月の裏側〜幸せの続き〜

第2章 NewMoon
1.つらい

「明日から四日間、連休に入ります。連休明けには二者面談がありますので、自分の一年後を、もしくは将来をじっくり考えてください。休み中、三年生ということを踏まえて、息抜きに楽しむにしてものちに悪影響のないようすごしてほしい。では、終わります」
 日高の言葉に続いて、起立、礼、と号令が続いた。

「柏木さん、奥見さん」
 帰り支度が始まったなか、日高は鈴亜とちづるを呼びつけた。
 教師と生徒の間にあってはならないキス。そんなタブーのせいか、二週間をすぎたいまでもキスの記憶は心底に燻っていて、ときどき浮上してくる。いまみたいに目が合ったときは必ず。

 はーい、と軽快に返事をしたちづるは反応も素早く、教卓へと向かう。呼ばれたのが鈴亜一人だったら無視も簡単なのに、ちづるが応じて鈴亜が動かないわけにはいかない。そういうことまで見越して、日高は連絡係のパートナーにちづるを選んだのではないかと疑う。
 あれから担任室で何か手伝わされるということはなくなったが、用事を云いつけられることは何度かある。連絡係から鈴亜をおろさないのは、一度任命した以上、その体裁を保つためだろうか。
 日高は翌日、何事もなかったように平然としていた。口止めをすることも――そんな気配すらもない。鈴亜からスマホを取りあげたとき、そうしようと思えばできたのに、キスの写真は消されないまま残っている。
 よほど無神経なのか、それとも……。それとも、何?
 鈴亜は自分で選択の候補を挙げておきながら、二つめは明確に表せなかった。

「これを後ろに貼っておいてください」
 鈴亜がちづるの横に並ぶのを待って、日高はたったそれだけのことを依頼した。差しだされたプリントは、すでにみんなに配られた五月の予定表だ。
「先生、教育実習の時乃(ときの)先生ってどんな感じ? 慧(けい)って男の人? 女の人?」
 ため息をつきたいくらい煩(わずら)わしいと思う鈴亜に比べて、ちづるは素直で目のまえのことに好奇心いっぱいだ。
「女性ですよ。実習先は二年生だし、奥見さんが楽しみにしてもしょうがないと思いますが」
「だってめずらしいじゃない? 高校で実習生とか」
「めずらしくはありません。高校教師になりたいという人は大勢います。彼女は気さくな人なので話しかけたら応じてくれますよ。奥見さんは確か青南大への進学希望だったでしょう。彼女は青南大生だし、大学のことを聞いてみるといい。じゃ、これ頼みます」

 日高は、話を切りあげようという意思がみえみえの言葉で締めくくった。
 直後、ちらりと鈴亜を見やってから日高は立ち去った。何気ないしぐさにすぎないのか、あるいはメッセージが込められているのか、判別はつかない。

「日高先生、話すのが面倒くさそう。だったら、お喋りに応じる暇はあるみたいだし、自分で貼るほうが早いと思うけど。ね?」
 ちづるは一方的に会話を打ちきられたことが不満そうだ。口もとをへの字にしたちづるの表情は弘亮にそっくりだと思いながら、鈴亜はうなずいた。
「そう思う」
 生徒に頼むほどのことでなければ、ふたりを必要とするほどのことでもない。後ろの黒板に行くと、ちづるは手にしたプリントを磁石でぺたりと貼りつけた。

「まあ、あんな感じだから、ちやほやする子が取り巻くことはないし、陸上部のマネージャー志願も減ったし、いいんだけどね」
「志願が減ったのは、陸上部の寮生活の世話がたいへんだってこと、わからせたせいだって云ってなかった?」
「それもあるけど」
 ちづるはおどけて亀みたいに首をすくめた。
「連休中も部活?」
「そう。連休明けに試合あるから休みは一日だけ。監督も成績を落とせないから必死なんだよね」
「でもうまくいかないときもあるよ。体調とか」
「そうなんだけど。いまの田辺(たべ)監督はここに来て二年めなの」
「田辺?」
 眉をひそめた鈴亜を見てちづるは首をかしげた。
「知ってる人?」
「……会ったこともないのに知ってるかどうかなんてわからないよ」
 名を聞くまで意識したことなどなかったが、人の口から聞くと、しかも不意打ちで聞かされると、ひやりとした気分に襲われる。

「それもそっか。まえの監督は病気で引退したんだけど、六十歳をすぎててベテランだった。わたしは一年ずつ監督としてふたりを見てるんだけど、比べたらやっぱりいまの監督のほうが足りないかな」
「何が?」
「できる子とできない子に対しての接し方が違うというか。まえの監督だったらできない子にもちゃんと指導して伸ばしてあげてたけど、いまの監督は大げさに云えば知らないふりしてる感じ」
「それで寮生活、大丈夫なの?」
 思わず訊ねてしまったのは監督の名を聞いたからかもしれない。なんとなく他人事じゃないみたいな気になっている。

「目立つほどやってるわけじゃないの。わたしが勝手に勘違いしてるだけかもって思うくらい、普通なときは普通」
「普通じゃないときって?」
「にこにこしてるけど目が笑ってない、っていう感じかなぁ」
 ちづるは続けて、その子本人が気づいてないといいけど、と鈴亜が思ったことと同じことを口にした。
「ちづるがさっき云ったみたいに、必死すぎて笑うどころじゃないのかも」
「そっか。そういう考え方もあるね。笑えないのにそんなんじゃだめだって笑ってみせてる感じ? 今日はそういう目で見てみる」
 ちづるは納得した様子で、それから、あ! と何か思い当たったようにつぶやいた。

「鈴亜、連休はどこか行く?」
「行かない」
「気が向いたら練習、見にこない?」
「気が向いたら」
 さらさら行く気がないのは漏れているようで、ちづるは眉間にしわを寄せる。
「弘亮と出かけるつもりだけど、遊園地にしようか映画にしようか迷ってる。鈴亜も一緒に行かない?」
 考えこむようだったちづるが今度は何を云うかと思えば、鈴亜にとっては突拍子もないことだった。
「ふたりの邪魔をする気はないから」

 それは建て前で、ただ、つらい、。
 日高の策略にこうなることは見込まれていたのか、連絡係という役目がある以上、ちづるとは必然と一緒にいることが多くなった。
 鈴亜自身が壁を薄くしたがっているのか、と自分を疑うほど足もとは不安定に揺らいでいた。それは、下弦の月を通り越して、まもなく月が見えなくなる新月へと移行しているからかもしれない。

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