月の裏側〜幸せの続き〜

第4章 promise the Moon -果たせない約束-
2.最初から終わり

 六時から始まった夕食の時間は鈴亜にとって苦痛でしかなかった。
 レシピどおりに作ったキーマスープカレーは美味しかったが、なかなかのどを通らない。
 鈴亜は終始、田辺の視線を感じている。それが自意識過剰の結果なのか、確かめることはできなかったが、目の隅に田辺を捉えると、鈴亜がいる方向に顔が向いていることが多い。
 あと一時間、あと三十分といったふうに、自分に云い聞かせてやりすごした。
 夕食後、食器の洗い物が終わり、ちづるを含めてマネージャーは、食べている間に洗濯していたものを干しに行った。残った鈴亜と慧は食器を拭きあげていく。

「鈴亜さん、十四日は来るって聞いたけど?」
「はい。FATEの生演奏が聴けるって聞いて楽しみにしてます」
「平日だし、教師が夜遊びを勧めるのもどうかってあとから思ったけど、教師引率だからいいよね」
 慧は共犯者同士が交わすような、こっそりとした笑みを向けた。
「大丈夫です。夜はだいたい遅くまで起きてるから」
「授業中、居眠りしてない?」
「もう慣れてます」
 鈴亜が答えると何を思ったのか慧は吹くように笑う。
「FATEと知り合いなんて云ったらたいへんなことになるから、だいたい黙ってるんだけど、鈴亜さんはメンバーに会っても動じなさそう。だから、日高先生に誘えばって思いつきで云っちゃったんだけど」
「……そういえば日高先生、心配かけてるって云ってましたね」
 慧の発言に便乗して、なんのことか促してみたが、慧はためらいを笑うことでごまかした。同時にさみしさがその顔をよぎり、鈴亜は慧にとっても祐真は近しい人なのだと感づいた。
「あ、あたし、ゴミ捨ててきますね」
 自分が人の干渉を嫌うくせに、人から聞きだそうとしている自分に気づいて、鈴亜は慧が答えなくていいよう食べ滓(かす)を纏めた袋を持った。
「暗いからわたしが……」
「すぐそこだから。場所を知ってるあたしのほうが早いです」
「じゃあお願いね。わたしは食器を片づけてるから」

 シンクから袋を持ちあげ、何気なく上げた視線のさきに田辺がいた。目が合うと、入り口にいた田辺は踵を返して消えた。
 無意識に息を詰めていたらしく、鈴亜はふっと息をつくと裏口から外に出た。
 照明のセンサーが鈴亜に反応して行き先を明るくした。あと少し我慢すれば帰れると思ったことが気を緩めていたのかもしれない。ゴミを捨て、ゴミ置き場の戸を閉めたとたん腕がつかまれた。
 鈴亜は悲鳴をあげるのではなく、逆に息を呑んだ。
 引きずるようにゴミ置き場の裏に連れていかれる。そこは照明がわずかしか届かず、ただ、それでも腕をつかまれたまま向かい合った相手が田辺であることは判別がついた。

「相変わらず、男を誑(たら)しこむのがうまいな。今度は日高か?」
 暗がりではっきりはしないが、同じ口を歪めた笑い方でも、日高よりはずっと卑しい気配を感じる。鈴亜は身ぶるいしたくなるのをどうにか堪えた。
「日高先生は担任というだけです」
「おれも担任だったな」
 田辺は薄笑いをした。
「……なぜここにいるの」
 田辺の手に力が入り、鈴亜の腕が痛むほど圧迫される。
「教師をやめざるを得なくしたのはおまえだろうが」
 その声は低く吠えるようで、急に剣呑に、そして乱暴になった。田辺の明らかな豹変ぶりは一度だけ目にしたことがある。いまは独りではなく、叫べば届く距離にだれかがいる。鈴亜はすくみそうになる気持ちをなんとか励ました。

「あたしは学校に行かなかっただけ」
「ふざけるな。おまえの親がわざわざ学校にやってきたんだよ。知らないのか? 娘がおれに付き纏われて怯えてるってな」
「……いつ?」
「そんなことはどうだっていい。どうやって償うつもりだ?」
「償う? あたしは何もしてません。田辺先生が勝手に……っ!」
 云いかけているさなか、突き飛ばすように躰を押され、ゴミ置き場の壁に背中がぶつかった。息を呑んで痛みを耐え、その間に田辺は躰を押しつけてきた。
「放して」
 壁に押さえつけられた両腕を押し返そうとしたがびくともしない。それどころか腕を持ちあげられ、片手で頭上に括られると、力も入れられない。空いたほうの手は、鈴亜の顎をつかんで上向けさせた。

「なあ柏木、おまえ、おれが好きだったよな。悪かったよ、幻滅させて。けど、しかたなかったんだ。わざわざ問題にして出世を遅らせたくなかった。下っ端で焦ってたんだ」
 本気で云っているのか、鈴亜は信じられない気持ちで田辺を見つめた。
 田辺は、浅黒く体格はごついが、顔はくっきりしたパーツがそろっていて悪くない。確かに、転校した当初はよく気にかけてくれていて、鈴亜も好きだと思っていたかもしれない。けれど、いまやもう忘れてしまったほどのただの好意であり、田辺が云う『好き』とは間違いなく種類が異なる。
「わざわざって、彼女は泣いてました」
「おまえが助けたってどうにもならなかった。わざわざじゃなくてなんだ。ああいうのは飽きるまで待つしかないんだ」

 教師のくせに、と鈴亜がそう批難するのは卑怯なのか。
 東京にいた中学三年の六月、当時、違うクラスの子だったけれど彼女が苛められているのはなんとなく気づいていた。鈴亜が助けようと思ったのは、感づいてからしばらくして、その現場に居合わせたときだった。そうでなかったら、ほかの子たちと同じようにずっと傍観者でいたかもしれない。そう思うと、田辺を責められない。
 ただ、田辺もその場にいたのだ。

 ケンカじゃないんならやめたら。その言葉は間に合わなくて、彼女はプールに落ちた。鈴亜がスマホを向けてピントが合っているかどうか確かめもせず写真を撮ると、苛めていた子たちは、憶えてなさいよ、といった芸のない脅し文句を吐きながら散っていった。
 体操服もプールのなかに放られていて、鈴亜の体操服で帰った彼女は風邪だとかで翌日は学校を休んでいた。
 待つしかなくても、見ていたのなら助ける。それだけでもよかった。加害者側のリーダーの子が学校理事会メンバーの子供だからといって、機嫌とりをする姿など見たくなかった。
 そして、田辺は“見ていたこと“を見ていた鈴亜にまで気を遣い始めた。

「幻滅なんかしてない。どうでもよくなっただけ」
 鈴亜はうんざりして不登校になった。もともと転校するために勉強だけは先取りしてしっかりやらされていたから、どこからはじめてもついていけないことはなかった。学校など行かなくても困ることはない。
 ただ、田辺は、学校に来るよう、頻繁に家にやってきて説得をした。最初のうちはまだ気を遣うような様子だったが、だんだんとそれが恨みや憤り、そんな眼差しに変わっていった。
 それが怖くて、鈴亜は田辺が来る頃になると家を出ていた。そんなときに祐真と出会ったのだ。

「どうでもよくなった? ばかにしてるのか」
「違いま……」
「だよな。襲われても無抵抗で受け入れるおまえに人をばかにする資格はない。もしかしてそういうのが好きなのか?」
 直後、田辺は下腹部を密着させてきた。首がのけ反ってしまうほど顎が持ちあげられる。
「嫌っ」
 顔が近づいてきたとたん、鈴亜はできうるかぎりで顔を背けた。
「奥さん、いるのに……」
「おまえのせいで好きでもない女と結婚するしかなかったんだ。教師を干されて、何ができたと思う? どこに行ってもなぜやめたか、そんな理由ばかり求められる。その時点でそこにいてもさきはない。最初から終わりだ」

 田辺の手がTシャツの下に潜ってデニムパンツからキャミソールを引きだす。もがいてもなんにもならず、田辺の手は素肌に触れた。
 ぞっとして全身が粟立つ。くちびるを押しつけられると吐きそうな感覚に襲われた。軟体動物のような舌が、くちびるを抉(こ)じ開けようとする。下半身が密着して動きにくいなか、鈴亜は精いっぱいで足をばたつかせた。それが脛(すね)に当たり、呻いた田辺の腕が緩んだ隙に、振り払うようにして鈴亜は逃げた。
 腕でくちびるを拭いながら、ゴミ置き場の裏から出たとたん、だれかとぶつかりそうになる。

「わっ」
 互いに立ち止まり、かろうじて体当たりは避けられた。
「ごめんなさい」
「鈴亜?」
 謝りつつ顔も見ないで横をすり抜けようとしたときに、それが弘亮だと気づいた。手にはゴミ箱を持っている。
「どうかしたのか?」
「なんでもない。……お母さんが早く帰ってきなさいって」
 怪訝そうな声に応えると、まだ八時まえだろ、と呆れたように肩をすくめた。
「過保護だな」
「かもね。じゃあ」
「ああ」

 弘亮の声に気づいて、田辺がゴミ置き場の向こうに隠れたままでいることを願いながら鈴亜は調理室に入った。すると、食器をしまっていた慧は手を止め、鈴亜を見て、よかった、とため息を漏らした。
「遅いから捜索願を出そうかって思ってたんだけど」
 冗談というよりは本気でそう考えていた様子だ。
「お母さんから電話があって。あたし、さきに帰ります」
 一方的に云うと、鈴亜は棚から自分のバッグを取った。
「え、日高先生が送るって……」
「待ってたら遅くなるから。電車のほうが早いし。さよなら」
「鈴亜さん!」
 呼びとめる声に従うことなく、鈴亜は寮の玄関に向かった。靴を履いて外に出ると、道路までのアプローチを急かされるように歩く。

「柏木さん」
 半ば叫ぶように、再び鈴亜は呼びとめられる。声には反応しても、足は止まらなかった。
「柏木」
 アスファルトを駆けてくる音、そして名を呼ぶ声に続いて、鈴亜は腕を取られた。
「送っていく」
「いい」
「いいから」
「でも、ちづるたちも――」
「男子がいる。駅まで送るのも日課だ」
 日高は鈴亜を車庫へと連れていく。腕をつかむ日高の手は強引でもやはり痛くはなかった。

 ついさっき、あの日はちょうどよかったはずの痛みにぞっとして、いま、この人じゃだめだと思った痛くない強引さにゆだねてしまいたくなる。一カ月の間に正反対に変わったのはなぜだろう。
 偶然が必然に変わっても、それならそれでいいと思っていたのに、いまそうなってみると、何かが起きそうで怖い。さっきの田辺を見たらなおさらそんな怖れが増していった。

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