月の裏側〜幸せの続き〜
第2章 NewMoon
3.今日は月が見えない
「こんな時間にどこに行くの?」
夜の十時すぎ、佳乃は三日まえとほぼ同じセリフで呼びとめた。
二日、いつもと違って早く帰ってきた鈴亜を見て、佳乃は驚くよりもほっとしていた。それですむと思っていたのだろう。いまのほうが驚いて見えた。
「このまえと同じ」
「……ちづるさんと?」
「いってきます」
鈴亜はそれだけ云って外に出た。
すると、マンションの敷地内に止まっている車に気づいた。狭い敷地に無理やりつくった芝生の庭のなか、鈴亜は石畳の歩道に沿って向かった。
車のドアが開いたのだろう、こもった音がして、それから長身の姿が車の向こうに現れた。
日高が車をまわってくるのと、鈴亜がたどり着いたのは同時だった。
「車、先生の?」
立ち止まって首をかしげると、そうした鈴亜を見て日高は口を歪めた笑い方をする。皮肉ではなくておもしろがった雰囲気だ。
「ああ」
「車が好きそうっていう車っぽい」
「そうか?」
「高そうだから」
「はっ、価値がわかるのか」
「ハンドル、反対についてるから」
「いい着眼点だ」
日高は助手席のドアを開けた。
「どこに行く――?」
「お姉ちゃん!」
日高の質問は香奈の声にさえぎられた。振り向くと、香奈はベランダではなくエントランスに出ていた。
家を出てくるとき香奈はリビングに見当たらず、おそらく部屋にいた。鈴亜と佳乃の会話が耳についたのかもしれず、だから追いかけてきたのだろうか。
香奈は気が利く。三日まえのことも今日のことも普通じゃないと思っているのだろう。
「妹?」
「そう」
日高を見上げると、その目は香奈に向かっていて、わずかにうなずくような素振りを見せる。
なぜこんなにも同じことが重なるのだろう。
その疑問は香奈にもあるのか――
「お姉ちゃん、帰ってくるよね!?」
あたりまえのことを訊いてきた。それを無視して、鈴亜は日高に向かう。
「乗っていい?」
「挨拶して――」
「そういう面倒くさいことするんだったらもう先生は帰って。わからないの? ひと晩かぎりだったら、お母さんに訊かれても、さあって答えればすむからラクなの」
日高は眉間にしわを寄せた。何か云うかと思ったが、まもなく「乗って」と云うだけで、日高は追及しなかった。
鈴亜を乗せて、自分も運転席におさまると、日高は車を出した。
「行きたいところは?」
「どこでもいい。今日はどこに行ってもどの時間でも月は見えないから」
ちらりと日高の視線が鈴亜に向く。
「どこに行っても?」
「……本物は、ってこと。ニセモノなんてどうだっていい」
「月にこだわってるな」
「そう?」
「さっきのはどういう意味だ?」
「さっきって?」
「妹さんの、帰ってくるよね、という云い方だ。帰ってこないというのが前提に聞こえた」
車はどこに向かっているのか、鈴亜が答えなかったことでしばらく車内は沈黙した。かわりになんらかの刺激を求めて嗅覚が働く。沈黙と一緒に漂う煙草の匂いに気づいた。
「先生、部活の新入生歓迎会あったでしょ。行ったの?」
車内の薫りを振り払うように鈴亜は話題を変えた。
「行ったから来るのが遅くなった」
なぜ五日の夜なのか。それは疑問にするまでもなく理由は単純なことで、昨日と一昨日は部活が翌日にあったからだ。
「先生って真面目?」
「仕事を不真面目にやってどうする」
「じゃあ、仕事中に生徒を襲うことも真面目なことのうち?」
「襲われたのはおれだ」
「一回めはね。でも、あの写真見てもだれもそう思わないと思うけど」
「ばらまくときは、自分の顔だけは塗りつぶしておけ」
そう云えばやらないだろうという打算なのか、本気で云っているのか、その判別はつかない。
何を云っても至って冷静にやり込められそうで、それからのドライブ中、鈴亜は口を噤んだ。
日高も、煙草を吸っていいかと鈴亜に許可を求めた以外、口を開くことはない。
途中、東京を出て神奈川に入ったことだけはわかったが、日高が車を止めた場所は海岸沿いということ以外どこなのかさっぱりわからなかった。かといって場所がどこかなどはどうでもいい。
車の前方には、これ以上は侵入するなとばかりに柵がある。港のようで、海のなかには大きな船が何台か見え、陸地には、人が乗っているのかどうか、停車した車の影が数台見える。
日高は車を降りるふうでもなく、煙草を咥えて吹かしながら正面に止まった船を見つめていた。
「先生の好きな場所?」
「好きというよりは懐かしい」
「懐かしい? 先生の実家?」
「いや。実家は福岡だ。ここは地元の港に似てる」
「……実家って福岡なの?」
「ああ。おまえはもともと東京か?」
祐真と同じ、もしくは似ていることばかりで、日高がした簡単な質問に答えることが難しかった。
「……うん。でも動いてばかりだから、先生みたいな懐かしい感覚はわからない。ここにいたなって思うだけ」
「今度の転勤はどれくらいだ?」
「東京は一年いることがあるけど、そのまえにいたときは半年で広島に行ったからわかんない」
「大学に行くなら、もし今年のうちに転勤になってもこっちにいたほうがいいんじゃないのか」
「卒業したらどうするかなんて考えてない」
「考えるべきだ」
「これで二者面談は終わり。“済み”ってつけておいて」
鈴亜が強引に打ちきると、咎めたような気配が漂ってくる。
「先生は大学から東京?」
「ああ」
「どうして?」
「何が」
「懐かしいっていうくらい地元が好きなんでしょ。あたしも福岡にいたことある。福岡だって、その周りにだって大学はあったはずなのに、なんで東京かなって思って。しかも、教師なんてどこででもやれるのに」
「友人がさきにこっちに来たからな。追ってきた」
「そんなに仲良し?」
鈴亜は何気なく問いかけただけだったはずが、思いがけず日高は俄に深刻な面持ちになった。
「先生?」
運転席の背にもたれた日高を覗きこむ。日高は鈴亜を視界に入れると、可笑しくもないのに笑っている、そんな表情になった。そのまま答えないかと思っていると、日高はふっとかすかに吐息を漏らして口を開く。
「仲良しとは違う。ケンカもしてきたし、心配してきたし、心配かけてもきた。あいつがいなきゃ、おれはここにおまえといることもなかった。仲間だ。ずっと変わらない」
一見、鈴亜といるのは運命だと云っているように聞こえるが、たまたま鈴亜がここにいるから日高はそう云ったにすぎない。例えば、あの瞬間こうしていたら、ああしていなかったら、そんな仮定の延長上にあるような根拠のない発言だ。
「先生、ずっとなんて信じてるの?」
鈴亜は笑う。ただからかうのではなく、呆れたような笑い方はばかにしているようにも受けとれる。日高は目を細めて不快さを表した。
「信じちゃ悪いか」
「べつに。何かに永遠を求めるなんてくだらないと思っただけ」
わずかな照明しかない暗がりのなかでもわかるほど、日高の表情はますます険しさが浮き彫りになった。
首をかしげたままじっと見上げていると、不快さが怒りにまで発展することはなかった。どう整理したのか不快感は昇華されたらしく、日高はさっきよりはずいぶんと笑みらしい笑みを浮かべた。
「価値観は確かに人それぞれだ」
優等生の答えだ。云い方によっては無関心を意味する。
「あたし、まえに家出したことがあるの。今日みたいに男の人の車に乗って。妹はだから、同じことしてるって思ったのかもね」
日高はただ鈴亜を見下ろす。探るとか考えこむとか、そういう素振りは見えない。緩く一文字に結んで沈黙していたくちびるは、やがて開いていく。
「ひどい目に遭わされたのか」
「ひどい目、って?」
「本気じゃなかったとか、飽きられたとか、捨てられたとか」
日高は、普通なら気を遣って黙っておくところをずばりと言葉にした。
「本気だった、飽きられてない、捨てられてない!」
気づけば叫んでいた。もしだれかいたら、鈴亜の声は開けた窓から筒抜けで聞こえている。
まるで最大の敵についに相対したかのように、鈴亜は日高を睨めつけた。それを、余裕なのか無干渉なのか、日高はのんびりした様で受けとめている。
「仕返しだ」
ひと言に鈴亜が眉をひそめると、日高は口もとに笑みを形づくった。作り笑いではなく、保護的な静かな微笑だ。
「親友に対するおれの気持ちを虚仮(こけ)にした」
それほど大事な親友ってどんな人だろう。
鈴亜はついそんなことを思い、疑問ばかり抱かせる日高は何者だろう、とまた疑問を抱く。たまたま共通点が重なって、だから気を取られている。
「先生のくせに、傷つけるようなことをわかって云うとかわけわかんない」
「傷ついたのか?」
そう問い返されて、鈴亜はふと考えた。
傷ついたわけではない。叫んでしまったように、真実は違うから。何があってもがんばれそう――最後の日、倒れる寸前、祐真はそう鈴亜に思わせてくれた。自分の気持ちが否定されるのはかまわない。けれど、祐真の気持ちを否定するなんて許せない。
ついさっき叫んだことを、鈴亜の心底はずっと訴えたがっていた。
祐真のところへ行くと云って家出をした鈴亜が独りで戻ってきたとき、母も妹も、そしてどこまで知っているのか、体裁を保つための嘘を聞かされているのか、咎めることもしない父も、責めたり問いただしたりすることもなければ、訊きだそうとすることもなかった。
気を遣っているとしても、そうする理由は、いま日高が云ったことと同じことを思っていたからだ。
けれど、気を遣われるよりも、違う、とそう否定する機会をずっと鈴亜は求めてきたのかもしれない。日高を睨めつけていたときの、憎しみと怒りの境目がわからないような攻撃性はもう立ち消えた。
「傷ついてもなんにもならない」
かわした鈴亜を見て首を横に振ると、日高は顔を背けるように窓の外へと向けた。
実際は、煙草を吸うためにそうしただけだったが、そのしぐさで芽生えた衝動は抑制できなかった。
鈴亜は手を伸ばす。そして、ひと息吸ったあと日高のくちびるから離れていく煙草を奪って、窓の外に放り投げた。
「柏木」
云い聞かせるような声はゆっくりしていて、日高が名を呼んでしまわないうちに鈴亜は日高の腿を跨がって座った。
正面にある顔は、やはり戸惑いも驚きもない。ただ、間近で見る瞳は鈴亜を捕らえて放さない。もしくは、鈴亜のほうが捕らわれそうなのか。そんな疑問が湧くことにさえ、鈴亜自身が勝手にそうしていることなのに逆らいたくなる。
鈴亜はわずかに頭を傾けると、真正面からわずかにずれて、日高の口角に口づけた。
とたんに煙草の薫りが鈴亜の鼻腔を刺激する。日高は煙草を吸ったばかりで、学校でのキスとはその濃厚さが違った。
日高は拒まないかわりに反応もしない。鈴亜は目をさらに伏せ、口角から舌先で日高のくちびるを割いた。歯と歯の間にわずかにすき間がある。咬み切られるかもしれない確率を無視すると、舌を差し入れて日高の口内を探った。
一カ月まえの日高からのキスとはかけ離れて少しも積極的ではない。そのくせ、拒絶という意思表示もしない。日高の舌をつついても目立った反応はなく、絡み合わせることもできない。
鈴亜はくちびるを離した。
「セックスするんじゃないの?」
ふたりはくちびるを浮かせた程度しか離れていない。けれど、せっかくの港からの灯りも鈴亜自身が邪魔をしてしまっている。日高の瞳に何が映っているのか確かめられず、どんな表情なのかも覗けない。
「セックスする場所じゃないだろ」
「場所なんて関係ないと思うけど。車のなかなんていままでよりはずっとマシ。まえはね、堤防の影、土手の下とか、あと車のそことか……」
と、鈴亜は背後を振り向いて車のボンネットを指差す。再び日高に向き直ると、今度は影になっていてもくっきりとわかる苛立ちを纏っていた。
鈴亜はかまわず続ける。
「このまえはあの公園で遊歩道からちょっと入ったところだったし――」
「このまえって、一カ月まえ会った日のことか?」
「そう。あのあとすぐ」
すっと短く、そして鋭く息を吸いこむ音が静かな車内に目立った。
「何やってるんだ」
吐き捨てられた疑問は、答えを必要とはしていない云い方だ。
「先生、奥さんはいないって聞いたけどカノジョは?」
「そういう存在がありながら、おまえに黙ってキスさせるってどうなんだ」
それなら“彼女”はカノジョではないのか。
鈴亜は吹くように笑った。
「じゃあ、いままで付き合ったカノジョは何人?」
「おまえが云う“カノジョ”の定義がわからないから答えられない」
「それなら、何人の人とセックスした?」
「数えてない」
「ってことは、憶えてないくらい多いんだ。先生、女の人がほっとかなさそうだもんね」
「それがなんだ」
「本気で女の人を好きになったことある?」
「そうかもしれないと思うことはある」
日高が嘘を云っているとは思わないが――いや、むしろ本当のことしか云わない気がするけれど、いまのやりとりのなかに鈴亜が納得できた答えは一つもない。
「大人の答え方って、いつもはっきりしない。そのくせ、きれい事を子供に押しつけるってずるくない? 好きでもないのにセックスはできる。あたしは先生と同じことしてるだけ。セックスに理由を求める資格ないよ。あたしも先生も。そう思わない?」
鈴亜が首をかしげて同意を求めても、日高から反応は窺えない。沈黙がはびこったなか、ふたりをからかいにきたかのように、波の音が忍びこんでくる。
鈴亜は唐突に日高の上からおりて助手席に戻り、そしてドアを開けた。
「柏木」
呼びとめるような声は無視して鈴亜は外に出た。ドアを閉めるとそのあとを追うようにドアの開く音がした。船の停留地に向かう鈴亜の後ろを日高がついてくる。
鉄柵まで来るとそれを動かそうとしてみたが、重いうえに固定されているのだろう、びくともしない。背後の足音は少し離れたところで止まった。
「先生があたしのなんにこだわってるのか知らないけど、あたしは特別じゃないよ。もとお嬢さま学校だかなんだか知らないけど、そういった子ばかりじゃないことは確か。あたしがそうだし。何もしないんなら帰してくれない? 話してるだけって詰まんないから。家の鍵、持ってきてないし、だれか起きてるうちに帰らないと。家のまえの廊下で野宿ってなりそうだから」
「おれがおまえに付き合ってるわけじゃない。おまえがおれに付き合うんだろ?」
日高は鈴亜に約束を思いださせた。
「そんなこと当てにしてるって思ってなかったけど。そんな約束、憶えてないって云ったら?」
「おれが憶えてる。来い」
日高はすっぱりと鈴亜の云い分を退け、顎をしゃくって車に戻るよう促した。なんらかの迷いか、あるいはためらいか、そんなものが見えていたのに、いま日高の背中からはそれらの曖昧なものが一切なくなっている。
鈴亜がついてきていないことはわかっているようで、さっさと歩きだしていた日高はやがて立ち止まり、振り向く。背中から感じていた印象は、よりくっきりとその眼差しに表れている気がした。
「新月は何かを始めるのにいいらしいな」
「……魔の刻(ボイドタイム)の間は無効だけど」
「いまは有効だ」
「……詳しいの?」
「調べた。おまえが月にこだわってるから」
「それで?」
「鈴亜」
日高は出し抜けに鈴亜を名前で呼んだ。
びくっと過剰反応したのは鼓動だけか。祐真のように歌うようでもなく、通りすぎた人たちのようにおざなりでもない。
「行くぞ」
鈴亜の疑問には答えることなく日高はまた背中を向けた。
空を見上げてみても、月が見えることはない。
怖い。
ずっとまえに心底からそう感じて、そして忘れそうになっていた、そんな気持ちが甦る。
鈴亜には不要なものだ。心底から切り離して置き去りにするかのように、鈴亜は俄に歩き始めた。
車に乗ると、日高はそれを待っていたようにすぐエンジンをかけた。シートベルトを固定して顔を上げると日高と目が合う。
「どこに行くの?」
そう訊ねてしまったのはやはり不安の表れだ。
「ここよりはマシなとこだ」
鈴亜の言葉を借りているのなら、そのさきに待っているものは見当がついた。
日高を遠ざけようとした鈴亜の目論見は思った方向へ向かっていない。
「先生、音を鳴らして。着くまで眠ってるから」
落ち着かないのをごまかすには眠ったふりがいちばんだ。
日高はわずかに肩をすくめ、オーディオを弄った。まもなく音が流れる。
すると、日高が聴くのはクラシックとか落ち着いた曲だとなんとなく鈴亜が想像していたことは、まったく裏切られた。車内どころか、開けた窓から外に漏れだすくらい大きな音は、まるで眠れないハードロックだ。
眠ると云った鈴亜に逆らってわざと選曲したに違いない。運転席を見やり、むっとして睨みつけると、返ってきたのは、いたずらな少年のようにおもしろがっている笑い顔だった。
「そのうちバラードも流れるだろう」
日高はからかった直後、車を出した。