月の裏側〜幸せの続き〜
第2章 NewMoon
2.月の見える場所で
部屋のカーテンレールに吊るしたハンガーには、グラスグリーンのジャケットがかかっている。鈴亜はそこに近寄ると、ジャケットの袖をつかみ、窓越しに暗い空を見上げた。
手を繋ぎたくてもジャケットの持ち主は消えた。雨に濡れて透けた躰を隠すのに、やるよ、と云って着せてくれたジャケットはもう返すにも返せない。
あまつさえ、ジャケットに染みついていた煙草の香りまでもが空中に融けた。鈴亜をくるんでも、なんのためにそうしているのか、ジャケット自身が主を忘れかけている。この頃はそんな気がしている。
鈴亜はジャケットの袖に口づけると、椅子にかけていたカーディガンとスマホだけを持って部屋を出た。
会社が用意してくれた住み処はコンパクトな作りで、家を出るにはリビングを通らなければならない。
「こんな時間からどこに行くの?」
案の定、咎めるような声で引きとめられた。
メイクをした顔、淡いピンクベージュ色をした腰までの短いチュニック、膝上十センチの白いチュチュスカート、そして素足と鈴亜を眺めた母、佳乃はわずかに眉をひそめた。佳乃の斜め向かいにある一人掛けのソファに座った香奈は、頭をもたげて鈴亜のほうを向いた。
「スマホは持っていくから」
答えになっていない返事をすると。
「ちづるさんと?」
佳乃は問いかけるようでいて、その実、ちづるさんも一緒よね、という期待をこめている。
ちづるからはたまに電話がかかってくる。お弁当が作れないから食堂で食べないか、という誘いなど詰まらないことだ。いつから一緒に食べることが決まったことになっているのだろう。そう思いながら付き合っている。そして、そんな電話が来れば、佳乃にお弁当が必要ないと云わなければならず、延いては理由も聞きだされた。
最初にそれを伝えたときは、友だちできたの? と、鈴亜が笑いそうになるくらい佳乃は驚いていた。半信半疑のままでも、佳乃はうれしそうというのを通り越して安堵していた。
けれど、まだちづるとは遊びに出かけたことがない。佳乃は、ちづると一緒じゃないことをわかっていながら、それが嘘でも鈴亜が肯定するのを待っているのだ。
「そう、ちづると一緒」
佳乃はそれで気がすんだのだろうか。鈴亜はそれを確認することなく玄関に向かった。
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
そんな香奈の怪訝そうな声が、背中のほうから鈴亜の耳に届く。
「お友だちと会うって、お姉ちゃんが云ったでしょ」
「そうだけど……」
香奈は不満そうにつぶやいている。
鈴亜はそんな会話を聞きながら、サンドベージュのウェッジヒールサンダルを履いて、イタリアンラベンダー色のカーディガンを羽織った。
玄関を出ると、マンションの通路を風が吹き抜ける。五月になったばかりで、昼間は程よく暖かいが夜になるととたんに寒くさえ感じる。
鈴亜は首をすくめて気温の変化をやりすごし、慣れたところでマンションを出た。
佳乃は鈴亜が何をしているか、たぶん知っている。理解してはいないけれど。
夜の十時をすぎた暗闇のなか、独りで出かけることの恐怖は、それが罰で、加えて自分が罰を求めているとわかってから乗り越えた。
恐怖になる以前から――正確に云えば、祐真が月の裏側に行くと云ったときから、月を求めて外に出ることは習慣化した。見られているだけではなくて、あたしもちゃんと見ているから、そんなことを証明したくて。
その時間を穢されたのは一年まえだ。
そのときの恐怖を超えて、そうして見いだしたことを、佳乃は間違っていると云う。
佳乃は祐真との幼い恋が壊れたことは知っていても、それが祐真であることも、壊れたのではなく永遠の別れをしなければならなかったことも知らない。そんな佳乃にはけっしてわからないことだ。きっと、話してもだれにもわからない。
佳乃はいつの間にか夜に出かけても咎めなくなっていた。いまになって再び引き止めにかかるのは、ずっとつくろうとしなかった友だちができたことで鈴亜が変わってくれると期待したせいだろうか。
実際は友だちなんかじゃない。たまたま一緒に係をすることになったクラスメートだ。
ちづると会うというわかりきった嘘を信じたがる佳乃は、娘と同じようにどこかいびつになってしまったのかもしれない。
空を仰いでも今日は月を見ることはできない。新月を間近に控えた暁月(ぎょうげつ)が見られるのは、月が昇ってくる明け方のわずかな時間だ。太陽が邪魔をして、昼間の月も見ることは叶わない。人狼とは真逆に、鈴亜は新月が近づくにつれ落ち着かなくなる。
当てもなくさまよっているつもりが気づくとあの公園に来ていた。
さすがに宴会をしている人はいない。けれど、どこからか騒いでいる声は聞こえる。好んでむちゃをやりたがる少年たちらしき声だ。
周囲を見回しながら鈴亜は公園の奥へ進んだ。外灯で比較的明るく道は照らされている。途中、鈴亜は日高とぶつかった場所に気づいて、そこに立ち止まった。自然とその日のことを反すうした。
すると疑問が出てくる。
あのとき日高を呼びとめた女性はだれ?
明らかに宴会中だった日高とその女性にはなんらかの繋がりがある。高校の話をしていたような気がするけれど、彼女を校内で見た憶えはない。もっとも、無関心でいる鈴亜が見逃しているという可能性は充分にあった。
そして、もう一つの疑問。
この人が溢れる東京で、三年まえに通った中学で担任だった田辺栄大(えいた)がここにいたことだ。
何をしていたのだろう。どこかの宴会に参加していたと考えるのが自然だが、偶然はこうも重なるものなのか。
今日、ちづるの話から知ったことに自ずと考えが向く。偶然は学校内でもあった。
もしも、偶然が重なって必然ということになっても、こだわるものが何もないいまの鈴亜にとっては問題にならない。
再び歩きだした矢先、引き止めるようにスマホの着信音が辺りに響いた。カーディガンのポケットに入れた手をスマホごと取りだす。
画面には『日高良哉』と表示されていた。
電話に出るか出ないか、ためらったのは一瞬、鈴亜は通話モードにして耳に当てた。日高は自分がこうと思ったらひるがえさないタイプに感じて、だとしたら遮断したとしてもまたかけてくる。
それに――
「はい」
また浮かんだ疑問を押しやって電話に出ると、耳に吐息が降りかかる。
『日高だ。どこにいる?』
自分で電話番号を登録したくせに、鈴亜が削除をしているとでも思ったのか、日高はわざわざ名乗った。
「家ですけど」
すぐには返事がなく、やがて――
『家じゃないな。響きが違う』
と、沈黙している間に、電話からかすかに漏れる気配を感じとったらしく、日高は断言した。
「なんの用ですか」
違うと云い張っても聞いてはくれないだろう。鈴亜は返事を飛ばして本題を促した。
『どこだ?』
「わかりません。適当に散歩してるだけなので」
『目印は?』
日高があきらめる様子はない。鈴亜はゆっくりと周囲を見回した。痺れを切らして電話も切ってくれればいいのに、鈴亜が黙っているぶんだけ日高も黙って付き合っている。
「月の見える場所」
『どこでも見えるだろ』
呆れたような言葉が返ってくる。今日、月が見えるか見えないか、そんなことを気に留めている人はきっとごくわずかだ。
「先生、探す気があるなら探してみて。そしたら、先生がしてほしいことに付き合ってあげてもいいよ」
「その言葉、憶えとけ」
日高は、電話で問いただすことはあきらめたようだが、まるで探すぞと云わんばかりのセリフを残して電話を切った。
鈴亜はスマホをポケットにしまうと、公園の向かい側のビルに設置された看板を眺めた。
にっこりと笑う立体的な三日月に“くろわっさん”という、パン屋さんなのか、店の名らしきものがディスプレイされている。童話のワンシーンを切り取ったように、ほのぼのとしてビルを飾っていた。
青学東に通いだして今日まで、はじめてここで会った日のことを日高が口にすることはなかった。
夜だったし、メイクはしていたし、と考えると顔を憶えていないのかとも思ったけれど、名乗ったときに日高は何か気にかかったような素振りを見せていた。きっと、自分が担任をする新しいクラスには転校生がいて、その生徒と同じ名だったからだ。その二日後に会って、まさか同姓同名の別人だと思っているわけはないだろう。
初日に校内を案内するときも、担任室でふたりきりのときも、少しも触れなかったというのは、この場所で会ったことに関心がないからとしか考えられない。
だから探してみてと云ったのだが――木々のすき間からでもくっきり見えるほど大きな月の看板を、日高は知っているだろうか。
「なあ、独り? 一緒に来てみない?」
だんだんと近づく足音を聞きとっていた鈴亜はそう驚くこともなく、声のしたほうに顔を向けた。
「あなたは独り?」
質問には答えず逆に問い返すと、おもしろがりつつ苦笑いという素直な反応が返ってくる。多く見積もっても大学生という彼は必用以上の害はなさそうだ。
「いや、向こうにダチがいる」
彼は親指を立てて、騒いだ声が立つ方向をさした。
「そう」
「何か問題あり? 大勢だと楽しくね? けっこう初対面の奴も集まってるし、女もいる」
「大勢って苦手なの」
「んー……じゃあさ、ちょっとだけ向こう行って、それからふたりでってのはどう?」
「夜明けまえに海に連れてってくれるんなら」
「海? なんで夜明けまえ?」
「月が見たいから。その時間しか見えないの」
「へえ。いいよ、連れてく」
「お金持ってないの。かわりにあたしでいい? 月を見ながら」
鈴亜はポケットから手を出して、スマホのほかに何も持っていないことを教える。
「……おまえ、やばくね?」
大抵は鈴亜の誘いに軽くのってくるけれど、稀(まれ)に目のまえの彼みたいに慎重になる人がいる。それだけ良識があるということだろう。それに、不安がるのは彼が危なくないということの保証にもなる。
「薬とかやってないし、後ろにだれかいるわけでもないよ。退屈だから、たまに弾けたくなるだけ。こういうのダメ?」
まえに疑われた経験からそう云ってみると、彼は納得したようでうなずいた。
「ダメなわけないさ」
「あ、でも」
「なんだよ」
「避妊具忘れた」
彼は笑いだした。
「おまえ、おもしれぇ」
「鈴亜、だよ」
「へぇ、綺麗な名前だな。おれはユキでいい。避妊具なんてコンビニで調達できるだろ」
じゃ、行こうぜ、とユキに手を引かれて鈴亜はにぎやかな声のする場所に向かった。
今日はまともな人に出会えた。いや、厳密には行きずりでセックスができる人をまともとは云えない。ただ、このまえのように避妊具もつけないで無理やり犯すような田辺に比べれば、ずっとまともだ。
ユキの目的地はすぐにわかった。にぎやかで、何を騒いでいるのかと思えば、周りに囃(はや)し立てられながら一人の彼が女性を必死に口説いていた。鈴亜と同じように連れてこられたのだろう、彼女はちょっと戸惑った言葉遣いで応じている。
鈴亜は紹介されることもなく、それが畏まらなくて気楽に溶けこめた。
彼らの話を聞いていると年齢も様々なようだ。だれがリーダーというのもない。
「おれら、ふけるから」
しばらくしてユキが唐突に云ってもだれも咎めず、じゃあな、とあっさりしたものだ。
「夜明けまでまだ時間あるけど……」
と云いながら鈴亜の背中に手を添え、ふたりの躰の向きを変えていたユキはふと口を噤んだ。
何かと思いつつ目を正面に向けると、そこには日高が立っていた。ただ立っているのではなく、立ちはだかっているという気配を漂わせている。
「だれだ?」
日高はじろりとユキを見た。ただでさえ低い声はさらに低く、そのせいで凄みが増す。
「あー、おれは……」
「云わなくてもいいよ」
鈴亜はユキをさえぎり、日高を見つめて首をかしげた。
「云ったことは忘れてないな?」
日高は返事を待つことなく、つかつかと近づいてくると鈴亜の手を取った。そうしてから日高はユキに向かう。
「おまえ、いくつだ?」
「二十歳です」
日高の様子に気圧されているのか、ユキは丁寧に返す。
「なら、悪いが。この子はまだ十七歳だ。犯罪になることはわかるな?」
息を呑んだユキを置いて、日高は身をひるがえすと鈴亜の手を引いて歩きだした。
半ば無理やり引っ張られているなか、背後がざわついた。穏やかとは云えない場面は、ユキの仲間たちから注目を浴びていたのだろう。
鈴亜は歩きながら後ろを振り向いた。
「怖い人じゃないから! ごめんなさい」
嘘だとは思われたくなかったし、不安でいてほしくもない。自分が云ったことを思いだして、鈴亜が叫ぶように謝った。
表情は見えないものの、都合よく受けとれば、気にするなと云うようにユキは手を上げかけた。ただ、見届けることはかなわなかった。
日高が立ち止まったせいでつまずきそうになり、鈴亜は反射的に進行方向を向く。ぶつかったのか抱きとめられたのかわからないまま、日高が鈴亜を支えた。
すると、シャツから煙草が薫って鈴亜の鼻腔を刺激する。
頬が当たる胸の位置は祐真と同じだ。そう気づいたとたん、鈴亜は急いで離れた。
日高を見上げると目が合ったが、視線は鈴亜の頭上へとずれた。そしてすぐに戻ってくる。
「まさか、知り合いか? このまえここにいたときもあいつらと一緒にいたのか?」
日高はちゃんと同一人物だと認識していたらしい。
「このまえは一人。あの人たちとは今日はじめて知り合ったの」
日高はひどく顔をしかめた。説教でも唱えるのかと思いきや、再び歩きだす。
「先生って怖いもの知らず?」
「なんで?」
「“まさか”ってことはさっきの人たちがあたしの仲間じゃないって思ってたんでしょ。それなのに乗りこんできたから。けっこう人数いたし、危ない人たちだったら先生、めちゃくちゃにやられてそう」
「期待を裏切って悪いが、ケンカのやり方はわかってる。昔、友人に巻きこまれて否応なく憶えさせられたからな」
「先生、走るの速い?」
「そこらへんの高校生には負けないつもりだ」
「じゃあ、逃げ足も速いんだ」
突然の話題転換にもそつなく応じていた日高だったが、聞き捨てならないと云ったふうに鈴亜を振り向いた。一瞥して正面に向き直る。
「置いて逃げたりしない」
それは、そつがないという以上に、鈴亜の急所をつくような言葉だった。
鈴亜は黙りこんだ。もともと喋らないというのはわかっているからだろう、鈴亜の沈黙を気にすることもなく日高はどんどん歩いていく。
公園を出て道沿いの歩道に出たところで、歩調がゆっくりしてきた。
「今日、月は出てない」
いきなり立ち止まり、日高は鈴亜を咎めた。
日高を見上げる途中、目の隅に月の看板を捉えた。道路を挟んで真正面にそれがある。日高へと目を転じると、どうやらその看板を見ているようだった。その実、意識は別のところにあるのかもしれない。そんなふうに、見上げた日高の横顔には表情がなかった。
「でも月は見えるでしょ。月は笑わないけど」
鈴亜の淡々とした云いぶりに引力でもあるかのように、日高の横顔が正面を向いてくる。
「何をやってたんだ?」
「逆ナンパ。先生に邪魔されて楽しみがなくなっちゃったんだけど」
「楽しみなんてほかにもいろいろあるだろ」
「それ」
「なんだ」
「いろいろあるって人それぞれってことでしょ。逆ナンパはあたしの楽しみ方なの。それを潰したかわりに、先生がナンパされてくれる?」
「おまえがおれに付き合うんだろ。おまえはそう云った」
「いいよ、付き合っても。何がしたい? セックス?」
日高は押し黙った。呆れて言葉に詰まったふうでもなく、戸惑っているふうでもなく、怒っているふうでもない。
そうして、日高は笑った。可笑しそうでもなく、ばかにするふうでもなく、嘲笑うようでもない。見間違いでなければ、笑うこととは相反するさみしさだろうか。
「おれに付き合え。それだけだ」
“それだけ”のことが曖昧すぎて、無意識に鈴亜の首がかしぐ。
「帰るぞ」
日高は無言の質問を無視して鈴亜の手を引いた。
ほんの近くにある駅に行くと、歩いてもそう無理のない距離なのに、日高はタクシーを捕まえた。
そうして日高が運転手に場所を告げたとき、ふいに鈴亜は気づいた。
タクシーは五分くらいで鈴亜が住むマンションに到着した。
「先生、もしかして、あたしが家にいないってわかってて電話したの?」
それがなんだ、といった様で日高は首をひねった。
「お母さんに頼まれたの?」
「頼んでいたのはおれだ」
「頼んでた?」
「ああ。おまえがおかしな行動をするようだったら連絡がほしいと頼んでいた」
苛立ちを覚える一方で、日高なら不必要な干渉だろうがやりかねないとも思う。
「さよなら」
「柏木、おれが帰ったあとに、また出ていこうなんて企んでいるとしたら間違いだ」
日高は見抜いていた。思わず足を止めたことが認めていることになると気づいたときは後の祭りだ。
「じゃあひと晩中、そこで見張ってれば?」
「五日の夜なら付き合える。それでどうだ」
日高は唐突に交換条件を出した。
「ひと晩中?」
「ああ」
「お母さんに、日高先生と出かけるって云ってもかまわないの?」
「おまえのお母さんが、吹聴してまわらなければかまわない」
「お母さんから何を聞いたの?」
「何も聞いてない。おれが頼み事をした。それだけだ」
鈴亜は背中越しの会話を中途半端に放りだしたまま、家に向かった。
「五日だ。おやすみ」
直後、背後では車のドアの開閉音がして、タクシーは去っていった。
鈴亜はゆっくりと振り向いた。そこにはだれもいない。
まるで、持っている絵の具をすべて出して混ぜ合わせたすえ、どうしようもない色に染まる、そんな気分でそこに居残った陰影を感じていた。