月の裏側〜幸せの続き〜

第3章 Blue Moon -オラクル-
3.偶然はいくつ重なっても偶然?

 ひと晩中、体温と呼吸と、そして心地よい重みを体感しながら眠っていた。
 実際にはわからない。
 そう感じさせてくれるのは祐真だけだ。けれど。
 祐真。
 そうつぶやいて手を伸ばしても空を切る。祐真は、鈴亜の手からわざと逃げているのでもなく、寝ぼけた鈴亜を笑って見守っているわけでもない。
 祐真は二度と抱きしめてくれないし、鈴亜が抱きしめることもできない。
 くちびるがふるえて歪む。鈴亜は目を閉じたまま、泣きだしそうな気分が落ち着くのを待った。

 うまくできなかった呼吸が落ち着いていくと、裸体をくるんだふとんから煙草の匂いが漂っているのに気づいた。だから夢を見たのかもしれない。祐真はキスがかわりになると云って最期には煙草を吸わなくなっていたけれど、いまみたいにほのかに名残はあった。
 鈴亜はゆっくりとまぶたを上げる。
 手は、祐真だけではなく何も探し当てることができなかった。そのとおり、ベッドの隅にだれかいることもなく、ベッド脇に立って眺める人もいない。顔を上げて部屋を見渡してみたが、呼吸をする存在は鈴亜しかいなかった。
 何時だろうと時計を探したが見つけられず、鈴亜は上半身を起こした。すると、枕とベッドヘッドの間に埋もれてしまいそうなデジタル時計が目に入る。
 救いだしてやって見ると十時をすぎていた。いつもならとっくに家に帰って眠っている時間だ。

 ペースが乱れているのは日高のせいだ。それは断言できるけれど、なぜ乱されてしまうのか、鈴亜には自分のことなのにわからない。
 昨夜のことが甦ると自己嫌悪しか感じない。セックスしようと誘ったのは紛れもなく鈴亜のほうだ。最後の最後に、確かめたくて抱かれてもいいと思ったけれど、もともとは日高がそうするはずはないと高を括っていた。担任室でしたキスは事故みたいなもので、教師と生徒なのだから。日高自身があとになって警告したとおり、そして鈴亜も認めたとおり、まるで日高を甘く見ていた。
 そうしたすえ、日高はいちばん堪(こた)える方法で鈴亜をやり込めた。犯されることが躰を穢しているように、快楽は心を穢している。日高には見透かされているのかもしれない。感情を剥きだしにすることなどないのに、日高はキスのときから、何度も鈴亜にそうさせる。
 これで反省したふりをすれば、もう日高の関心を引くこともなく、日高に近づかなくてすむのだろうか。

 鈴亜はベッドから脚を下ろした。
 気分を入れ替えるように一つ長いため息をつく。すると、話し声に気づいた。耳をすますと、こもった声は二種類聞こえ、それはテレビの音かどうか判断がつかない。
 とりあえず服を着ること。下着はここで脱いだはずだからと、思ったとたん、ふとんの上に置かれたワンピースに気づいた。日高が持ってきたのだろう。
 服を身に着けてから、鈴亜はそっとドアを開けて廊下に出てみた。リビングへと入るドアの向こうから声が漏れてくる。耳を立てると、一つは日高のもので、もう一つはまったく見当がつかない。もっとも、日高の知り合いを鈴亜が知っていることなどあり得ない。
 鈴亜は廊下に突っ立ったままどうするかを迷う。鈴亜のスマホはおそらくリビングにある。それがないと、家にだれかいる保証はないからタクシーでも帰れない。
 起こしてくれればよかったのに。内心で日高をなじった。
 ただ、日高は出てくるなとも隠れていろとも云っていない。もちろん、鈴亜が眠っていたからだろうが、メモなどのそうした伝言もなかった。出てきて悪いのなら、隙を見つけて警告しにくるだろう。

 しばらく息を殺して聞きとっていると、笑い声があがって訪問者が女性だとはっきりする。
 何が話題なのか、楽しみにしてる、とか、弾かないの? とか、断片的に聞こえる会話はごく親しい喋り方だった。
 鈴亜はドアをそっと開けた。

「慧、行くのはいいけど、酒が入る。実習中だってこと忘れるなよ」
 云いながら日高は煙草を咥えかけていたが、いち早く視界に鈴亜を捉え、その手を止めた。顔を向けてくる。
 ソファには、もう一人、こちらに背中を向けた人――女性がいた。
「わかってるよ。もう二十二になるのにいつまでも子供扱いしないでよね」
 女性もなんらかの異変に気づいたようで、日高の視線をたどるように振り向いた。表情には出さずとも鈴亜が驚いたように、女性もまたびっくり眼で見つめ返した。

「こっち来い」
 ふたりの驚きには無頓着で、日高は鈴亜に命令しながら自分は立った。向かい合った二人掛けのソファのどこに座ればいいのかすら迷うほど、鈴亜は戸惑う。
「遠慮しないで」
 慧と呼ばれていた女性は鈴亜よりも立ち直りが早く、手招きしてから向かい側のソファを指差した。
 ためらったのは一瞬で、鈴亜は慧の誘いをほったらかして、キッチンに入った日高に目を向けた。
「先生、あたしのスマホは? 帰るから」
 冷蔵庫を開けていた日高はそのまま振り向いた。眉間にしわを寄せて鈴亜を見つめる。
「あとで送る。身一つで来てどうやって帰るんだ」
「スマホがあれば帰れるから」
「なら返さない。座ってろ」
 鈴亜に隙があるのか、日高の頭がまわりすぎるのか、少しも思うようにいかない。ましてや思いどおりに動かされるなんてまっぴらだ。

 奇妙な沈黙のなか、オレンジジュースを手に持ってキッチンから出てきた日高は、鈴亜のまえで立ち止まる。背中に手を当てて無理やり躰の方向を変え、鈴亜をソファに向かわせた。
 その間、口を挟まず様子を窺っていた慧は、向かい側に座った鈴亜をじっと見つめる。何かを確かめるような眼差しだ。そして確信に至ったらしく、彼女は怪訝そうに日高を見やってから鈴亜に目を戻した。
「一度会ってるけど、憶えてる?」
「はい」
 慧は、一カ月まえ日高とぶつかったときの、そうするに至った張本人だ。鈴亜の返事にうなずいた彼女は日高に目を向けて、困惑したように首をかしげた。

 日高は、カノジョはいないとほのめかした。けれど、女友だちにしては慧のほうがちょっと年下に見える。何か共通点があって知り合ったにせよ、こんなふうに簡単に独りで男性の家を訪ねてくるものだろうか。もう女友だちという距離感さえつかめなくなっている鈴亜にはよくわからない。
 日高が嘘を吐くとは思えないけれど、手放しで信用するつもりもない。帰ろうとした鈴亜を引きとめたことは、もしかしたら慧に対する、疾しさはないという証明のやり方かもしれない。隠すほうがマイナスになることがある。もっとも、昨夜あったことを考えれば潔白ではけっしてない。ほかの女性が日高のベッドにいるだけでもそれは裏切りになるはずだ。

「彼女、さっき『先生』って。まさか、生徒を家に泊めたの?」
 不審だらけの口調に日高は薄く笑って応じた。
「だめか」
「ダメに決まってるでしょ!」
「少なくとも、あの日はまだ生徒じゃなかったけどな」
「屁理屈にしかならないってわかってて言ってるよね?」
 日高は肩をそびやかす。
 睨み合いというには一方的すぎる慧の批判的な眼差しはしばらく続いた。待っても返事がないとあきらめたのだろう、彼女は大げさなほどのため息をこぼした。
「呆れちゃう。良哉兄ちゃん、十四日は憶えてなさいよ、みんなにバラしちゃうから」

 良哉兄ちゃん?
 その言葉が引っかかった。鈴亜の脳裡に何かをぼんやりと浮かびあがらせる。けれど、手繰(たぐ)り寄せられず捕まえるまえに消えてしまう。

「あ、兄妹じゃないよ」
 鈴亜の疑問は内心にとどまらず口に出していたのか、慧は疑問をストレートに捉えて答え、そして続けた。
「わたしと良哉兄ちゃんは、わたしの友だちのお兄ちゃんの友だちっていう、複雑な関係」
「べつに複雑じゃない」
「そこを意味深に取る子じゃなさそうだけど……」
 と鈴亜に目を向けて、「あ、自己紹介まだだよね」と慧は自分から名乗り始めた。

「わたしは時乃慧。青南大の四回生で、今度、青学東に実習に行くんだけど……青学東にいるんだよね?」
「はい。三年生です」
「なあんだ。受け持ちは二年生なの。一人でも知ってる子がいたら気が強かったのに」
「独りでがんばれ」
 日高が呆れたように口を挟んだ。
「良哉兄ちゃんがいるからプレッシャーけっこうあるんだよ。顔潰しちゃいけないし」
「実習生で、しかも実習中じゃないのに東高の花見に強引に参加してきた奴はだれだ。ずうずうしいくせによく云う」
「先生たちと顔見知りになっておきたかったの。飲み会がいちばんだし、そしたらいざ実習ってときに現場を学ぶことだけに集中できるでしょ」

 臆病とは無縁の――いや、臆病でいるまえに何か手を打つ方法を探しているのだろうが、そんな慧は鈴亜とは正反対で、香奈に似ていると思った。
 どうして自分はこんなふうになれなかったのだろう。
 香奈がいて、高校三年生という環境の切り替え地点にいて、追いつめられている感覚はいつもある。
 例えば、昨夜、日高が連れていった港なら。すぐそこは深い海という縁(ふち)に立って、すぐ背後には壁があり一歩も後戻りはできない。それなのに、どこかに旅立つための船は一艘(そう)も止まっていない。そんなふうに自分のまえには何もない。ちょっとでも背後の壁から押しだされたら溺れるしかないのだ。

「担当教科は国語なの。学校で会ったらよろしくね。あなたの名前、教えてくれる……?」
 慧は語尾を濁し、その視線は宙に浮いた。そして、思いついたようにハッとしたあと、屈託のない笑顔が向けられた。
「わたし、あのとき聞いてたんだよね。確か、柏木鈴亜さん。合ってる?」
「はい」
「よかった。良哉兄ちゃんと一緒で、名前と顔を憶えるのは得意なの。良哉兄ちゃんが担任?」
 最初に慧の親切を鈴亜が無視してしまったことは水に流しているらしく、もしくはまったく気にしていないのか、慧は好奇心たっぷりの目を向ける。
「はい」
「なるほどー。良哉兄ちゃん、あのとき名前を聞いて今度のクラスにいるってわかったんだ。でも、手を出すの、早くない? 卒業まで待つべきでしょ」
 いまの発言で、慧が良哉のカノジョでないことは明確になった。伴って、慧は鈴亜が日高のカノジョだと思いこんでいる。世間の常識に照らし合わせれば慧の思い込みは倫理に反したことなのに、咎めてはいても反対している雰囲気はない。
「慧、黙ってるか、通報するか。どっちかにしてくれ」
 日高は鈴亜との関係を否定もせず、うんざりした様子で云い放つ。慧はどこ吹く風と首をすくめた。
「どっちも無理。みんなの反応が見たいから。昂月はほっとすると思うよ」

 あづき?
 すっと鼓動が止まってしまうような感覚がした。今度ははっきりと鈴亜の記憶にある名前に触れる。
 良哉兄ちゃん……良哉……。
 日高の名前は、響き自体は特別じゃない名前だ。だから、鈴亜は見逃していた。
 良哉、その響きは祐真の口から確かに聞いたことがあった。

 驚き、そんな言葉だけでは足りない。怖れと切迫したような気持ちと、ほかになんだろう。苦い物ばかりを集めてシェイクしたすえ、さらにまずくなったような焦りみたいなものを感じた。

「昂月含めてみんなに心配かけてることはわかってる。けど、早とちりはナシだ。彼女が怒る」
 云い終わりに、日高は鈴亜へと顔を向けた。からかうように首をかしげた日高から、昨夜の非情さは窺えない。
 そして、何気なかった日高の眼差しは興味をそそられ見据えた眼差しに変化した。わずかにその目は狭まり、まるで、鈴亜の動揺を気取っているかのようなしぐさだ。

「早とちり? 怒る?」
 慧は不思議そうに日高の言葉を繰り返す。
「ああ。こいつはプチ家出の癖(へき)がある。このまえみたいに公園をうろうろさせてるよりはうちに連れてきたほうがマシだろ」
 日高の発言はそれぞれに意味の違う沈黙を招いた。
 鈴亜は、何かもう一つ要因が加われば、というまさに一触即発の気配だ。慧は呆気にとられ、鈴亜が目のまえにいる以上、返す言葉にも気をつけなければならず、とりあえず無神経な日高の発言に小言を発しそうな気配だ。
 当の日高はすまして煙草を吸いだして、鈴亜は煙草をひっくり返して口に入れてやりたいという、子供じみた衝動に駆られた。
 非情さは見えないと、ほんのいま判断したのに二分もたたずに覆された。

「わたしの早とちりより良哉兄ちゃんのほうがよっぽど怒り買うと思うけど。それに、素直に受けとると思ったら間違い。鈴亜さん、いまなら引き返せるだろうからってことで云っとくけど」
 慧は鈴亜にそう云ってから、また日高へと思わせぶりに視線を戻した。
「なんだ」
「良哉兄ちゃん、女の人をよく連れこんでたよね」
 日高はばからしいといったふうに失笑する。
「向こうが押しかけてくるってだけだろ。おれは連れこんだ憶えない」
「そう? 昂月が良哉兄ちゃんちには行くたびに何か女物があるって云ってたよ」
「やってきたら、ちょっとだけは入れてやる。そのとき勝手に置いていくんだ」
「また会うための口実だよね」
「だろうな」
「今日、来たら玄関にサンダルあったから、今度はシンデレラみたいに靴を忘れていったのかと思ってたけど」
 慧はなぜか満足そうな様子でにっこりする。日高は呆れたように笑った。

「何が云いたいんだ。おまえが告げ口するまでもなく、柏木はおれを遊び人だと思ってる」
「へぇ。でもねぇ」
 慧は意味深げに中途半端に打ちきって、日高と鈴亜をかわるがわる眺める。それから鈴亜に目を留めた。
「良哉兄ちゃんて変わってるんだよ。女の人だったら勘違いするくらい、どうでもいい人にはお行儀がいいの。面倒くさがりだから波風立てないっていうタイプ。でも、勘違いさせて好きでもない女に纏いつかれるって、そういうとこが抜けてる。あ、女遊びにタダで乗っかってちょうどいいって感じ?」
 慧はずけずけと云い、日高は紫煙を燻(くゆ)らせて気に喰わなそうに首を振った。慧は日高の無言の反発を歯牙にもかけずに続ける。
「でも、鈴亜さんには、友だちとかわたしと同じでそうじゃないっぽい。まあ、根本はやさしいんだけどね。実習で口をきいてくれたり、こうやって相談に乗ってくれたりするし。いざとなったらとことん寄り添う強い御方(みかた)って感じ」
 慧は、貶(けな)したかと思うと今度は褒めたたえた。
 日高は首をひねり、鼻先で笑った。

「それで、結論は?」
「それはわたしが出すことじゃなくて鈴亜さんが出すこと。引き返せなくなるまえに、良哉兄ちゃんの良いところと悪いところを教えてあげたの」
「柏木、だそうだ」
 日高は他人事のように鈴亜に振った。流し目で鈴亜を見下ろす日高は余裕たっぷりに見えた。
「やさしいとお節介は違うと思います」
 鈴亜が異を唱えると、慧は吹きだした。日高がにやりとしているのを見ると、鈴亜はまた乗せられたのだと悟った。
「鈴亜さんなら良哉兄ちゃんを振り回せそう。楽しみ」
 ペースを握っているのは日高のほうなのに、慧は鈴亜が感じていることとまるで反対のことを云った。

「勝手にそうしてろ。ただし、実習のときは気をつけてくれ。潔白な理由があろうと受け入れてはもらえない」
「それくらいわかってる。ね、思いついたんだけど」
「なんだ」
 問いかけたのは日高なのに、慧は鈴亜のほうを向いた。
「鈴亜さん、十四日のパーティに来ない? FATEって知ってるよね? いま休業中だけど、デビュー四周年の日なの。全然気取ってない内輪のパーティだから」
「招待される側のおまえが云うことか?」
「わたしじゃなくて良哉兄ちゃんが招待するんだよ。さっき、鈴亜さんを怒らせたおわびに連れてくるべき」
「それ以上はいい。こっちで考えとく」
 鈴亜が喋る気がないせいでもあるが、鈴亜のことなのに日高と慧の間で話は進んで締めくくられた。

 それから間もなく、明日からよろしくね、と云いながら慧は帰った。
 鈴亜はベランダに出てみた。胸もとくらいまであるフェンスにつかまり、伸びあがる。
「鈴亜」
 それは引き止めるように聞こえて、後ろを振り向くと日高は立ち尽くすようだった。
「なんですか」
 鈴亜はなおざりに応じると、見える範囲でマンションの外壁を確かめた。赤系のグラデーションで煉瓦を重ねたようなマンションは、三年まえも印象的だった。
「あんまり驚かないんだな」
 隣に来た日高は片手を手すりに預けてもたれた。

「驚く?」
「FATEのパーティなんてだれもが行けるってわけじゃない。けど、乗り気でもない」
「はずれ」
「何が?」
「乗り気じゃないってことはないから」
 日高は眉を跳ねあげ、かすかに首を傾けた。
「行きたいなら連れていく」
「先生、RYO、なんだ」
 いきなり話が飛んで核心に触れ、日高は薄く笑った。
「いまはそっちの名は休業中だ」

 RYOはFATEの専属の作曲家だ。祐真が最期、ピアノ伴奏を頼みにここに来たとき、鈴亜も同行していた。鈴亜は、この部屋までは行かなくてエレベーターのまえで待っていたから、日高と直接顔を合わせることはなかった。
 ただ、いま日高本人が云ったように、RYOはFATEよりもずっとまえに活動を休止していた。

「やめてない? 休業?」
「ああ、休業だ。教師業が忙しいからな」
 その嘘に隠れた日高の本心が知りたいと思った。いや、知るべきだと鈴亜は感じた。
「先生」
「なんだ」
「偶然て、いくつ重なっても偶然?」
「そうだな……偶然か必然か、それはあとに記憶に残るか残らないかの違いだろ。残ったものだけが必然になっていく。それでどうだ?」
「先生、十四日は連れてって」

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