月の裏側〜幸せの続き〜
第3章 Blue Moon -オラクル-
2.抱きしめられるのは嫌い
違う。
横向きに抱かれて本能的に躰を安定させようと、日高の首に腕をまわしたとたん、鈴亜はつぶやいた。日高の耳もとでそうしたにもかかわらず、日高は何も云わないから、くちびるだけがそう動いたのかもしれない。
日高は廊下を横切って、リビングの向かいにある部屋に入った。
鈴亜はベッドに下ろされ、躰の下から掛けぶとんが引き抜かれているうちに部屋を見回した。クローゼットは収納型、窓際のほうに据えられたベッドと、あとはロータイプの書棚が並べられているだけだ。
この部屋でも煙草は吸うらしく、ベッドサイドの書棚続きで置かれたチェストには、本と一緒に煙草と灰皿があった。
何を読んでいるのだろう。単純な好奇心のもと、鈴亜はうつぶせになりながら本を取ってみる。ぱらぱらとめくってみたら、まったく面白味に欠けた日本の歴史本だった。
本を閉じて戻しているさなかベッドが揺れた。躰を反転させているうちに背中に指が触れたと思うと、一瞬、時間がストップしたような気配のあと、ブラジャーのホックが外される。姿を確認しきれないうちに仰向けになったとたん、脚が広げられて日高はそこにおさまった。
「歴史、好きなの?」
鈴亜の口から飛びだした質問は自分にとっても出し抜けであり、セックスにはまったく関係のないことだ。
違う、とさっきつぶやいたけれど、脚の間で何も身に纏っていない日高を見上げると違うことばかりだとあらためて見せつけられた。
「好きというよりも興味がある。友人に変わった奴がいて――変人という意味じゃない。家柄が特殊な奴で、そいつが史上の一般的認識をことごとく覆すから確かめてる」
「どんなこと?」
「例えば、聖徳太子は実在しない人物とか。そいつによれば、例えば十人の発言を同時に聞いたんじゃなく、十人でひと役をしていたとか」
「ホント?」
「さあな。聖徳太子というのは没後につけられた名だというし、そいつの持論を完全否定するには惜しい気がする」
「惜しい?」
「おもしろいだろ」
鈴亜はうなずくこともなく同意しかねていると、日高は口を歪めた。
「そういう話をするには場所も状況も違うな」
云いながら、日高は鈴亜の胸からブラジャーを取り去った。
鈴亜が何かをはぐらかそうとして本の話題を持ちだしたことは筒抜けなのかもしれない。何か、というのは“違う”ことだけがわかっていて自分でもはっきり特定はできない。
「背中の傷はどうした」
日高は遠慮することなく訊ねてきた。さっき背中で指が止まったのも傷のせいだろう。
「わたしは見えないからわかんないけど、まだひどい?」
「いや。火傷の痕みたいになってるけど、ブラを外そうとしたからわかった程度だ」
「それくらい大したことないっていうことがあっただけ」
答えると、日高は何を結論づけたのか、しばらく考えこむようにしたあと、首をひねった。
「どうする?」
日高は躰の両脇に手をついて、鈴亜の真上にのしかかってくるとそんな質問を投げかけた。
「どうするって?」
「してほしいこと、もしくはしちゃいけないことがあるかってことだ」
「避妊してほしいだけ。あとは好きにしてかまわない」
日高は陸上部の顧問だからか、躰は鍛えているようで、服を着ているときよりも大きく見えた。少し威圧的に感じていると、鈴亜の答えに不満を抱いたように日高は顔をしかめ、その雰囲気のせいでよけいに息苦しくなった。
「いままでずっとそうやってきたのか? あれは嘘なのか? 了解したことにとどまらない、ひどい奴がいるってことをわかってないのか?」
日高は質問を重ねた。どこか日高自身を質問攻めしているようにも聞こえる。
「知ってる。それがきっかけだって云ったら? だとしたら、何かあっても自業自得ってあたしならわかってる」
鈴亜は自分のことながら、他人事のように曖昧な答えを返す。
日高はしかめる以上に、睨みつけるようにして目を細めた。
「どういうことだ」
「例えばっていう話じゃない?」
「鈴亜」
意味もなく日高が呼ぶ。
意味もなく、と思ったのは、何かを訴えようともせず日高がただ鈴亜を見下ろしているだけだったからだ。もしくはなんらかの感情を整理しているのか。
日高が身動きするまで時間が止まったように鈴亜もまた微動だにしなかった。
ようやく空気が動いたかと思うと、日高はすっと顔を下ろしてきた。
ふたりのくちびるが触れ合い、直後、日高はわずかに顔を浮かせた。目を伏せると日高の舌が覗いて、鈴亜のくちびるを舐める。そうして上下を割った。
くちびるを合わせることなく、上下のくちびるの間を何度も舌が往復する。くすぐったいようないまの刺激はこれまでに経験したことがない。
自分が無意識に口を開いたと気づかされたのは、日高がくちびるを押しつけてきたときだった。無理やりではなく、ごく自然に日高の舌は鈴亜の口のなかに紛れこむ。右頬の裏側から始まって、余すところなく舌が滑っていった。
口内に溜まる粘液はシロップのようで、そして煙草の薫りのエッセンスが濃厚にしていた。
舌を使っているのは日高だけで一方通行のキスだ。これまでもそうしてきた。それなのに全然感覚が違う 。
のぼせたようなつらさを覚え、鈴亜は呻いた。キスを避けるように顔を背けると、日高の舌は鈴亜の頬を滑り、そのまま顎を伝いおりた。
舌が鎖骨に沿って、そして胸もとに移動する。高く盛りあがった鈴亜の胸は、それでも日高の手のひらのなかでは少し小さいかもしれなかった。けれど、日高はまだ手で鈴亜に触れることはなく、それを確かめるには至っていない。
日高の舌は胸の麓まで這ってくると引っこんで、くちびるにバトンタッチした。吸着しながらそこに余韻を残し、ぐるっと周りを這って頂上を目指してくる。
違う!
鈴亜は内心で叫んだ。逃れるため、日高を押し返すのに伸ばした手がその肩に届く寸前、頂上の粒が熱い口のなかに含まれた。
あっ。
甲高い悲鳴は聞き慣れず、それが自分の声だとは信じられなかった。
痛みのせいじゃなく、躰中がわななく。そんな刺激は要らなかった。けれど、日高に鈴亜の感覚などわかるはずがなく、もしくは意思を持って快楽を与えようとしているのかもしれない。舌が粒に絡み、そして吸いつかれる。
「んっ、ぃやっ」
鈴亜は躰をよじって日高の口から逃れた。そのまま這いあがろうとしたが、日高が両手で鈴亜の腰をつかんで、逃れることはかなわなかった。
日高はそれまでよりも近く、鈴亜の腰を引き寄せた。そうして膝の下に腕をくぐらせた日高は脚を持ちあげながら前かがみになって、抵抗しかけた鈴亜の手首を捕まえる。そのまま手はベッドに押しつけられて躰が固定された。
真上にある日高の目はいままで見てきたそれと違っている。逃げられるのなら逃げてみろ――そんな脅迫に似た挑戦が見えて、同時にそれは蔑むような眼差しにも見えた。
「自業自得だってわかってるんだろ? いまになって抵抗するってなんだ? おれから自由になれない。さっき云ったばかりだけどな。わかってないのか?」
小馬鹿にした云い方は、本気か、それとも装っているだけなのか判別がつかない。いや、装っていると思うのは鈴亜の希望なのかもしれない。違う。それをなぜ傷ついたように嫌だと感じるのだろう。
蔑まれても小馬鹿にしたセリフを向けられても、一カ月まえには何も感じなかった。むしろ、それでよかった。
いまもそれでいい。
「……だから、好きにしてかまわないって云ってる」
じっと目を据えて鈴亜を見つめ、日高はやがて薄らと笑った。
「そうさせてもらう」
日高はさっきとは反対側の胸に顔を下ろしていった。無意識に鈴亜の躰がこわばる。思わず引こうとした手は日高の手で制された。
今度は焦らすことなく、日高は色づいた場所を丸ごとくちびるで覆った。
鈴亜の口から、吐息とも呻きともつかない、くぐもった声が漏れる。
日高は、つい今し方の眼差しとも口調とも違って、反対側と少しも変わらない触れ方をする。痛くて甘い。そんな力加減で、日高のくちびるは吸盤みたいに鈴亜の胸先に密着した。日高が顔を上げていけば、逆の引力が働き胸先はくちびるに引っ張られる。それ以上は痛みを伴うという伸びきる寸前で、日高は吸着を緩めた。くちびるが固くなった粒を摩撫しながら離れていき、そのちょっとした摩擦がたまらなかった。
ぅふっ。
鈴亜の口から喘ぐような声がこぼれた。
赤く尖った粒は再び日高の口のなかに消えていく。繰り返されると思った時点で鈴亜は握り拳をつくった。けれど、そこに力を込めても与えられる刺激から逃れることはかなわない。
そして、同じようにしながらも加えて今度は舌先が粒の先端をくすぐる。感覚の度合いも倍に増した。声はなんとか堪えられるのに、すぐさま次が来て、感覚を沈静化するには間に合わない。
三度めは軽く吸いついたままとどまり、日高はクルクルと舌で粒を転がした。くすぐったさとは次元が異なり、いま鈴亜が明らかに感じているのはセックスの快楽だった。
日高が顔を上げていく。
「ぃやっ」
鈴亜は本能的に拒絶の言葉を吐いた。快楽を予感した躰はそれだけで戦慄する。
胸の粒は甘咬みして日高のくちびるに捕らえられ、そして扱(しご)かれながらぷるんとその口のなかから飛びだした。
上体が痺れたようにふるえ、のけ反った反動で無防備に開いた躰の中心が何かに擦られた。
あっ。
そこは胸にも増して繊細な場所だ。不意打ちに防ぎようもなく声が漏れる。
硬いのにしなう。それは日高のモノに違いなく、下半身までもがふるえた。予測外の感覚に伴って腰が跳ねるようにせりあがると、ふたりの躰の中心が接触して刺激が上乗せになる。
小さく悶えた鈴亜を見下ろして、心なしか、日高は何かに耐えているように見えた。錯覚かもしれず、けれど確かめる間もなかった。鈴亜が瞬きをしている間に日高は胸に顔を伏せた。
吸いついてはわずかに口を浮かして粒を弄ぶ。胸がじんじんと痺れて内部から熱を帯びていき、するとそれを感じとっているように日高は反対側に移る。その繰り返しで、日高は鈴亜を逃すことなく胸先を苛(さいな)んだ。
声を出すのはどうにかしのげても、与えられる感覚は逃しようがない。躰の中心で起きる摩擦は痛みもなく、それどころか、お尻が揺れるたびにぬるりと滑って、感じたくない快楽を生みだしている。
そう、自分は感じていて、声を殺そうが、証明するためにはなんにもなっていないのだ。
裏切っている。そう自覚したとたん、拒絶する気持ちが再燃した。
「……ぃや」
抗議は弱々しくて、躰もわずかしか動かせない。
そして、その拒絶に触発されたように、それまで動くことのなかった日高が緩く腰を揺らめかせる。
「んっ、あっ……せんせ……やっ」
胸の粒を含んで摩擦を加えながら解放するのに合わせ、日高が自分のモノを押しつけて揺らした。敏感な突起がそれでつつかれると、おなかの奥がきゅっと疼いて蜜を絞りだす。自分でも濡らしている感覚がはっきりとわかる。
「も、いい! こんなの違うっ」
力なくも叫んで鈴亜はもがいた。
けれど、鈴亜を縛る手は緩まず、のしかかった躰は動じず、日高は抵抗を気にも留めずに続ける。もしかしたら意思を持って鈴亜を追いつめようとしている。
尖った粒が日高の口のなかで小刻みに弾かれた。
「あ、やっ……違うっ」
快楽の悲鳴は叫ぶことで紛らせたけれど、躰が得ている快感は打ち消せない。
どうして?
日高は反対側に移り、同じように攻め立てた。鈴亜の上体はびくびくと跳ねて反応がごまかせない。
「んはっ……放してっ」
できるかぎりで躰をよじると、日高は粒の根っこに歯を立て、軽く咬むようにしながら離れていく。
「何が違う? 痛がることは何もしてないし、おまえの躰がそれを証明してるだろ」
くちびるのほんの傍で日高が云い、“証明”を証明しようと腰をグラインドさせた。
ああっ。
たまらず声が出る。つらそうには聞こえても、肉体を傷つけられた悲鳴には聞こえない。
「最低の扱いをされるよりもイクほうが怖いか。それならイカせてやる」
脅迫めいた声は低く、嫌と鈴亜が叫ぶよりも早く、その開きかけたくちびるをふさいで日高は口内を侵した。
顔を斜めに傾けて、日高は舌を舌に合わせてくる。逃げても追いかけてきて、鈴亜は捕まらないように舌を浮かせた。すると、日高はくちびるを押しつけて、浮いた鈴亜の舌を吸引した。
んんっ。
舌を嬲られ、ぴたりと合わせた躰の中心は絶えず揺れている。
躰をただ好き勝手に犯されることよりも、拒絶したいのに快楽を得ている、そのほうが鈴亜にはよほど苦痛だった。
このまえの田辺のように乱暴に扱う人ばかりではなかった。けれど、こんなふうに感じたことはない。それが鈴亜にはちょうどよかった。それなのに。
日高のくちびるが離れ、喘いだ呼吸は直後、嬌声に変わった。
キスの間ほっとかれていたぶんだけ、再び熱に埋もれた胸先は驚くほど神経が繊細になっていた。くちびるにくるまれて舌先が巻きつく。そうして吸いつかれた。同時に日高のモノが躰の中心に沿って前後すると鈴亜は息を呑んだ。躰が硬直する。それから快楽の果てに届くまで、どこまで昇りつめるのかと気が遠くなるほど長く感じた。
んふっ。
鈴亜は呻き声を発した。久しかったせいか、弾けた快楽は激しかった。飛び跳ねるくらい躰中をふるわせる。鈴亜を追いつめていた日高もあとを追うように呻いた。鈴亜の下腹部から首もとまで、白く濁った粘液が点々と飛び散っていった。
互いの顔に注がれる呼吸。その荒い音はどちらのものか区別がつかない。上体に点々と散らばった熱が冷めていくにつれ、それは鈴亜の皮膚の下に染みこむような気がした。
日高の手が離れていっても鈴亜は動けない。半分はおさまりきらない快楽のせいで、半分はショックのせいだ。
取り返しのきかない裏切り。それしかないというたった一つのことも守り通せない。そんな鈴亜が、約束なんて言葉は嫌い、そんなことを云う資格はない。
ここが月から隠れた場所であることがよけいに後ろめたくさせる。
もう近づかない。だれにも。
そんな決心がはっきりと立たないうちに――
あっ……んはぁっ。
しどけなく躰を投げだし、隙だらけでいた鈴亜を再び快楽が襲った。
鈴亜の脚の間に日高が顔をうずめ、神経の剥きだしになった花片を口に含んでいる。閉じようとした脚はまだ力が入らず、簡単に日高の手にさえぎられた。くちびるで花片を含みながら、舌は左右上下にぐるぐるとまわって、そうして突起へとのぼる。
「いやっ」
舌で撫でられたとたんの漏れだしそうな感覚に鈴亜は悲鳴をあげた。
ぺたりと吸着され、吸いつかれるとお尻がぷるぷるとふるえだす。
「あっ、せんせっ、あっ……もぅ……いいっ」
拒絶すれば応じてくれる人だと思っていたかもしれない。けれど違った。日高は容赦ない。鈴亜はただ快楽を与えられて力が尽きていく。
精が放たれたあとの匂いも無理やりなのも、これまでの男たちと同じなのに、なぜ感じるのだろう。
あっ。
日高の指が体内に潜った。ぐちゅっと粘り気のある音が立つ。鈴亜が生成したものに違いなく、日高はわざとのように音を立てた。奥のほうへと抉るような指の動きはそれでもけっして乱暴ではない。常に鈴亜の快楽を煽っている。
鈴亜にはやはり快楽を止めるすべはなかった。その上、日高の指先が快楽点を捉えた。舌は花片の先端をつつき、鈴亜の躰が痙攣しだした。
「あっ、いやっ。せん、せ……もうやめっ……もういい!」
精いっぱいで訴えたにもかかわらず、逆に日高は追い立てた。突起に吸盤みたいなキスをして、指は体内の弱点をこねる。
「い、やああぁ――……あぁ――っ」
どちらがさきだったのか、もしくは同時だったのに種類の違う快楽が重なり合ったせいなのか、二段階で快楽の果てにのぼった気がした。日高を押しのけるように躰が跳ね、そのたびに鈴亜の口から悲鳴が漏れる。
まもなくそれは嗚咽に変わった。躰を開いたまま、快楽がもたらした痙攣によるのか嗚咽によるものか、胸もとがひどく上下する。
「鈴亜」
日高の手がこめかみに添ったとたん、どこに力が残っていたのか、鈴亜ははね除けた。肌と肌の弾く音が嗚咽に混じって不協和音を呼び起こす。叩(はた)いた残響と嗚咽を排除すれば沈黙しか残らない。そんななかベッドが揺れた。日高が怒って、もしくは呆れて出ていくのか。漠然と思っていると、そうではなく、鈴亜の上体に散った自分の慾の残骸を拭っていく。
「思うとおりになるとはかぎらない。おまえの躰を束縛することも意思を無視することも簡単なんだ。甘く見るな」
そんなことはわかっている。わかっていたのに日高を甘く見ていた。
日高はふとんをふたりの躰にかけながら隣に横たわって鈴亜を抱き寄せる。
嗚咽がおさまっていくにつれ、日高には最初から鈴亜を侵す気などなかったのではないかと思い始めた。例えば、懲らしめるため――小馬鹿にした云い方も脅迫めいた発言もそのためだったのかもしれない。そう勘繰るほど、日高の腕のなかは居心地がよかった。
「先生、離れて。嫌いなの、抱きしめられるの」
違うこと。それは、抱きしめること、触れ合うこと、そしてだれを優先するか、その気持ちだ。
懲らしめるためであろうと、それは日高が鈴亜のためにしたことだ。日高にはなんのメリットもない。むしろ、鈴亜が鈴亜でなかったら、キスシーンを撮った写真のようなリスクを負って面倒を引き受けることになりかねない。
日高の腕が離れていくと、寒い季節でもないのに鈴亜の躰がふるえた。
日高は鈴亜越しに手を伸ばして、煙草と灰皿を取った。灰皿のなかのライターを取って、煙草を咥えると火をともす。
「眠ればいい」
煙草の香りが満ちていくなか鈴亜は目を閉じた。