月の裏側〜幸せの続き〜
第4章 promise the Moon -果たせない約束-
3.悪びれない犯罪者たち
日高の車まで行くと、さきに助手席が開けられて鈴亜は押しこめられるようにして乗った。日高が運転席に座って間もなく車は車庫を出た。
寮を出る直前、玄関のまえに明かりをバックにして黒い影が一つだけ見えた。
「どうした」
寮を出てすぐ、身ぶるいしたことを感づいたかのように日高は問いかけた。
「どうかしてないと、最後までいなくちゃいけない?」
「夜遊びしてるおまえが早く帰るっておかしいだろうっていう話をしてる。今日また出るつもりなら縛りつける」
「それ犯罪だけど」
「犯罪ならもう犯してる。それが知れたら一発で首が飛ぶな。だとしたら、いくつ犯すも同じだろ」
日高は悪びれもせず反省していない犯罪者みたいなことを云い、薄笑いすらして鈴亜の忠告をはね除けた。
「人と仲良くするのが苦手なだけ。だから帰りたくなった」
「転校のせいか?」
「ううん、間違い。苦手っていうよりは面倒くさい。慣れたと思ったらまた最初から始めなくちゃいけないし」
「だからって寄ってくる奴をはね除けなくてもいいだろ」
「はね除けても寄ってくる人がいるよ。ちづるとか、先生とか」
云い返すと、日高はため息をつくように笑った。
ちょうど赤信号で止まって、その笑みを浮かべたまま、日高はコンソールボックスから煙草を取りだした。
「ホント、煙草よく吸ってる」
煙草を咥えて火をつけ、満足げに毒を吸った日高は笑うのと一緒に煙を吐きだした。
「中毒だな」
窓を開けながらまた一服すると、日高は外へと顔を向けて紫煙を散らし、ドアの枠に肘を引っかけた。
そのしぐさは、日高が反対を向いているせいか、排除されたように感じる。
鈴亜はシートベルトを解き、日高の腿に手を置くと伸びあがった。背けていた顔が鈴亜のほうへ向いてくると、すかさずくちびるを押しつけた。
無抵抗のくちびるを舌で割ったとたん、形勢は逆転した。日高が口を開き、鈴亜の舌に吸いつく。日高の口のなかで舌が痙攣するようにふるえた。
くぐもった鈴亜の呻き声は、満足そうでもあり、催促のようでもある。けっして抗議でも苦痛のせいでもなかったが、鈴亜はキスから逃れた。日高は引き止めることなくすんなりと鈴亜を解放した。
「シートベルトしろ。淫行条例違反で捕まるのは本望でも、交通違反じゃ詰まらない」
どういう基準でそうなるのか、冗談めかしつつ、半ば本気にも聞こえた。
信号が青になって車が発進するなか、鈴亜はシートベルトを締めた。
「先生をやめるだけですむならまだいいかもしれないけど、FATEには損害になるよ」
日高は流し目で鈴亜を見下ろした。ふっと笑みをこぼす。
「確かに」
「明日も試合?」
「ああ」
「先生って忙しいんだね」
「皮肉か」
「授業も担任も部活も、手を抜いてないから。日高先生ならどうするだろうって思っただけ」
「なんの話だ」
「クラスで問題起きたり……例えばいじめとか不登校とかあったらどうするのかなって」
「教師なら最低限、なんらかの働きかけをするべきだ」
「解決できる?」
鈴亜の問いに即答はなかった。日高は、答えを考えているというよりは何かに思いを馳(は)せている。そんな気配を感じた。
「……こういう答え方をすると、逃げに聞こえるだろうけど……力になれるかとか解決できるかどうかは別問題だ。そういった自信も驕(おご)りもおれにはない。自分が無力なのはわかってる。ただ……待つだけで何もしないままの後悔はもうしたくない」
「先生が無力?」
問い返すと、日高はちらりと鈴亜を見やった。
「ああ。どうやったって人の力じゃ取り返しのきかないことがある。時間が解決するっていうけど、時間だけでは足りないときもある。人の時間は永遠じゃない。待ってるだけっていうのは結局、何もしないのと同じだ」
日高は鈴亜から祐真を奪う人、そんなふうに思っていたけれど、正しくは違う。日高は祐真と同じだ。ふたりとも安易に言葉を吐かない。
いま祐真の言葉は曖昧だけれど――それは鈴亜が壊してしまったんだろうけれど、祐真の言葉は、固く結んだ糸が一つ一つほどかれているようだった。日高もまた、結び目もわからない細い糸をほどきかけている。そんな感覚がした。
「働きかけるって、不登校だったら毎日訪ねる?」
「人のことを考えられる奴ほど、自分がだらしないと思いつめる。おれがいることでそんなプレッシャーを与えてしまうときもあるだろうし……距離感は難しいな」
日高は反対側からもちゃんと考えられる人で、だから鈴亜の先回りができるのだ。ちづるが褒めそやしたことがだんだんと理解できていく。
そして、鈴亜はもう一つ訊きたい質問を投げかけた。
「苛めてる子が、自分に影響を与えそうな、どこか偉い人の子供だったら?」
日高は首を振りながらため息をついた。すでに答えが出ていて、迷いがないといった感じだ。
「さっき云っただろ。本望だって。後悔するとわかっていることをおれはやらない。それが偽善だと云われても、エゴだと云われても」
何が日高をそこまで云わせているのか、そうなったきっかけが存在することだけはわかった。
「それで?」
沈黙に任せていると、日高がふいに促した。
「なんのこと?」
「具体的に話すことがあるんなら聞く」
「あたしのことじゃないし、ずっとまえのことだからいい」
厳密に云えば、不登校は鈴亜のことだが、あれは学校に行きたくなかったわけではない。田辺があまりに“鈴亜が見たこと”にこだわっていて、へつらうような田辺を見たくなかったからだ。
「話したいっていう気になったら云ってくれ。聞きたい」
「先生もね」
切り返すと、鈴亜を一瞥して可笑しそうに笑った。
家と学校は駅四つしか離れていない。車中、日高が高校時代、陸上部に所属していたことを聞いて、その話題が占めた。専ら聞き手にまわりながら、鈴亜はなるべくさり気なく話題を振ろうとタイミングを計っていた。もうまもなくマンションが見えてくる。
「そういえば先生、田辺監督はお花見のとき、一緒だった?」
「ああ……早く帰ってたな。おまえとぶつかったあと、酒を買いに行って戻ってきたときにはいなかった。来ていたのは確かだ」
やはり唐突に聞こえたかもしれない。日高が最初にためらうとそう不安になったが、あとに続いた云い方からすると、単に記憶を探っているだけのようだった。
「やっぱり。あの日、見た気がしたから」
田辺に犯されたことは、日高が云うプチ家出をするたびにそうなったとしてもかまわないと、自業自得を承知してやってきたことだ。あとから田辺だとわかってもショックはなくて、むしろ罰として納得できた。
けれど、日高と出会った日に、躰が穢されたことをいまになって後悔している。いや、もともと穢れていて、きっと後悔するには値しない。今日、ゴミ置き場の裏で起きたことは、いかにも鈴亜と田辺らしかった。
それでも――いままで受動的にやってきたことなのにさっきは拒絶した。
たぶん、祐真の妹を見届けるまでとそうやって保っていた生きる理由が、いままた見つかったんだと思う。日高にそれを見いだしている。
かといって日高のために鈴亜に何ができるのかはわからない。かえって、わからないままのほうがいいのかもしれない。何ができるかずっと探し続けるぶんだけ、祐真が望んだように鈴亜はここに在るだろうから。
「特別な将来があるかもしれない生徒を預かってるからな。なかなか奥さん独りに任せて長時間、寮を空けるというのも難しいんだろう」
「ちづるがプレッシャーあるだろうなって云ってた。まだ二年めって云ってたし、そしたら先生のほうが監督より一年先輩になる?」
「ああ。前監督は病気で退いた。後任の田辺監督は、その前監督の推薦で決まったんだ。ふたりは高校時代の陸上部の師弟で、田辺監督の奥さんは前監督の娘になる」
「子供さんは?」
「まだみたいだ。結婚したのが東高に来る直前だったらしいし、こうなってみると、タイミングが難しいのかもしれないな。子育てするとなったら、だれかを雇わなきゃ寮はやっていけないだろ」
子供がいないと聞いて鈴亜はほっとした。鈴亜が後ろめたく思う必要はないのかもしれないが、もし知られたとき、奥さんには無理やりだったと云い訳ができても、子供にそれはなんら役に立たない。それどころか傷つくだけだ。
「たいへんそう」
「だな。ここに来るまえは私立中にいたらしいけど……」
鈴亜に答えていた日高はふと考えこむ。眉間にはしわが寄っていて、ピンポイントで記憶を突(つつ)いている感じだ。
「先生?」
呼びかけると険しい顔がそのまま鈴亜に向けられた。すぐまた正面に戻る。
「ああ……中学ではそれなりに成績は出してたみたいだ。前監督としても自分が押したからにはいいかげんだったり能なしだったり、そんな奴を選べないだろ」
とりあえず、鈴亜が聞きたかったことは聞けた。
好きでもない女と云われた奥さんがどんな人なのか知りたい気持ちもあったが、そう口にしてしまうほど、田辺は無神経で現状に不満があるのだ。
やがて日高は柏木家のあるマンション沿いに車を止めた。
「十四日は迎えにくる」
うなずいて鈴亜はドアを開けた。
「鈴亜」
片足、アスファルトの上におろしたとたん呼ばれて、鈴亜は運転席を振り向いた。
「家出したくなったときはおれのとこに来い。どうしていいかわからないときもだ」
日高の眼差しは深刻に見えるほどごく真剣だ。
「……そうする」
ためらったぶんだけ、鈴亜の返事は少し間が空いた。
日高がうなずくのを見てから、鈴亜は車を降りた。
それから鈴亜がマンションのエントランスに入るまで、日高の車は止まっていた。自動ドアが閉まったあと振り向いたとき、車はちょうど動きだすところだった。
車が見えなくなるのを待って、鈴亜は再び外に出て空を見上げた。沈みかけている上弦の月はもう建物が邪魔をして見ることはかなわない。
いまいくつもの偶然が重なることを祐真のせいにするのは卑怯なのだろうか。ふとそんなことを考えた。
月は傍にあるようでいて、けっして届かない。月を求めて泣き叫んでも、その望みが叶うことはない。泣くだけ無駄で、ただそのときに何が起きるかわからないまま、そのときを待ってきたけれど――。
家に帰ると、今日は父、多一朗もめずらしくリビングで一緒にくつろいでいた。
「おかえりなさい」
「おかえり」
「ただいま」
口をそろえて云う両親に鈴亜はおざなりの挨拶を返す。そして、部屋に向かいかけた足をつと止めた。
「お母さん、田辺先生のこと、憶えてる?」
問いかけると、返事を待つまでもなく、驚きからしかめ面に変化していく佳乃の表情が応えた。
「田辺先生がどうかしたの?」
「教師を辞めてたって聞いたから」
佳乃はため息をついた。
「そんなに大事になるとは思わなかったの。注意してもらったらいいというくらいの気持ちで……。もう来ないでほしいって、あなたがいなくなってから学校に抗議したの。お隣の人が、あの日、急ブレーキ音を聞きつけて見ていたらしいわ。あの祐真って人と先生が殴り合ってるのを。訊いたら、車も背恰好も服装も、その日の先生と同じだったから」
「あたしの話は信じてくれなかったのに、隣の人の話は信じたんだ」
佳乃が思っている以上に、大事になっている。たった一つ、けっして還らないものを失ったのだから。
田辺がいなかったら祐真と出会うことはなかった。それなら、祐真と出会って、その日が来るまでの間に、佳乃がそうしてくれていたら――。
「鈴亜、母さんは信じなかったわけじゃない。母さんなりにどうしたらいいのか悩んでいたんだ」
いつも寡黙にしている多一朗がめずらしく口を挟み、続けた。
「父さんも学校には一緒に行った。そのとき先生と会ったが、普通の教師にしか見えなかった」
「だから? お母さんの云うことは疑わないで信じたんでしょ? それでいいんじゃない? あたしも、お父さんもお母さんも信じてないし」
鈴亜はそっぽを向いて自分の部屋に向かった。すると――
「お姉ちゃん」
香奈が呼びとめた。声にはためらいが覗く。
「何」
「あの男の人――祐真って歌ってる“ユーマ”のことじゃないよね?」
「うん、て云っても、ユーマはもういないし、ファンの妄想だろうって笑われるだけで、だれも信じないよ」
鈴亜はイエスともノーとも云わないままリビングを出た。
部屋に入ってバッグを机に置くと、無断でドアが開けられた。
「鈴亜、なぜいま頃また田辺先生のことを?」
佳乃は怪訝そうに眉をひそめている。
「青学東にいたから」
淡々とした鈴亜の答えに、佳乃は目を見開き、すっと息を呑んだ。
「会ったの? あなたのこと、気づいたの?」
「知らない」
「祐真って人、あなたを田辺先生からかばってたって聞いたわ。香奈はまえから云ってたの。芸能人のユーマと同一人物じゃないかって。あなたが帰ってきた日とユーマが亡くなった日は同じよ? 外傷性くも膜下出血、死因はそうだったわよね? それも何日かまえに頭を強打したことが原因だって聞いてる。もしかして……」
「偶然に決まってるでしょ。ばかじゃないの。そう云ってだれが信じるの?」
「鈴亜、だから自棄になっておかしなことをしてる――」
「関係ない。あたしのためにって勝手に思ってるのはお母さんの自由だけど、自分は何もしないくせに日高先生を当てにして巻きこまないで。あたし、高校卒業したら働くし、だから家も出ていくよ」
「鈴亜……」
「出ていって。そうしてくれないならあたしが出てく」
佳乃は口を開いて何か云いかけたが、結局は何も発することなく部屋を出ていった。
佳乃がわざわざ田辺のことを確認しにきたのは、鈴亜のことを案じてのことだろう。けれど、母親のそうした心配は鈴亜にとってはもうお節介でしかない。
独りになることをずっと決められなかったのは鈴亜だ。鈴亜もまた、何もしないでいたことにかわりはなかった。