月の裏側〜幸せの続き〜

第4章 promise the Moon -果たせない約束-
4.非運命と運命

 FATEのデビュー四周年というパーティは、所属事務所の上層部やスタッフのいない――もちろんマネージャーをはじめとしてごく親しい人は参加しているが、慧が云っていたとおりの内輪の集まりだった。
 ミザロヂーという和洋折衷(せっちゅう)の居酒屋が貸しきられている。日高に伴われて鈴亜が訪れたときは、まだ空いた場所のほうが多かったが、往年のファンだという人だったり、仲のいいバンドマンたちだったり、徐々に人が増えている。

 メンバーはみんな、奥さんかカノジョ連れだ。これが本当の“和気あいあい”と表現すべきお手本だろう。彼らを見ているとそう思わせられる。ときには下品な会話が飛び交ったり、豪快な笑い声が響いたり、にぎやかでけっして静かではない。そんな表面的なことではなく、心底から通じ合っているような穏やかな気配が終始、感じとれるのだ。

 少し臆しながらも彼らと合流したとき、鈴亜は紹介されるまえからにやにやして眺められた。けれど、その揶揄した雰囲気とともに、歓迎心があからさまに見えた。
 だれかが合流するたびにFATEが陣取ったスペースに来て、挨拶を交わす。そうしながら、メンバーたちは活動休止して一カ月半の近況を報告し合っていた。

「鈴亜ちゃん、東高卒業したら青南大に来る? おれと航(わたる)は一年で――今度卒業だけど、健朗(けんろう)は二年残ってるし、そしたら一年、鈴亜ちゃんと被るよ」
 鷹弥こと伊東高弥(いとうたかや)が鈴亜を見てかすかに首をひねった。
 メンバーのうち、高弥とドラマーの藍崎(あいさき)航、そしてギタリストの貴刀(たかとう)健朗は大学を休学してのデビューだったらしく、活動休止のいま復学したという。

「大学は行きません。就職するつもりです」
 いきなり話しかけられたことに内心で驚きながら、鈴亜は応えた。すると、隣に座った日高が鈴亜を見やる。
「一週間まえは考えてないって云ってなかったか」
「一週間の間に決めたの。自活したいから」
「自活?」
 露骨に顔をしかめた日高だったが、それとは真逆にメンバーたちは一様に笑っている。
「保護者気取りか支配欲か、どっちだ、良哉?」
 ベーシストのリーダー、有吏戒斗(ゆうりかいと)が口を歪め、疑問と見せかけて日高をからかった。
「叶多(かなた)ちゃんをほっとけないおまえならわかるだろ」
 対して日高も切り返した。
 引き合いに出された戒斗のカノジョ、叶多は照れた様子で首をすくめている。鈴亜よりも四つ年上だが、メイクをそうしていないせいか、同い年でも通じるような雰囲気だ。

「おまえがはじめて女連れてきたと思えば高校生ときた。予想外だ。弄(いじ)りたくもなるだろ」
「戒斗、高校生っていえば、おまえも健朗も最初はそうだろうが」
「ロリ率、高いな」
「ロリってよりも、だれにも染まってないってとこがいいんだろ。独占欲と育成願望だな」
 航の指摘を受け、高弥がおもしろがって口を挟んだ。
「航も、実那都(みなと)ちゃんと付き合い始めたのは中学生のときですしね」
 健朗が彼特有の丁寧な言葉遣いで切り返した。航は突っこまれようがにやりとして余裕だ。
 そうした間、奥さんなりカノジョなり、恥ずかしいのか照れているのか、その都度、さっきの叶多と同じで亀のように首をすくめてやりすごしていた。

「高校生っていうことじゃなくて、自分の生徒っていうことのほうが問題だと思うけど」
 この場合、慧は咎めているわけではなく、日高をからかう材料にしているだけだろう。慧は、自分と日高の間に座った鈴亜をいたずらっぽく見やった。
「おれにとって、そこは問題じゃない。どんな弁解も世間には通用しないってことはわかってるけどな」
「そんだけ覚悟あるってことだろ。ならいいんじゃねぇの。おれたちがとやかく云うことはねぇ」
 航の言葉遣いは乱暴だ。それに比例して、ドラムの演奏は壊れないかというくらい全力で向かっている。日高と同じく、祐真の中学時代からの友だちだった。
 祐真がそう教えてくれたことを思いだしながら、鈴亜は、忘れかけていたことがだんだんと鮮明になっているのを感じていた。
「だれもとやかくは云ってない。冷やかしてるんだろ」
 戒斗が訂正すると、どっと湧いた。
 日高は苦笑いしている。それまでの会話はどう穿っても、鈴亜は生徒としてではなくカノジョ扱いされている。けれど、日高は訂正することもなく、話を合わせていた。

「そろそろFATEを見せてくれないかっていう話だけど」
 FATEのマネージャー、水納唯子(みずなゆいこ)がどこからかやってきて、笑い声のなかに割りこんだ。
「オーケー」
 すぐさま応じた戒斗に続いて、メンバーたちはうなずき合う。だれもが立ちあがるなか、戒斗は日高に目をやった。何か云いたそうにわずかに戒斗の首がかしぐと、日高は肩をそびやかした。
 なんだろうと思いつつ、鈴亜は立つ気配のない日高を振り仰いだ。

「先生は? キーボードやらないの?」
「ちょっと操作すれば自動で伴奏できるようになってる。健朗が担当する」
「先生は、うるさいだけかどうかナマを聴いてみろみたいなこと、云ってなかった? 自動なんてナマじゃない」
 ライブをやるのだろうと見当をつけて云ってみれば日高は煮えきらず、鈴亜は不満を隠さず文句をつけた。
 それらの会話が固唾を呑んで見守られているということに気づいたのはその直後だ。外野がわいわいとざわついているなか、ここだけが静かだ。
 できないこと、やらないことを口にしないで、と付け加えようとした言葉は呑みこんだ。
 ほぼ反応なく、ただ鈴亜を見下ろしていた日高は、やがてため息まがいの笑みを漏らした。

「わかった」
 応じた日高は立ちあがると。
「ちょっと感覚が鈍ってるかもしれないけどいいか?」
 と、戒斗に向かい、そして戒斗は――
「もちろんだ」
 と、間に髪を容れず受け合った。

 鈴亜を除外して、だれもがほっとした笑みを浮かべた。安堵という以上に、喜び、もしくは充足感みたいな感覚が入り混じっている。
「さすが、鈴亜さん」
 彼らを見送りながら、慧が鈴亜を持ちあげた。
「なんのことですか」
 慧へと目を向けると、その向こうから顔が覗いた。
「良くんのこと。鈴亜ちゃん、ありがとう」
 昂月――慧の親友であり、そして祐真の妹は、はにかむような雰囲気で鈴亜にお礼を云った。

 鈴亜が昂月をじかに見たのはいまが二度めだ。
 三年まえ、鈴亜が家を出たように、祐真もまた家を出ていて、そのとき暮らしていたのはホテルの一室だった。
 祐真はその部屋で倒れ、昂月をそこに呼んだのは鈴亜だ。それが一度め。
 慌てていた昂月は鈴亜の存在も目に入らないかのようで、鈴亜もまた、祐真へと近づいていく彼女の横顔を見ただけだ。祐真による万が一という配慮のもと、親身になってくれていたホテルの支配人によって、それ以上の昂月との接触を断たれ、そうして鈴亜はスキャンダルから守られたのだ。

 ホテルという不特定の人たちが通りすぎる場所ですごし、だれも知ることのない鈴亜と祐真の時間。思えば、そんな不安定な場所だったからこそ、鈴亜の記憶はおぼろげになっていったのかもしれなかった。
 だれとも語れない祐真との時間は、だれかに必要だと愛されたがった鈴亜の都合のいい夢にすぎない。そんな心もとない焦燥に駆られていた。

 いま、昂月はすぐ近くで笑っている。そこにわずかな影が見えるのは、日高の、延いては祐真のせいだろうか。
「先生のこと? わたしは何もしてません」
「そんなことない。良くん、いろいろあって音楽活動は一切やめてる。ユーマって知ってる?」

 ユーマ、と同じ言葉は妹の口からも母の口からも聞いたけれど、こんなふうに祐真をごく身近で知る人が発する響きはまったく違った。ただ知る人と、時間を共有する人の立場の違いはこうも差がつくのか。昂月の声からは、愛とか哀とか、複雑に絡み合った感情が見えた。

「はい、知ってます」
 昂月は鈴亜の返事を聞いてうなずいた。
「ユーマはわたしの従兄なの。福岡にいたんだけど、祐真兄が中三のとき両親が事故で亡くなって、それから東京に来て一緒に暮らしてきた。良くんは福岡にいたときからの親友。音楽をやめてる理由を云わないし、ほかにもいろいろあるんだろうけど、きっかけは祐真兄だと思ってる。ずっと、こういう内輪のなかでも演奏に参加することもなかった。だから良くんをあそこに引っ張りだしたのは、鈴亜ちゃんのお手柄」
「きっと、みんな鈴亜ちゃんにお礼を云いたいんじゃないかな。わたしもその一人」

 昂月の加勢をしたのは、航の奥さんである実那都だ。日高や航と同じく、実那都もまた祐真の古い友だちだ。
 祐真がいなくなってから、祐真の近しい人たちとこんなふうに会えていることが不思議だった。
 鈴亜がここに来たいと思ったのは、日高のことを聞きたかったからだ。RYOとしての顔を封じた理由が、鈴亜の想像どおりであったことは昂月がさっきの発言で教えてくれた。
 本来なら、鈴亜は恨まれて然るべきなのに、その事情を知らないゆえに無条件で歓迎されていることを思うと心苦しい。

「わたしは祐真さんに会ったことはないし、良哉さんがバンドに参加してるところを見たこともないけど、健朗さんがずっと気にかけていることは知ってるし、だからわたしも鈴亜さんに抱きつきたい感じ」
 健朗のカノジョ、結礼(ゆらい)は首をすくめて遠慮がちに笑みを見せた。
「何もしなくても、いてくれるだけでいいとか、だれかのためになってるとか、そういうことってあるのかも」
 そう思わない? と同意を求めるように首をかしげたのは叶多だ。

 叶多の云うとおり、祐真は鈴亜にとっていてくれるだけでよかった。けれど、そんな簡単なこともかなわなかった。
 ――家を買うよ。レアがいつでも同じ場所に帰ってこれるように。
 引っ越してばかりだった鈴亜に祐真が遺した約束は虚しく空回りしている。
 鈴亜は彼女たちの言葉に応えられなかった。
 日高が自分からやりたいと思わなければきっと意味がない。

 鈴亜の沈黙は気を遣わせている。その空気を緩和しているのはFATEの音慣らしだった。それもまもなく終わり、高弥の「耳栓禁止だ」という普段では聞かれないようなふざけたかけ声からいきなり大音響が店内を満たした。
 日高の車で聴いていたようなハードな曲調は本来のFATEの姿なのか、数曲流れたなかテレビで聴いてきたようなポピュラー感はない。四分音符を八分音符二つ弾いている感じで、指を休めている暇もないようだ。それなのに、まったくそこに神経を払っている様子は見えず、だれもがごく自然に音を弾(はじ)いている。

 居酒屋はクラブと化して、徐々に躰を揺らす人が増えていった。
 最初のうち、日高はメンバーに合わせることに集中していたようだが、ノンストップで三曲が終わる頃には余裕が見えてきた。
 鈴亜もまた耳が慣れてきたようで、だんだんと音が曲になっている。日高がナマで聴くことにこだわった理由がわかった気がした。CDを聴いていて足りないのは、床から躰に伝わってくるこの振動だ。
 ノンストップのあとはバラード、そして、再びヘヴィな曲になってFATEはほかのバンドにバトンタッチした。
 メンバーはいったん鈴亜たちのテーブルに戻ってきたものの、そのあとは日高を残して思い思いに散らばった。

「鈴亜ちゃん」
 セルフのジュースを取りにいって戻るさなか、高弥が鈴亜を呼びとめた。
「まだうるさいだけ? ナマはどうだった?」
 高弥は可笑しそうに訊ねた。日高との会話を漏れなく高弥は理解している。
「耳鳴りはまだしてますけど楽しかったです。先生の車で聴いたときとは全然違いました」
「それはよかった」
 その言葉はおざなりにできないくらい、真剣みを増した余韻を残す。
「良哉をようやくここまで連れてきてくれる人が現れたみたいだ」
 高弥はどこか冗談めかしたけれど、その実、真剣みは失われていない。
「わたしのことですか? それなら過大評価です」
「そうじゃなくて……。FATEの意味を知ってる?」
「運命だと思います」
「そう。そのときにはわからなくても、あとになってこういうことだったんだって思うことがある。昂月たちと祐真の話をしたんだろう? 良哉は、それだけじゃないだろうけど、祐真のことをきっかけにして立ち直れないことがある。おれは、祐真が死んだことを運命だとは思ってないけど、祐真の死をきっかけにした運命があるということは否定しない」

 その経緯はわからないが、高弥は、祐真の友人にとって鈴亜が何者なのか――いや、はっきり死神であることを知っているのかもしれない。鈴亜は漠然とそう感じた。

「鈴亜ちゃん、ユーマのファン?」
 高弥は出し抜けに訊ねた。
 つい今し方、もしかしたらと鈴亜が思ったことを疑心暗鬼だと片づけるような質問だ。
「はい」
「だろうな。鈴亜ちゃんは祐真と似てる」
「……そうですか?」
「ああ。祐真はあの頃、歌えなくなっていた。昂月とうまくいかなくて、家出してそのままだ。だから昂月は自分を責めていた、祐真が死んだことを。いまでも責めているかもしれない」
 鈴亜はそう思ったからこそ、幸せですか、とそう訊ねたのだ。いまでも、とそう聞かされると、鈴亜の問いかけは昂月にとってプレッシャーになっていたかもしれないと気づいた。
「……だれのせいでも……ないと思います」

 昂月のせいじゃない、とは限定できなかった。そうして、鈴亜がただのファンだと思われているのなら安易な発言になってしまう。かといってファンでないのなら、どういう関係だと問われかねない。
 高弥はかすかに笑みを浮かべてうなずいた。

「祐真とは家出のあと、一切連絡が取れなくなった。けど、死ぬ直前に連絡が来た。祐真は立ち直りかけてた。だれもがそう云ってる。良哉は、おれたちのなかで唯一、そのときに祐真に会ったんだ。あいつ自身が、祐真はもう大丈夫だ、って云ったのに、それがなぐさめになってない。祐真の死は事故みたいなものなのにな。まあ、おれも気がすんでるかといえばそうじゃないけど。昂月のことは、真っ向勝負で祐真から奪いたかったと思うようになった」

「昂月さんのこと、ずっとまえから好きだったんですか」
「ひと目惚れ、ってやつ」
 高弥は照れ隠しなのかわずかに目を逸らして笑った。
「その気持ち……死ぬまで持っていけたら、真っ向勝負になりませんか」
「なるほど」
 考えつつ鈴亜が云ったことを子供の戯言(たわごと)とは片づけず、高弥は納得したようにうなずいた。
「慧ちゃんが云ってた。良哉もひと目惚れらしいって」
「……あたしにはわかりません」
 あの日、鈴亜をじっと見つめた日高は普通とは違ったけれど、ひと目惚れという瞬間でもない。見入ったというよりも驚きに近い衝撃だった。

「確かに良哉にしかわからないことだ。祐真がどんな想いで逝ったのかもわかることはないけど、心残りはあるんじゃないかと思う。昂月のことがそうだっただろうし、立ち直ろうとした祐真が未来(さき)に見ていた何かもそうだろうし。祐真は冷めて見えたけど、実際はいろんなことを考えてる。鈴亜ちゃんもそんな感じだ。だから、期待してるよ、って云ったらプレッシャーになるかな」

 どこから繋がって、『だから』となるのか、鈴亜には理解できずに首がかしいだ。合わせたように、おどけた様子で高弥が首をひねったとき、近くに煙草の薫りを感じた。

「何を期待してるんだ」
 日高が怪訝そうに云いながら割りこんできた。怪訝そうというよりは不機嫌そうなのかもしれない。
「怒るなよ。おまえの推薦状を鈴亜ちゃんに渡してただけだ」
 高弥はからかい、眉をひそめた良哉を放って立ち去った。
「高弥と会話が続くのは昂月だけだと思ってたけどな」

 日高はそこで打ちきったが、何を話してたんだ、と鈴亜は省略された疑問を感じとった。
 日高の云うとおり、高弥はボーカリストといういちばん目立つ位置にいるのに、いちばん喋らないというイメージがある。
 鈴亜との会話が続いたのは、良哉を立ち直らせたいという気持ちの表れなのだろう。結局は、高弥が鈴亜と祐真の係わりをわかっているのか否か、はっきりしなかった。

「ユーマのことを話してくれた。みんな、ユーマのことがすごく好きみたい。先生も」
「おまえもだろ」
「……え?」
 日高は奇妙なほど断定した。その真意はわからず、鈴亜はどうにか不自然にならない程度に質問を返した。
「今日は雨が降ってるし、ちょうどいい」
 日高はまったく頓珍漢なことをつぶやく。
「先生?」
「帰るぞ。もういいだろ」

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