら、それはそいつに対する最悪の侮辱だ」
「好きでもないのにセックスができる先生にはわからない――」
「過去にそうだったことは否定しない」
日高は鈴亜をさえぎり、そのあとの言葉はどうとでも取れ、とそんな果たし状を渡すようだった。じっと見下ろす眼差しは鈴亜の瞳を射貫く。
「先生がお風呂に入ってる間に家には電話しておく」
「鈴亜」
「先生のところって云ってないし云わないから安心して」
「そういうことじゃない」
「汚い躰だから抱きたくない?」
日高は歯を喰い縛るような様を見せた。
「それはおれへの侮辱だ」
投げ放ち、日高は鈴亜の脇を通りぬけながら「頭を冷やしてくる」と云って部屋からいなくなった。