月の裏側〜幸せの続き〜

第1章 Still Mooning -曖昧-
3.教師なんて嫌い

 転校してきて一週間、初日の懸念は取り越し苦労だったようで、鈴亜は女の子たちから絡まれることはなかった。単に、転校生への好奇心から話しかけられることもあったけれど、にこりともしないで応じていると、週末辺りにはもう寄りつく人もいなくなった。
 そんなテリトリーができつつあった平穏な時間もつかの間。
「柏木さん、一緒にごはん食べない?」
 と、問いかけながらも鈴亜の返事を待たずに、三つまえの席にいた子が一つまえの空いた席に移ってきた。彼女は椅子を逆向きにするとすとんと座った。
「わたしはちづる、奥見(おうみ)ちづる、だよ」
 香奈よりも短いショートボブの彼女は、わずかに首をかしげてにっこりと笑って見せた。

 ちづるが人懐っこく見えるのは顔のパーツが丸っこい感じであり、加えて笑顔のせいだ。その実、目を合わせると利口そうな意思が見えている。そのとおり二回も名乗ったのは、鈴亜が愛想悪いという以上に人に無関心だと気づいているせいに違いない。無神経なのかどうか、鈴亜の意向を汲み取っていないのは確かだ。

「鈴亜、って呼んでいい? わたしのことは“ちぃ”でも“ちづる”でもいいよ」
 ちづるは持ってきた弁当袋を開いて、取りだしたランチボックスを鈴亜の机に置く。ふたを開いたちづるは三分の二がサンドイッチというなかから、卵サンドを取りだすと鈴亜にさしだした。
「鈴亜、食べてみて。わたしが作ったの。といっても特別手の込んだものじゃないけど」
 鈴亜の返事は必要ではなかったようだ。ちづるは勝手に呼び捨てて、おまけに鈴亜が受けとらないと見たのか、ふたの上に強引に卵サンドを置いた。

「……ありがとう」
「鈴亜の卵焼き美味しそう。お母さん?」
 お礼はしかたなくといった雰囲気をありありと出しているにもかかわらず、ちづるは無頓着に話しかける。流れからどう穿(うが)っても、催促しているとしか思えない。
「……うん。欲しいならどうぞ」
「ほんと? ありがとう」
 鈴亜が弁当箱を少し押しやると、卵焼き一つを遠慮なくフォークで突き刺し、ちづるは口に運んだ。
「んー甘くて美味しい。卵焼き、すごく好きなんだけど、わたしが作るとすかすかになっちゃって、こんなにぎゅうぎゅうな感じにできないんだよね」
 口をもごもごさせながら喋るちづるは、行儀がいいとは云えない。ただ――
「いつも自分で作ってくるの?」
 気づけば鈴亜は訊いてしまっていて――
「わたしのお母さん、看護師なの。夜勤とかで作れないときに、たまに気まぐれで自分で作るってだけ」
 と、ちづるがおどけて目を丸くして見せると、鈴亜からなんらかの反応を引きだそうとわざとやったのではないかと勘繰った。

「偉いね」
 鈴亜は端的な称賛ですませ、弁当箱を引き寄せると残った卵焼きからはじめて自分の弁当を食べた。そうやって卵サンドを後回しにすることで、暗によけいなことだという意思表示をする。
 ちづるも無理に喋ることはなく、鈴亜は目を上げることもなかったから、どんな表情でいるか知る由はなかったが、明日はきっと近づいてこないだろうと思った。

 鈴亜は自分の弁当箱を空っぽにして、やっと卵サンドを取った。一口めを食べてまもなく、味付けがマヨネーズだけじゃないとわかった。
「嫌いだった?」
 鈴亜がわずかに眉をひそめたのに気づいたようで、ちづるは覗きこむように問いかけた。
「ううん、美味しい。チーズが入ってる?」
 またつい訊ねてしまうと、ちづるは、「そうなの!」とはしゃいだようにして続けた。
「普通のだけじゃ飽きちゃうから、プレーンなのとチーズ入りとごちゃごちゃにしてたの。だから鈴亜は大当たり!」
「……でも、半分はチーズだったんでしょ」
 なんとなく突っこんでみると、ちづるは目をくるりとさせておどけた。
「あー、大当たりっていうのは云いすぎたかも」
 そう云ったあと、ちづるはふとじっと鈴亜を見つめたかと思うと、なぜかうれしそうに笑う。最初のにっこり笑顔は作ったようだったのに、いまは本物だ。

「ちづる!」
 鈴亜が首をかしげたとき、廊下から男の子の声がした。ちづるからワンテンポ遅れて見ると、背の高い男の子が教室に入ってきた。
「食べたか。おれ、外行くけどどうする?」
「行く行く」
 ちづるは乗り気で応え、それから鈴亜を振り向いた。
「紹介するね。中学から腐れ縁っていう、わたしのカレシ。一組の風間弘亮(かざまこうすけ)。弘亮、柏木鈴亜さん」
 否応なく紹介されると、無視するわけにもいかない。鈴亜はため息を押し殺して見上げた。
「弘亮、でいいよ。よろしく」
 鈴亜はうなずいた。それ以上の反応を待っているのだろう、気まずい沈黙が横たわる。それを取り繕ったのはちづるだった。
「弘亮、行かないと昼休み終わっちゃうよ」
「あ、だな」
「じゃ、鈴亜、またあとでね」
 鈴亜がうなずくのを認めると、ちづるは手を小さく振って弘亮と教室を出ていった。

 ちづるが弁当袋をしまう間、弘亮は傍で待っていた。教室を出るまえのそんなふたりの姿が鈴亜のなかに居残り、焦燥を甦らせた。見守るようだった眼差しを思い出と呼ぶには苦しすぎた。

「柏木さん」
 声がしたほうに反射的に顔を向けると、今度は日高が戸口に立っていた。
「奥見さんは?」
「……外に行かれたと思います」
「放課後、プリントの準備を手伝ってほしいんですが、奥見さんにもそう伝えてもらえますか」
 日高はよそ行きの喋り方で命令を下した。

 なぜ自分が。鈴亜は理不尽だと訴えたくなる。
 そもそも、ちづるが鈴亜に近づいてきたのは日高のせいだ。なんのつもりか、先週末、いきなり連絡係という係をつくった日高は、勝手に鈴亜とちづるを指名した。
 気が立っているいま、鈴亜はすぐには返事をする気になれない。
 日高は何気なく視線を逸らしてまた鈴亜に目を戻した。そのしぐさが、無視すれば人の目を引くことになるのだと気づかせた。

「わかりました」
 日高はうなずいて立ち去った。その寸前、一瞬だが、じっと見つめられるような感覚がした。一瞬なのにじっとというのはそぐわない気もするが、鈴亜は日高と目が合うたびにそんな感覚がしていた。


 ちづるは昼休みが終わるぎりぎりになって戻ってきた。日高からの伝言をして、それから放課後になると逆にちづるのほうから鈴亜を誘いにきた。そろって三年廊下の端のほうにある担任室を訪ねると、数人いるなかで当然だろうが日高がいち早く気づいた。
「入ってください」
「失礼しまーす」
 ちづるが少し間延びして云い、続けて鈴亜はかすかに会釈してなかに入った。
「こっちです」
 日高はデスクとその背後にある棚の間を通って奥へと先立つ。長テーブルを二つくっつけたところに行って、椅子を二脚引っ張りだした。鈴亜たちがパイプ椅子に座っている間に、日高は手にしていたプリントをそれぞれのまえに据えた。

「原稿チェックを手伝ってもらいます。スケジュールの日付とか、行事表と違ってないか、生徒の名前を間違ってないか、そういうのがあれば書きこんでほしい」
 日高はいったんデスクに戻ると、赤鉛筆を二本持ってきた。
「日高先生、これって生徒がすることですか?」
 思っても口にはしない鈴亜と違ってちづるは率直にぶつけた。それが不満か、ただの疑問かはちづるのみぞ知るところだ。
「三年のうちに何かしらの係を全員にやってもらいますよ。たまたま連絡係が奥見さんと柏木さんだというだけです。些細なことであろうが、責任を持つこと、参加することには意義があります。いまはわからなくても、きっとわかるときがくるんです」
「そうやって云いくるめるの、日高先生は上手そう。でも、わたしはほかの子たちみたいに騙されませんから」
「騙すとは人聞きが悪いですね」
 日高は眉を跳ねあげた。正面に立つ日高の顔を目を凝らして見れば、怒っているわけではなく、おもしろがっている。

「まあでも、わたしを選んだ理由はわからなくはないかも」
 ちづるは得意げだ。日高はニヤリとした笑みを浮かべる。
「それが正解なら、まえもってさすがと云っておきますよ。じゃ、ちょっと部活の様子を見てくるので、チェックを終わらせて待っていてください」
 含み笑うようにして、丁寧な言葉ながら命令が下された。その目は、わずかに口を尖らせたちづるから、鈴亜へと移動してくる。それは鈴亜にとって不意打ちで――
「いいですか?」
 という問いかけに考えるまもなく反射的にうなずいていた。
 まるで約束を取りつければ破ることはないと思いこんでいるみたいに、日高は満足そうな面持ちになった。うなずき返した日高は、あとで、と離れていった。

 見守っていると、デスクを整理してから日高は廊下へと出ていき、鈴亜とちづるは顔を見合わせる。
 そして、ちづるは肩をすくめ、鈴亜はため息をついた。

「さっさと片づけちゃおう。わたしも部活あるし」
「うん」
 なんの部活かとは訊かなかった。よけいなお喋りに発展しそうだし、鈴亜にとってはなんの影響も及ぶことのない不必要な情報だ。
 さっそくテーブルに向かい、ふたりでチェックをし始めた。
 そうしているうちに先生たちは入れ替わりしながら、みんなが部活だと云って結局はだれもいなくなってしまう。

「ね、鈴亜。日高先生っていいよね」
 ちづるの発言は唐突に聞こえた。『いい』という意味もよくわからない。
「そうだね」
 と、手短に応じると、ちづるは隣から鈴亜の顔を覗きこんできた。いまにも吹きだしそうな顔だ。
「鈴亜ってクール! 少なくともカレシいない子はみんな、いいねって思ってるはずだけど」
「でも先生だから、はしゃいでもどうにもならないし」
「それはそうだけど、可能性がゼロだって思ってる子も少ないと思う。日高先生は独身だし、カノジョはいないみたいだし」
「先生は、いてもいないって云うのはあたりまえみたいな気がするけど」
 ちづるはちょっと目を見開いた。
「否定するね」
 この声音はおもしろがっている。
「……だから、あたりまえのことを云ってるだけ」

「そう、あたりまえだよね。わたしがいいねって思うのは、いちいち生徒の都合とか事情とか押さえてうまく使ってるってこと。連絡係って、学級委員と同じくらい担任と密接になるでしょ。わたしと弘亮が付き合ってること、三年生で知らない人はいないってほど知られてる。そういうわたしが先生の近くにいても嫉妬にならない。鈴亜の場合は、転校生だし、早く慣れてもらうための手段だって云えば、クラスの子たちも納得せざるを得ない。日高先生は自信過剰というのは別次元で、自分が人気あるってことはわかってるし、教師だからこそ揉め事の発端になるわけにはいかないじゃない? だから些細な争いが起きないようにしてる。プラスで、わたしと鈴亜が友だちになれれば一石二鳥みたいな」

「一石二鳥、って?」
「あ、そこは深い意味じゃなくって、単純にいいことが重なるっていう意味」
 鈴亜はちづるのほうこそよく考えていると思った。
「まえも担任してもらったことあるの?」
「一年のときにね。日高先生が担任としてはじめて持ったクラスだったんだよ」

 日高は落ち着き払っているが、自己紹介で今年二十六歳になると云った言葉を思いだせば、まっすぐ大学から就職したとしてもいま四年めで、ベテランとは云えない。ただ、ちづるの話を聞くかぎり熱心そうだ。
 けれど、それを押しつけられたくはない。教師なんて嫌いだ。

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