月の裏側〜幸せの続き〜
第4章 promise the Moon -果たせない約束-
1.イタズラな驚怖
偶然から始まる必然は、時に幸せで、時に泣きたくなる。
祐真に会えた偶然は幸せであるように、そして、記憶のなかには泣き叫びたいほどの必然があるように。
けれど、偶然が重なれば重なるほど、それらのどちらでもなく、鈴亜は怯えてしまう。日高が云うような必然という結果ではなく、逃れられない結果に導かれているような感覚がするのだ。
「三十人分てすっごい量」
調理室のなか、ちづるは、たっぷりとスープカレーの入った大型の鍋を覗きこみ、目を丸くする。
「正確にはわたしたちのぶんまでだから四十人分ね」
スープをゆっくりと掻き混ぜる鈴亜の横で、慧もまた量の多さに呆れ気味の様子で、ちづるの発言を訂正した。慧は、スープカレーに入れる野菜を油で揚げているが、茄子や人参、そしてピーマンなど何種類もの野菜がそれぞれ巨大なお皿の上で山盛りになっている。
「監督の奥さんてこの量を毎日、しかもお弁当まで入れたら三食作ってるんだし。尊敬しちゃう」
「そうよね。今日はメインをスープカレーっていう簡単メニューにしてもらってるからまだラクだけど、要領が悪ければ一日中料理って感じかも」
「よかった、ちょうど時乃先生がいて。わたしたちだけだったら間に合ってなかったかも」
「ちづる、手が止まってる」
あ、と、ちづるはちぎりかけのレタスに目を落とし、再び程よいサイズにちぎり始めた。そうしながら悪戯っぽく笑って鈴亜を覗く。
「鈴亜もね、ありがと」
ちづるはどうやら、慧に限ってお礼を云ったことで鈴亜が拗ねていると思っているらしかった。
「お礼を云われるほどたいへんなことやってないよ」
「ううん、ダメもとで誘ったんだけど。だからたいへんていうより楽しい感じ」
ちづる以上に鈴亜はここにいることを自分でもびっくりしている。
ちづるが、今度の土曜日に陸上部員寮の夕食作りを手伝ってくれないかと鈴亜に頼んできたのは、連休が明けた翌々日、水曜日だった。
寮は監督夫妻が取りしきっているという。めったにないことだが、監督の奥さんが実家に帰らなければならず、マネージャーの出番だとなったらしい。
マネージャーはそれぞれ学年ごとに二人ずついるが、高校生でそう料理が得意という人はいない。ちづるは自分でお弁当を作ってくるくらいだからいくらかの知識はある。けれど、自分たちを含めて四十人分となればきりきり舞いするのは必至だ。おまけに日常の仕事で洗濯とか掃除とかグラウンドでのサポートなどがあり、その傍らでやるとなったらてんてこ舞いだ。
料理なんてまともにしたことのない鈴亜が役に立つとは思えず、一度は断ったのだが、スープを混ぜることくらいできるでしょ、というちづるの懇願じみた眼差しに折れてしまった。
部長である日高も、監督の田辺も、部外者でも頼めばいいと勧めたくらいで、鈴亜と慧が手伝うということに至っている。
鈴亜がためらったのは“田辺”という監督の名のせいでもあった。けれど、そもそもの手伝う理由を聞けば奥さんがいるというのだから、同一人物ではないだろうと鈴亜はほっとして引き受けたのだ。
寮は学校から十分くらい歩いたところにあって、直接ここに来た鈴亜はまだ監督とは会っていない。ちょっとした不安は燻っている。
「どうです? 足りないものはありませんか?」
いきなり日高の声がした。今日はスポーツウエアで、また違った雰囲気だ。ピアニストではなく、本当にスポーツマンらしく見える。
「大丈夫です。部活、もう終わりますか?」
日高は鈴亜に留めていた目を、そう訊ねた慧へと転じた。
「三十分もしないうちに戻ると思いますよ」
日高と慧が知人同士だというのは知れ渡っているはずが、ちづるともう一人、食器を準備している子がいるせいか、滑稽なほど他人行儀な喋り方だ。
「じゃあ、揚げた野菜をスープ皿に入れよっか」
だれにともなく慧が云い、ちづるはマネージャーの子を呼んでサラダの準備を一緒にやろうと誘っている。鈴亜は大鍋の火を止めた。
その間に調理場に入ってきた日高は、今日に限らず手伝うことがあるのか、生ゴミの入ったバケツを二つ持ちあげた。あと一つ残っている。
「先生、あたしが持っていきます」
鈴亜を振り向いた日高は、おそらくは大丈夫だとか云うためだろう、口を開きかけていたが、それよりも早くバケツを持った鈴亜を見るといったん口を閉じた。わずかに首を傾けたあと。
「ついてきてください。こぼさないように」
わかりきった忠告を付け加えた日高は、鈴亜の無言の抗議を見ることなくさっさと背中を向けた。
日高についていくと、裏口から出て少ししたところにハウスタイプのゴミ置き場があった。袋を取りつけられた大きなバケツのなかに、鈴亜が持ってきたぶんまでゴミを移し替えると、日高はすぐ隣にある洗い場でバケツをきれいにしていく。
「時乃先生とも普通に話せないの? わざとらしくてヘン。偽善っぽくて嫌い」
日高は状態をかがめたまま顔だけちらりと上げ、小さく笑った。
「それを云いたいためについてきたのか」
「田辺監督ってどんな人?」
「若いけど、才能を見いだす目はある」
「若い? いくつ?」
奥さんがいると聞いて、なんとなく中年というイメージを持ったが、それは鈴亜の勝手な思い込みにすぎない。あえて、ちづるに年齢を訊くこともしなかったけれど。
「今年、確か三十じゃないか」
監督という立場にしては思っていた以上に若い気がした。
「監督って、ほかに仕事持ってないの?」
「監督をわざわざ外部から招くほど、東高の陸上部は強い。学校側は、監督業に専念してもらわなければ困るという方針だ。つまり、ほかに仕事しなくていいくらい、おれたち教師並みにもらってるんじゃないのか」
それならきっと違う。
田辺がいた中学校は名の知れた私立校で、そこにいることにこだわっていた。だからこそ、不登校の鈴亜が自分の評価の妨げになると思って我慢できなかったのだ。それほど執着していたのだから、やめてここに来るなどあり得ない。
「それで何が知りたいんだ」
黙っていると、またちらりと日高が顔を向けた。
「先生の給料」
日高は少年っぽく声をあげて笑った。バケツを洗い終わって背を伸ばすと、鈴亜を見やる。
「そうやってなるべく笑ってろ」
やけにやさしく聞こえ、そして、鈴亜は云われるまで自分が笑っていることに気づいていなかった。
笑顔の消し方がわからない。そんな戸惑いを覚えながら、日高から目を逸らすこともかなわない。
日高はなぜか鈴亜をかまいたがるけれど、鈴亜のなかに土足で踏みこもうとまではしない。
日高の家に泊まった日、結局、鈴亜は日高が送っていくと云うまで居座っていた。いつ注文していたのか、慧が帰ってまもなくするとピザが届いて、ふたりで食べながら日高が作曲したFATEの曲をピックアップしているうちにバンドの話になり時間がたったというだけで、居座っているつもりはなかった。
鈴亜は知らないうちにドアを開けさせられていて、いつの間にか日高がなかにいる。ペースが乱されている以上に、そんなふうに気を許している瞬間があるのかもしれない。
「笑ったからってなんの役にも立たない」
「そんなことはない」
日高は即座に鈴亜の言葉を否定した。続けて――
「行くぞ」
と、もう鈴亜には応える気がないと察しているかのように云い、鈴亜に洗ったバケツを押しつけた。
さっさと行く日高に遅れること二秒。
「終わりましたか」
鈴亜が躰の向きを反転させるさなか、日高がだれかに話しかけた。
「はい。今日はお世話かけますね」
日高に応じる声にハッとしたのと、その姿が鈴亜の視界に入ったのは同時だった。歩きだそうとしていた足が動かなかった。
「いえ、僕のほうが部長とは名ばかりで何もできていませんから、これくらいの協力は惜しみませんよ」
日高の返事もろくに耳に入らず、“監督”から目が離せない。
「ありがとうございます」
そう応えながら、その目は日高から逸れ、斜め後方にいる鈴亜へと照準を合わせてきた。
それは紛れもなく田辺栄大だった。
鈴亜のように驚きは見えない。もっとも、鈴亜にしろ、立ち尽くしてはいても表情に変化はなかった。ただし、離れていても、田辺は脅しのような気配を発散している。
「奥見が頼んで手伝ってくれた生徒さんですか」
田辺は日高に目を転じて、鈴亜のことを見知らぬ人のように訊ねた。そうやって田辺は先手を打ったのだろう。鈴亜はとりあえずほっとした。知らないふりができるのならそのほうがよかった。
二度と陸上部には係わらない。鈴亜はそう自分を戒めながらも、だれかの悪戯みたいに偶然が増えていくことに驚怖を感じた。
「ええ、柏木さんです」
紹介を受けて田辺の目が再び鈴亜に向かってくる。背を向けて逃げださないように、脚に力を込めなければならなかった。
「田辺です。柏木さん、今日はありがとう」
「……いえ」
鈴亜は素早く一礼をして、日高を見やった。
「準備急がないといけないからさきに行きます」
田辺の傍を通るのも嫌だったが、露骨に避けるわけにもいかず、調理室に入るにはそうしなければならない。目を合わせる暇もないよう、鈴亜は小走りで向かった。ロボットみたいにぎこちない走り方をしているかもしれなかった。