月の裏側〜幸せの続き〜

第3章 Blue Moon -オラクル-
1.デジャ・ヴ

 鈴亜のそわそわと焦るようだった気分は、一時しのぎだろうが、日高のいたずらで払拭された。
 鈴亜が日高に打ち明けた、この一年間の断片は嘘ではなく、普通なら引いてしまうようなことだ。だから、後ろめたさを感じることなく引くチャンスを与えたのに日高のほうが引き止める。

 日高は鈴亜の告白を信じていないのか、それともそれ以上に鈴亜になんらかのこだわりを抱いているのか、どちらだろう。
 それとも係わった以上、最後まで面倒をみるという日高のプライドのせい?
 けれど、日高が鈴亜に関心を持っているのは、教師という立場から外れている気がする。なぜなら、キスをしても拒まないし、一カ月まえは自分からそうした。仕返しだとしても、教師と生徒という立場なら違う方法を選ぶはずだ。
 教師としてのこだわりでなかったら、鈴亜の何が日高を刺激しているのだろう。

 公園で会ったこと?
 そういえばあのとき、日高は何か驚いていたのではなかったか。そして、鈴亜は知っているかもしれないと思った。
 ……どういうこと?
 鈴亜は埒の明かない疑問ばかりを並べながら、今度は不安ではなく苛立ちに近い焦りを覚えた。こんなふうに疑問を抱くこと自体、日高のペースにいつの間にか嵌められている証拠であり自分に対する警告だ。

「静かだな」
 日高は曲が途切れた合間につぶやいた。
「音がうるさいから。お喋りなんて面倒くさいし」
「うるさい?」
 心外だという声音からすると、日高が好んで聴いているらしいとわかる。
 その間に流れ始めた曲は最初は穏やかで、バラード曲かと思いきや――
「先生がハードロックが好きって意外」
 と鈴亜が云っている間にいきなり曲調が激しく変わった。
「意外?」
 繰り返した言葉は妙に可笑しそうに聞こえた。運転席を見ると、車はちょうど赤信号で止まり、日高は口を歪めた微笑を鈴亜に向けてきた。
「なんとなくロックよりはクラシック派って思ってたから」
 すると日高はにやりとして――
「楽しみにしてるといい」
 と、意味不明なことを口にした。

 そして、鈴亜が流れている曲を知っていると思ったのはそのすぐあとだった。
「先生、これ、FATE(フェイト)ってバンドの曲?」
 曲調はいま流れているほうが断然激しくて、だから知っている曲なのに、あまりの落差に気づくのが遅れた。
 どうかしている。
 鈴亜は意味もなくそんな言葉をつぶやいた。
 見えない力が働いて、いきなりコップの水が沸騰して飛び散ったすえ、せっかく治癒しかけていたのにまた火傷をしてしまったような感覚のなかに置かれた。

「当たりだ。今度、本物を聴きに連れていってやろうか。うるさいだけかどうか、ナマを聴いてみてから結論づけてもいい」
「……そんなに云うくらいファンなんだ」
 呆れたふうに装う一方で、鈴亜は、またふたりで会うような日高の発言に気を取られた。
「ああ。ファン以上かもな。四月から活動休止してるけど」
 日高に云われて鈴亜も思いだした。

 FATEは人気バンドなだけに、半年まえの充電期間というだけの活動休止宣言は注目を浴びた。その報道のなかでメンバーそれぞれの事情が取り沙汰され、鈴亜はその取材から、FATEのボーカリスト、鷹弥(たかや)の近況を知った。
 鷹弥のカノジョは、祐真の従妹、神瀬昂月(あづき)だ。鈴亜が見届けたあとも、変わらずふたりが一緒にいることを知ってうれしかった。もっとも自分の目で確かめたわけではなく、うれしい気持ちには“きっと”という鈴亜の希望が加勢をしている。

 もともとFATEは祐真がきっかけで結成されたという。祐真から直接聞いたわけではなく、記事にそう書いてあった。
 祐真はソングアーティストだった。“ユーマ”としてやっていた音楽活動は、鈴亜が知るかぎり成功していた。テレビに出ることなく、顔を出すのはライヴだけという活動にもかかわらず、若い世代の共感を呼ぶ歌が支持を集めていた。
 祐真との別れの日、ファンたちの行列は悲しくて、鈴亜を痛めつけるようだった。祐真をファンから奪ったのは鈴亜だ。
 鈴亜が罰を受ける理由はいくらだってあった。

「活動休止なら、ナマなんて聴けないと思うけど」
 心底が疼き、それを隠す傍らで、日高の発言は当てにならないと、鈴亜の口調は自分でもなじっているように聞こえた。
「完全休止じゃない。メインを音楽じゃなく違うところに持っていくだけで、ライヴくらいはやる。じっとしてる奴らじゃない」
「……先生、知ってる人みたいに云ってる」

 そのときちょうど信号が青に変わった。日高は答えるかわりに鈴亜に向かって口角をわずかに上げてみせると、まえに向き直った。
 車内はFATEの音だけが満ちた。そのうち、ハードな音も鈴亜の耳になじんできて、それがバラードに変わった頃には眠ってしまっていた。

「……鈴亜」
 遠くから何度か聞こえるようだった呼びかけは、ふいに鮮明になる。ハッとして目を覚ましながら、無自覚に口を飛びだしそうになった名は、視界に日高がいることで抑止された。
「着いた」
 助手席側にまわってきていた日高は鈴亜のシートベルトを外し、背を起こすとドアを支えて鈴亜が出てくるのを待った。
 車を降りて見回すと、着いたという場所はコンクリートに囲まれた閉鎖的な駐車場だった。
「どこ?」
「マンションだ。ここの七階に住んでる」
 日高に連れられて七階に行くと、エレベーターのなかもそうだったが、鈴亜はどこか見覚えがある気がした。

「鈴亜」
 フロアに降り立ったまま辺りを見回していると、さきに部屋のほうへと向かっていた日高が振り向いた。
 鈴亜は悪戯(いたずら)をしているところを見つかった子供みたいにびくっとして、日高に目を向ける。
「どうした?」
「なんでもない」
 エレベーターホールは部屋が並ぶ側とは反対側にあって、そのスペースだけが出っ張っている。夜だからはっきりはわからないが、フロアはオレンジ寄りのベージュ色が基調のようだ。
 鈴亜はこれまで数多く引っ越してきた。だから、見覚えがあるというのも、そのうちの一つに似ているからかもしれない。
 そう考えるとすっきりして、鈴亜はゆっくり歩きながら日高に近づいた。
 日高はその間、三日まえとさして変わらない鈴亜の恰好を眺めていた。

 目のまえで立ち止まると、日高は躰の向きを変えて、すぐ傍にあったドアにキーを差しこんだ。日高が振り向いたのは、鈴亜が追いつくのを待つためではなく、部屋がエレベーターのすぐ近くということにすぎなかったようだ。
 ドアが開けられるまで、鈴亜は両端の廊下から見える夜景を眺めた。居住区なのか、マンションがいくつか見えて、街の灯りもほどほどにぎやかだ。
「入って」
 日高が声をかけ、鈴亜はなかに入った。

 フロアの仕様もお洒落な印象は受けていたが、なかも予想外にスタイリッシュだ。玄関口にはシューズの収納とは別に荷物を置くためだろう、斜めに色の境目をつくったバイカラーの収納棚が据えられている。そんなふうにシンプルでありつつも、けっして殺風景ではない。
 靴を脱いでついていくと、日高は廊下に上がってすぐ左の部屋に入った。縦長のLDKで、奥にカーテンがあるということは窓があるということだろうし、マンションの奥行きそのままを占めた部屋なのだろう。
 鈴亜が住むマンションのLDKよりも、そして独りで住むにも広いと思ったが、驚いたのは、リビングの壁際にピアノとエレクトーンが並んであることだった。
 鈴亜はピアノに近づくと、断りなくカバーをめくって鍵盤のふたを開いた。一つ端っこのキーを押してみれば、ポンと甲高い音が立つ。

「昔、プロを目指してたことがある」
 背後にきた日高を見上げると、つかの間、鈴亜に目を留めて、そして隣のエレクトーンカバーを外した。
「ピアニスト? クラシック?」
「ああ」
 車のなかで意味ありげな笑みの理由はこのことだったらしい。
 日高は、電源を入れてたくさん並んだスイッチを複雑に動かすと、立ったまま弾き始めた。
 パイプオルガンのような音で、ごちゃごちゃと音符の並んだものではなく、澄んだイメージのする曲だ。弾き終わるまでそう時間はかからなかった。

「なんて曲?」
「Jesu, Joy of Man's Desirin、バッハの“主よ人の望みの喜びよ”。教会の礼拝に使われる曲だ」
 鈴亜がぴんと来ていないと見たのか、日高は可笑しそうに鈴亜を見下ろしたあと、またスイッチを弄り、ウィルヘルミが編曲した“G線上のアリア”、そして“小フーガト短調”と曲名を教えながら触りを弾いた。
「知ってる」
「バッハの曲はおれの基本だ」
「どうしてピアニストにならなかったの?」
「どうしてだろうな……それがすべてだっていうふうに、あまり一つにこだわりたくなかったからかもしれない。音を出すことにがむしゃらになるのは違うと思うようになった。音はたぶん溢れてくるものだ。まあ……逃げたと云われればそれまでだ」
 日高は肩をそびやかすと、エレクトーンのスイッチを切った。
「でも好きなんだよね。ピアノもエレクトーンもあるって普通ないと思う」
「……なるほど、そうなんだろうな」
 わずかに表情を留めた日高だったが、最後はおもしろがった笑みを浮かべた。

 適当にやってろ、とソファのほうを指差して云いながら日高はキッチンのほうに向かう。
「何を飲む?」
「なんでもいい」

 日高はどういうつもりで鈴亜を自分の家に招いたのだろう。家に帰すことはしないで、新月を持ちだして訳のわからないことを云いっぱなしにしたまま、何もはっきりすることがなく連れてきた。
 日高が云った、ここよりマシという基準もわからない。冷蔵庫を覗く日高の背中はのんびりとして見えて、反抗的な気持ちが湧く。自分のペースでできないことは、心的に応えることのないセックスだけで充分だ。鈴亜は内心で吐いた。
 鈴亜はオールインワンワンピースのブラウスのボタンを外した。肩から服をずらして足もとに落とす。
 グラスを手にした日高が振り向いたのは、キャミソールを脱ぎ捨てたときだった。

「お風呂入ってるけど、シャワー浴びてきたほうがいい?」
 日高はただ突っ立って、反応するまでに時間を要した。迷いなのか、戸惑いなのか、それともほかの何かか。腹を立てているようではない。
「そんなことはどうでもいい。覚悟はあるのか?」
「覚悟するのは先生のほうじゃないの? 生徒とセックスなんて禁止でしょ。あたし、まだ十七歳だし、法律的にもだめみたいだし」
 鈴亜は日高がユキを脅したことを持ちだした。

「おれのことを心配する必要はない。条件がある」
 鈴亜は促すように首をかしげた。
 日高は、キッチンとダイニングを仕切る収納棚の上にグラスを置くと、キッチンから出てきた。
「セックスしたからって、おれから自由になると思ったら間違いだ。一回きりじゃない」
「条件てなんだかおかしくない? 先生は気持ちよくなれるんだから」
「おれに付き合うって云いだしたのはおまえだ。なら、最後まで付き合えという話だ」

 日高は何かにつけ、鈴亜の軽はずみな口約束を持ちだすつもりのようだ。
 けれど、これまでの男はほとんどが鈴亜とのセックスを詰まらないと吐き捨てて去っていく。それに、日高に抱かれてみたい、と思う気持ちもある。日高もほかの男と同じだ、ということを自分に証明できたらそれでいい。

「いいよ。ここで? それとも――」
「ベッドだ」
 日高は鈴亜をさえぎり、正面に立ち、細くてもけっして子供じゃない躰を上から下までゆっくりたどった。そして、身をかがめたかと思うと、軽々と鈴亜を抱きあげた。

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