月の裏側〜幸せの続き〜
第1章 Still Mooning -曖昧-
4.キスの脅迫
鈴亜のなかに日高への反感が生まれたが、ちづるはおかまいなく「それと」とお喋りを続けた。
「部活の顧問だからわりと知ってる。日高先生はだれかをひいきすることなくって、だから女子だけじゃなくて男子の間でも嫌いだって云う子はいない感じ。むしろ、男子とのほうが仲良くやってる気がするし、弘亮も……」
ふと戸が開いてちづるは口をつぐみ、ふたりは同時に出入り口へと目を向けた。
「弘亮! どうしたの? 部活は?」
「休憩で抜けだしてきた。二年の女子マネージャーたちがおまえに助けてほしいってさ」
半袖のTシャツにハーフパンツという運動着姿の弘亮は、親指を立ててグラウンドがある方向をさした。
「何かあった?」
「マネージャーになりてぇっていう女子が殺到中だ。甘くないってとこ、見せてやれってことだろ」
「それって日高先生効果じゃないの? 去年もそうだったけど」
「指導は監督に任せときゃいいことだし、日高にしばらく顔出すなって云っとくか」
冗談とも取れないような雰囲気で顔をしかめた弘亮はため息をついた。
「もう顧問だってわかっちゃったんなら手遅れだよ」
ちづるは呆れた気持ち半分、興じた気持ち半分で肩をすくめた。そして、鈴亜を見やる。
「弘亮は陸上部なの。で、わたしがマネージャー一号。それまではいなかったんだけど、押しかけちゃった。それで、日高先生は顧問で、監督は外部から呼んだ専門の人がやってる」
「青学東の陸上部は伝統的に強いんだ。知ってる? 駅伝名門の青南大チームはほぼここの出身者だし」
ちづるのあとを次いだ弘亮は、明らかに鈴亜に向かっている。
「ううん、ごめんなさい、知らなかった」
「べつに謝ることねぇけど」
鈴亜の無愛想さにはもう慣れたのか、弘亮は失笑して首を横に振った。
弘亮は一見、笑わなさそうなとっつきにくいイメージがある。日焼けをした顔立ちはパーツがくっきりとしていて、恰好いいランク付けをするなら上位に出てくるだろうが、口がわずかに“へ”の字になっていて、そのせいで不機嫌そうに見えてしまう。つっけんどんな話し方を気にしなければ、普通に付き合っていけそうなタイプだと思えた。
いや、普通以上かもしれない。だからちづるは何年も付き合っている。ちづるとふたりセットで見ていると、鈴亜はやはりそこから顔を背けたくなった。
「奥見さん、部活行っていいよ」
「じゃなくって、ちづる!」
耳ざとく気づいて、ちづるは即座に突っこんだ。
「うん。とにかく行ったら? 先生から云われたことはもう終わってるし、逆に先生が戻ってきてくれたらいいし」
「あ、そうだね。生徒に担任の仕事やらせて自分はかけっことか理不尽だし」
「かけっこ、だって?」
陸上がよほど好きか真剣か、弘亮はちょっとしたちづるの発言を捉えて不満そうにくちびるを歪めた。
「弘亮の話じゃないよ。日高先生の話」
弘亮をからかうように見上げたちづるは、鈴亜に目を戻した。
「じゃあ、かわりに先生に戻れって云ってくるね」
バイバイと続けて、ちづるは弘亮と一緒に出ていった。
戸の閉まる音を待って鈴亜はため息をついた。
東京に戻ったら、もしかしたら祐真と少しは近づけた気になって“違う人”は必要なくなるかもしれないと思っていた。けれど、やはり思いだせなくなりそうな怖さは付き纏う。
生きている、ことと、生きていた、ことの差は歴然だ。遠目にしているぶんにはまだやりすごせる。もしくは無視できる。けれど、生きている幸せが目のまえにあると、止められた幸せが鈴亜を責めだして、気力を奪い、かわりに後悔をいっぱいに満たす。
ここに生き(い)て。
月の裏側から鈴亜が見えるように――そんなことを望まれたくなどなかった。
たまらず鈴亜は席を立った。
バッグの持ち手をつかみながら出口のほうを向いたとたん、戸が開いて日高が現れた。避ける間もなく目が合う。
「終わりました。帰ります」
「待て。コピーと封筒入れがある」
通さないとばかりに日高は後ろ手に戸を閉めた。ぴしゃりとした音が扉の向こうを遮断して、まるでここだけ孤立したような錯覚に陥る。
「……生徒がそういうことするなんて聞いたことありませんけど」
「生徒に見られてまずいものをやらせてるわけじゃない」
日高は微妙に論点をすり替えて応じる。すたすたとスリッパの音を響かせて傍に来た日高は、「どこだ」とプリントを手に取った。
「……一カ所だけ違ってます。日付と曜日が合ってませんでした」
鈴亜の返事を受けてプリントに目を落とした日高は、オーケー、と自分のデスクに行った。
日高は腰を折って、開いたノートパソコンのキーを叩いて何やら操作をし始めたが、それもすぐに終わる。長テーブルの向こうにあるプリンタが勝手に動きだした。
そうして戻ってきた日高は鈴亜のまえに茶封筒を置いた。鈴亜に座れとも云わずにプリンタのまえに行って、背を向けたままプリントアウトされた用紙を確認しだす。
さっきの鈴亜を閉じこめるような気配は考えすぎだったのか、いまは立ち去ってもかまわないという無頓着さが見える。
その背中を見ながら、あまり感じることのない薫りが鈴亜の嗅覚を刺激している。その薫りは記憶にある薫りと重なる。胸が締めつけられるような苦しさに喘いだ声は、プリンタの操作音に紛れた。
プリンタのコピーが始まると、日高は鈴亜に向き直った。云いたいことがあると察しているように首がかしいで鈴亜を促した。
「間違い、最初からわかってませんでした?」
日高はプリントに目を落としただけで確認したふうには見えなかった。しばらく待っても鈴亜の指摘に返事はなく、ただ薄らと笑った。答えないということが答えなのだ。
どういうつもりだろう。その疑問を口にすることはなく、鈴亜はちづるが座っていた席からバッグを乱暴に取りあげた。テーブルが揺れたかと思うと、積みあげられた茶封筒に振動が伝わり、ばらけて何通か床に落ちた。
日高がテーブルをまわってくるのを確認しながら、鈴亜は制服のポケットに手を入れつつ床にしゃがんだ。二通めを拾いあげたところで日高が目のまえにかがむ。
「せんせ、煙草吸ってる?」
封筒に手を伸ばすのに伴い、伏せていたまぶたが上がり、間近で目と目が合う。日高は近いからといって慌てる様子もなく、鈴亜はかえってじっと見られている気がした。
「友人からはヘビースモーカーだって云われる」
「だと思いました。匂いが染みついてる」
「臭いか?」
おもしろがった声は余裕だらけだ。
砕けた言葉遣いに変えたのは手懐けるため? そんな自分の疑問が鈴亜を焚きつけた。
「確かめてあげる」
鈴亜は床に膝をついたかと思うと伸びあがって日高のくちびるに咬みついた。
咬みつく寸前の、鈴亜の挑むような眼差しと笑みを浮かべた口もとは、そぐわないからこそ危険だと知らせるには充分な力を持っているはずだった。
それなのに日高は避けもしない。
咬みつくといっても歯は日高のくちびるの上を滑っただけで、押しつけたぶんだけ、鈴亜のくちびるがぺたりと日高の口を覆った。
鈴亜を押しのけることもなく、それがどういう結果になるかも思い至らないのだろう、日高は隙だらけだ。
鈴亜は制服のポケットに入れた手を出して、スマホを手探りで操作する。指先はうまくタッチできたようで、まもなく電子音が沈黙した部屋に鳴り響いた。
顔を離すと、日高の目が音の出所を探すようにさまよい、鈴亜の右手にたどり着いた。スマホを一瞥した日高は鈴亜へと視線を戻した。
じっと見つめるけれど、日高の顔には鈴亜が思っていたような焦りも怖れも表れない。
どういうことか、まさかわかっていないのか。鈴亜は今し方撮ったばかりの画像を呼びだした。すると、ふたりのくっついた顔がアップで撮れていた。
「これ、だれかに見せてもいい?」
スマホの画面を向けられた日高は、画像に目を留め、それからゆっくりと目を上げた。
その様子にやっぱり慌てたところはない。
どういうつもりだろう。
日高はそんな疑問ばかり鈴亜に押しつける。
キスシーンなど写っていなくてもよかったのだ。こんなことをする生徒だとわかって避けてくれればよかった。それなのに、まったく役に立っていない気がする。
それどころか。
「見せたらどうなるだろうな」
日高は可笑しそうな笑みさえ浮かべた。
「おまえがキス下手だってことはわかった」
話の焦点までずらした日高は、あからさまにおもしろがっている。
そして、鈴亜の手からスマホを取りあげると、日高は勝手に弄りだした。教師たちのデスクのほうからふるえるような音がしたかと思うと、すぐさま切れる。鈴亜が取り返そうとしないのをいいことに、日高は操作を続け、やがて鈴亜の手のひらに返した。
「おれのを登録しておいた。何かあれば電話していい」
「何か、って例えば何?」
「例えば学校のことで――行事や習慣でわからないことがあったときだ」
キスをおもしろがるほど不真面目かと思えば、生真面目なほどの真っ当な答えが返ってきた。日高のことがまったくわからない。
「自分でどうにかやれます。心配しなくても先生を困らせるつもりなんてないし、だからほっといてください。面倒くさいから」
立ちあがりかけたとたん、鈴亜は腕を取られて小さく悲鳴を漏らした。バランスが崩れてとっさに両手と両膝を床に着いた。
「ほっとくのがラクならそうするけどな」
「先生はいい先生だって聞きました。でも、自己満足に付き合う気はありません」
反抗的だったり、なじめなかったり、そんな生徒は教師の仕事に熱心だからこそ日高のやり甲斐をくすぐるのかもしれないが、気分をよくさせるために手を貸す気にはさらさらなれない。
「確かに柏木を付き合わせるのは自己満足だ。けど、いい先生としてじゃない、と云ったら?」
「……そう云ったからって何が変わるのかわかりませんけど」
「まったく違う」
「あたしにとっては同じです」
「おれは、いい先生になろうとしたことはない。証明しようか?」
「……証明?」
「だれかの移り香がじゃなく、本当にヘビースモーカーかどうかはさっきみたいなキスじゃわからないだろ」
云い放った直後、日高の顔は至近距離に来てぼやけた。顔を傾けたかと思うと、日高は鈴亜の口をふさいだ。くちびるを舌で割り、強引に口内に侵入してくる。
鈴亜は無自覚に目を閉じた。すると、煙草の薫りが口のなかに広がる。いや、薫りは鼻で感じるものだ。感覚を取り違えているのは、同じだからだ、と気づいた。すべての感覚を刺激するキスは、こんなふうに強引に始まって、煙草を薫らせていた。
鈴亜はパッと目を開いた。思いだしたキスが、同じであることによって掻き消されそうな怖れを抱く。
顔を引けば、くちびるでしか繋がっていないキスは簡単に終わった。心なしか、ふたりの呼吸が不協和音を奏でている。
この人じゃだめだ。最初に会った日に直感したことがいまのキスで裏づけられた。
日高は、鈴亜から祐真を奪う人だ。そんな気がした。
「いい先生じゃない証明がキス? 自信満々みたいだけど、先生のキスはうまくない」
鈴亜の評価は男のプライドを傷つけるはずも、日高に堪(こた)えた様子は見られない。
「自信満々? そう見えるとしたら、柏木、おまえが思ってるほどおまえは利口じゃないってことだ」
日高は薄く笑い、いとも簡単に鈴亜のプライドに仕返しをした。
「利口になりたいなんて思ってないから。先生、あたしがキス下手なのは、キスの仕方を憶える暇がないくらい、キスに夢中にさせてくれる人がいたから。下手でも今日のはファーストキスじゃないから。セカンドキスはだれだったか忘れたし、日高先生が何人めかもわからない」
日高は眉をひそめた。
「どういうことだ?」
「あたしのことをどんなふうに想像してるのか知らないけど、奥見さんとはまったく違います。連絡係からおろすか、そうしないなら連絡係にかこつけてあたしを呼びださないでください」
今度こそ立ちあがると、日高は出ていく鈴亜を引き止めなかった。